第6話
期末テストも終わって、なんとなく夏休みに向けて気分が高揚してくる頃のことだった。
渚君が珍しく学校を休んだ。遅刻は日常茶飯事だったけど、丸一日、全く学校に来ないというのは、転校してきてから初めてのことだった。
「誰か、プリントを届けてくれる人はいませんか」
帰りのホームルームで、先生がみんなに問いかける。
「沢田さん、渚君と仲いいじゃない。届けてあげたらー」
誰かがそんなことを言い出す。そうだそうだと盛り上がり、私が届けることになった。私たちがよく一緒にいることを、みんなそれなりに見ていたようだった。渚君の家を偵察するいいチャンスでもあった。
渚君の家は、学校から歩いて十分くらいの場所にあった。聞いた住所をもとに尋ねると、古くからあるような平屋があった。初めて歩く道にある初めて見た家だったけど、表札がかかっていたので、多分ここでいいのだろうと納得し、インターホンを押す。
スピーカーから「はい」、と声がして、「沢田です」と答えるとドアが開き、普段着というよりも寝巻きに近い服装の渚君が現れた。
「あの、先生からこれを持っていくように頼まれて」
「ありがとう」
「どうしたの? 風邪でもひいたの?」
「うん、ちょっと昨日夜中外にいたから……、でも治ったから、明日は行くよ」
そのまま帰ったほうがいいかなと思いつつも、せっかく来たのだし、彼がどんな家に住んでいるのか見物してみたくもあり、
「ポピー、どうなったの」
と尋ねてみる。
「ああ、また咲いたよ。見てみる?」
なんとか上がりこむ口実ができて、しめしめと思う。
庭を歩いて、縁側に案内される。部屋の中はすっきりしていて、窓際に植物の鉢がいくつか置いてある。
「これ、全部ばーちゃんの」
「へえ」
ポピーは、縁側のそばに置かれていた。白いプランターに、苗が三本植えてある。白、山吹色、サーモンピンクと三色あり、姿はひょろひょろしていながらも、色はきっぱりしている。普段あまりお目にかからない花だったけど、「おお」と歓声を上げてしまった。
「これ、渚君が植えたの?」
「うん。母さんは好きな花を買ってくるだけで、何もしないから」
「ポピーって、可愛い花だったんだね」
今まで、スーパーで黒いぺらぺらのポットに入れられて売られているのを見たことはあったけど、ひょろひょろしてて変わった花だな、くらいにしか思っていなかった。ちゃんと、こうして大事にされているのはあまり見たことがなかった。たいした寄せ植えではないけれど、センスの良さが感じられた。私だったら、もっと普通に植え替えることしかできないだろうけど、渚君はちゃんと考えて植えているようだ。少しでも花がきれいに見えるように、色のバランスや、葉のつき具合まで見ながら植えているのかもしれない。
渚君はサンダルを履いて庭に出ると、その辺に生えている葉を摘み、お茶を淹れてくれた。ミントティーだった。
「風流だね」
「なんでこんな子になっちゃったんだろうね」
おかしくなってきて、二人で笑う。
「ねえ、ピアノ弾いてよー」
と言ってみる。
「なに弾いたらいいの?」
「何でもいいけど、そうだな……まあいいや、お任せする」
「うーん、お任せって、難しいなあ」
渚君はさっとピアノに向かい、一度膝の上に手を置いた。鍵盤の上に手を移すと、そこにいたのは、もうさっきと違う人だった。
左手の三連符に合わせて、右手はメロディを奏でる。それほど複雑な曲ではなさそうだけど、どこかで聴いたことがありそうでいて、ときにはっとするような音が入っていて、とても新鮮な感じがする。明るくて、奇抜というわけでもないのに、どこか知らない世界を垣間見ているかのような気にさせる。
男の子が弾いているので、女の子よりもタッチが強めなのかもしれない。ピアノの生の音が、ばんばんと伝わってくる。耳栓していたとしても空気の振動が伝わってきそうだと思えるような、そんな演奏だ。今の渚君が、丸ごと伝わってきているようで、ピアノってすごいなと思う。
ピアノの生演奏なんて滅多に聴かないので、比較する対象が音楽の先生の演奏くらいなのだけど、明らかに全然違う。技量の問題なのか、場所の問題なのか。音楽室は広いから、その場で生まれた音がどっかにとんでいってしまうのかもしれない、生徒もたくさんいるし。
いや、やはりそんなことではない。渚君がすごいのだ。なんだかよくわからないけど、この人は、より生きているという感じがする。あるいは、生きている感じが私の求めているものに近い、とでも言ったからいいのか。
義務でやっているのではなくて、中にあるものが抑えられなくて、自然とあふれ出てしまうような。無理やり絞り出しているのではなく、みずみずしくて、生き生きしていて、それがあるだけであたりが明るくなっていく。
メロディーは、やがて強くなり、何か目的や意思を持っていくように感じられたかと思うと、でもまた元に戻って、最初の旋律が再び現れ、そしてゆっくりと終わっていった。ほんの数分足らずの出来事だった。
同い年の男の子が演奏しているから、というのもあったのかもしれない。大人ではなくて、生まれてから、自分と同じだけしか生きていない子が演奏していた。うらやましいとか、嫉妬する気持ちもないとは言えないけど、でもそれを上回るほど、あまりにきらきらしていたので、素直に受け入れられたのだろう。
普段は謎な渚君の世界が、ほんの少し、垣間見れた気がした。私に理解できるものも、できないものも、とりあえずばーんと入ってきた、そんな風に言えばいいのだろうか。出口が限りなく広く開いたのが、一瞬見えたようだった。その音楽は私を遠くへと連れて行ってしまったみたいで、曲が終った後もなかなか不思議な感じから抜け出せなかった。
「これ、なんていう曲なの?」
「見知らぬ人々と国々についてって言うんだ」
「なんというか、すごくよかったよ。不思議なんだけど、あったかくって、優しい感じで。遠くの世界へ行っちゃう感じだった。題名聞いて、納得した」
「うん」
渚君はピアノから離れると、ミントのお茶を啜った。
「ピアノはちゃんとやるんだね。これも、目的地はなくて、ふらふら練習してたらできるようになるわけ?」
「うーん、あんまり考えたことなかったな。でも、確かに、この曲を弾きたいっていうのはあっても、誰々みたいな演奏がしたいとか、コンクールや試験を受けたいって思うことはないのは確かだね。ある程度の練習はするけど」
「例えばさ、チェルニーとか、基礎練習のテクニックとか、ひたすら指の練習してるやつ、ああいうのは、やるの?」
「うん」
「どうやって妥協してるの?」
「妥協してる……、ううん、別にそんなことはないと思うけど。なんていうか、ピアノを弾いてると、あるいは弾いてなくても曲のこと考えていたりすると、こうしたいっていうのが、突然降ってくるんだよね。でも、技術が追いつかないと、そういう風に弾けないじゃない。
頭で覚えてても、体に染み込ませないと、すぐ忘れちゃうから。だからそこは、スポーツ選手が毎日筋トレするみたいなもんじゃないかな。たしかに、大変だよね。言われてみると、よくやってるよね。ピアノがどうでもよかったら、もっと楽なのかも」
渚君が一丁前に「もっと楽なのかも」なんて言っているのを見るのは、新鮮だ。
「だから、できるだけ毎日、できるだけ何回も弾かないといけないんだ。繰り返して、体が覚えるまで。それは、息抜きで弾いてるときもあるけどね。でも、何度も繰り返すことが大切なんだよね。ある日なにかが降ってきたときに、ぱっと捕まえられるように」
「渚君は、ピアノが好きなんだね」
「うん。始めたきっかけは単純で、小さい頃、たまたま家にあったのがピアノだったからなんだけど、一度はまり込んだらなかなか抜け出せなくなっちゃって」
それからしばらく、二人とも無言でいた。
「でも、ギターもやってみたいんだよね」
「それは、なにか理由があって?」
「僕、きっと引越しをたくさんすると思うんだ」
そうしたら、私に手紙をくれたりするのかな、などと思ってみる。
「今もしょっちゅう引っ越しているけど、全然苦にならないし、返って一箇所にとどまっている生活が考えられない。今は親の都合で引っ越しているけれど、きっと自分で生計を立てるようになってからも、引越しが多いと思うんだよね。
ピアノだと重くて持ち運びが大変だから、だからギターもできるようになりたいんだ。まあ、そういうときが来たら、すんなりできるようになると思うけど」
「すんなりって?」
「誰かがギターをくれたり、ギターの先生が現れたり」
意外と他人任せなんだなと思う。
「そういえば、今の曲、CD売ってるかな?」
「どっかにあるんじゃないの。気に入った?」
「まだわかんない。もう何回か聴いたら、気に入るかどうかわかるかも」
「じゃあ、もう何回か弾いてみる」
結局私はその後CDを買うことはなかった。おそらくは、このときの印象があまりに強かったのだろう。
ライブの演奏が、録音されたリピート可能なものになってしまって薄まってしまうことに、恐れをなしたのかもしれない。だから今、それがどういう曲だったかそれほど正確に思い出すことはできない。しかし、そのおかげでこのとき感じた高揚感や、異国へ連れて行かれるような、得体の知れないわくわくした気持ち、これからどんどん人生が楽しくなっていくかもしれないという期待、そういったものは、形を変えつつも、体のどこかに残っている気がする。それはうれしいことだ。
そんなにマイナーな曲でもないだろうけど、それから後の日々の中で、テレビやラジオでそれらしき曲を耳にしたことはない。私にとっては、本当に大事なものは、なかなか公共の電波を通してはもたらされないのかもしれない。
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