第4話

 渚君は美術室で、よくキーボードを弾いていた。

 放課後の美術室、なんで放課後の音楽室ではないのか。理由は簡単で、ピアノは学校のものだったから、授業以外の目的で、ましてや先生ではなくて生徒が弾くだなんて不可能だったのだ。立派なグランドピアノは授業以外のときには鍵がかけられていて、音楽の先生以外は鍵にすら触れないようになっていた。

 一方、美術準備室にこっそり置いてあるキーボードは先生の私物だから、授業中でなければ好きなだけ弾いても問題はないのだった。美術室という空間だって公共のものなんだから、一部の先生や生徒が独占するのはおかしい、と言われてしまえばそれまでだけど、ほぼ活動していない美術部があったので、放課後も人の出入りがあるのは特に不自然ではなかった。また、美術室は校舎の中でもすみのほうに追いやられていたので、あまりみんなの視界には入らず、とやかく言われることもなかったのだろう。

 渚君が弾いていたのは、マイ・フェイバリット・シングスとか、渚のアデリーヌだとか、さわやかな曲が多かった気がする。懐かしの曲なら、私は、恋は水色とか、追憶だとかもっとしっとりしたのが好きだったけど、リクエストしてもあまり弾いてもらえなかった。渚君がよく弾いていたのは、渚君が好きな曲だったのか、それとも先生が好きな曲だったのか。もしくは二人の好みが重なった曲だけが演奏されていたのか、いまだによく知らない。

「なんでいつも美術室へ行ってるの?」

 そんなことを、訊いてみたことがあった。

「史ちゃんって、疑問が多いんだね」

「べつに、無理に答えなくてもいいけど」

渚君は「へへ」と笑った。

「先生の植物に水遣りさせられてるんだ。先生、いつも忙しいから」

「させられてるって……。先生は自分の大事な植物に、無理やり水遣りさせるような人じゃないと思うんだけど」

「厳しいなあ」

渚君は笑ってごまかした。

「なんとなく、楽な方へ、楽な方へと流れていくと、美術室にたどり着いちゃうんだ」

「四階にあるのに、楽なの?」

「そういえば、そうだね。言われてみれば、いつもやたらと階段を登っているなあ」

 一人で納得したようにふんふんと頷く。

「僕は、目的地を決めて行動するのは、あんまり好きじゃないんだよね。どこにたどり着くかわからないところを、気の向くまま歩くのが好きなんだ。初めからどこに向かってるか知ってるよりも、考えてもみなかったものが見つかって、面白くない?

 図書室の中で目隠しして、すいか割りみたいに右、左ってみんなに言ってもらって、そうやって見つけた本を一日読みましょうって、学校の授業がそういう風だったらすごく楽しそうだよね」

 にこにこしながら、ふわふわとおかしなことを言う。

「目的地がわからないって言っても……、こんな狭い校舎内でふらふらしたって、行ける場所なんて限られてない?」

「でも、初めから美術室のことだけを考えてたら、美術室のことだけしか頭に入らなくない? なにも考えないで歩いているとね、一年三組の島村さんが書いた絵が廊下に貼ってあって、それがすごくぴんとくるなとか、合唱コンの練習でモルダウ歌ってるクラスの横を通ると、本番の体育館で聴くときよりも、なんか迫力あっていいなとか、色々な発見があるんだよ。そうやってふらふらしているうちに、いつの間にか美術室に着いてさ、おお、僕が今日くるべきだったのはここだったのかってわかる、そういうふうに暮らしてた方が面白くない? 僕はそっちのほうが好きだけどな」

「そんなことしてたら、いつまで経っても目的地にたどり着けないじゃない」

 渚君は本当に不思議そうな顔して、私を見た。

「なんでそんなに急がないといけないの?」

「来年は高校受験なんだよ。ある程度、将来何して暮らそうとか、どこの高校行きたいとかさ、考え始めた方がいいんじゃないの?」

「ううん、今から目的地を決めても、絶対変わると思うから、無駄なんじゃないかな」

 渚君と話していると、いつもけっきょくは、言いくるめられるわけではないけど、向こうの言うことの方がなんだかしっくりくるかなあと思えてしまう。それとも私も、そんな風に生きてみたいと、どこかで思っていたのだろうか。

「史ちゃんも、これから放課後美術室来れば? 先生、ひましてるから喜ぶと思うよ」

「ひまなら、先生、帰ればいいじゃん」

「帰ってもひまなんじゃないの」

 そんなことを話していると、私も美術室へ行ってみたくなった。

 当時の私には、たまたまとか、ときおりとか、なんとなくとか、そういう言葉はあまりなかった。

 決めたら毎日のように行きたい、日課にしたいと思ってしまうタイプだった。結果的に、毎日のように美術室に足を運ぶ渚君としていることは同じだけど、過程はまるで違った。

「これ、なんていうの?」

 植物の名前なんてそんなに真剣に覚えるつもりはないけれど、ひまなので尋ねてみる。

「モンステラ」

「これは?」

「ギボウシ」

「じゃあ、これは?」

「レインボーファーン」

 渚君は、どれをとってみてもすぐに答えることができた。

「やっぱ、詳しいんだね、植物のこと。どうりで、先生が水やりを任せられるわけだ」

「だから、無理やりやらされてるんだって」

 やはり、そこだけは譲れないらしい。

「でも僕は、もともと知ってたんじゃなくて、先生に訊いて覚えたんだよ。母さんも植物が好きだから、それなりに知ってはいたけどさ」

「じゃあ、きっと家にもああいうのがたくさんあるんだね」

「あんまりないよ」

「なんで?」

「引っ越しばっかしてるから」

 渚君はいつの間にか水やりを終えたようで、キーボードにかけてある布をどけ、鍵盤に手を伸ばす。なにを弾くんだろうと思っていたら、鍵盤に手を置いたまま突然私のほうに顔を向ける。

「いつかどっかにちゃんと住むことになったら、庭がほしいんだよね。いろいろ植えたいものもあるし。なにを植えようかって、よく考えるんだ」

「なにを植えたいの?」

「うーん、わかんない。どこに住むかによって、植えるものも変わっちゃうだろうし。北海道に住むとしたら、沈丁花は植えられないし」

 そう言うと、天気予報のBGMで使われていた、「あこがれ、愛」という曲を弾き始めた。

 私も何かしないといけないように思われて、授業で使われたまま放置されている刷毛やパレットを洗ったり、テーブルにこびりついた絵の具を落としたりしてみたが、舞い戻ってきた先生に、

「私、あまりきれいすぎると落ち着かないから、適当でいいよ。本でも読んでな」

 と言われてしまった。

 あるとき、先生にそれとなく尋ねてみたことがあった。 

「渚君は、いつも何のために美術室に来ているんでしょうね」

「ああ、私の植物たちに水遣りさせてるから」

 二人とも、そこだけは譲れないようだ。先生はわざとらしくにやにやしていて、そんな様子を見ると、それ以上なにかを訊くのはためらわれた。


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