第3話
それから、さりげなく渚君のことを観察する機会が増えた。そんな中で、渚君のピアノを初めて聴くことになった。六月のある日のことだった。
中学の周りには、林というか、野原というか、そういったものがまばらにあって、近くに蛙がたくさん棲んでいた。授業中、雨が近くなるとよく蛙の声が響いていた。そんなわけで、それから先の人生でも、六月になるとたびたび蛙とピアノをセットで思い出している。
その日はたまたま、音楽室で合唱コンクールの練習をしていた。 練習が終わり、みんなは集まるときの倍の速さで帰っていく。そんな中で、ピアノの近くをうろちょろしていた渚君は、近くにいた男子から「お前、なんか弾いてみろよ」とけしかけられていた。渚君は「えー恥ずかしいなあ」などと言いながら、さっとピアノに向き合うと、“猫踏んじゃった”を弾いた。猫がロープでつながれて、不愉快そうな様子でのっそり歩いてる、そんな様子が目に浮かんだ。一周弾き終えると、またさっと立ち上がって「はい、次」と言ったまま、音楽室を出て行った。次に続く人はいなかった。
それから数日後のことだった。有泉先生から借りた本を貸そうと、美術室を訪ねると、中から何かの音がした。音楽でもかけているのかと思いながらドアを開けると、キーボードの音のようだった。生演奏だ。しかし、部屋の中にそれらしきものは見当たらない。おそらくクラッシックの曲なのだけど、知らない曲だった。
先生だろうかと思いつつ、そーっと美術準備室のドアの隙間から中を見ると、そこにいたのは渚君だった。
渚君は壁のほうを向いていて、私には背を向けているので、見られていることに気づいていない。後ろから見ると、まだあまり背も高くないし、明らかに、子供が弾いている状況だ。だけど、曲に乗って揺れている様子は場数を踏んだピアノ弾きのようでもあと言えなくもない。いったいどんな顔して弾いているのだろう。強弱のつかないキーボードで弾いているのに、比較的淡々とした演奏なのに、見ていると、なんだかわくわくしてくる。
わずか十数年間生きてきただけの男の子が、恐らく何百年も昔から伝わってきたであろう曲を使って表そうとしているのは、なんなのか。彼にはそれがわかっているのか、それともただわからないままに、曲をなぞっていると自然と表れてくるものなのか。そんな光景を、息を潜めたまま観察する。
一連の空間の中にいながらも、向こうは私の存在を知らない。これはこれで面白いので、もう少し様子を伺ってみることにする。
次はどんな音が出てくるのか、わくわくしながら聞いていると、渚君は突然演奏をやめか。え、なに? と思っている間に、立ち上がり、窓を開け、窓から身を乗り出した。
「どうしたの?」
声をかけると、渚君は一瞬止まって、それから慌ててこっちを見た。
「いつの間に」
「存在感薄いから」
「そんなさみしいこと言わないでよ」
そう言って微笑む。
「蝶が飛んでたんだけど、どっか行っちゃった」
なんだか照れ臭そうに、そんなことを言う。さっきまでキーボードを相手にしていた人とは別人だ。あっという間に、十三そこらの少年に戻ってしまっていた。
「先生は?」
「先生。ああ、なんだか、花壇に行ったみたい」
「そうなの? 貸してもらった本を返しにきたんだけど」
「じゃあ、預かっとくよ」
「直接渡さないと悪い気がするな……」
「義理堅いんだね。じゃあ、そうして」
渚君はまたキーボードに向かおうとしたけど、気が変わったのか、くるっと振りかえった。
「それ、何の本?」
「これ? ああ、デミアンっていうの。国語の教科書に、ヘルマン・ヘッセの作品があって、ああいうの好きだって言ってたら、先生が貸してくれたの」
「あれか。僕も読んだよ。いい本って感じがするよね」
「ふうん。私には難しくてよくわからなかったんだけど」
「僕もみっちり読んだわけじゃないけど。でもそれは面白い本だと思う」
また始まった、と思う。
「なんでそう思うの?」
「うーん、なんて言えばいいのかなあ」
そんなに真剣に考えなくても、と思いながらも、とりあえずなにを言うつもりなのか見届けてやろうとも思う。
「例えば、今僕が弾いてた曲、あるでしょ」
「うん、それ何? クラッシック? それとも、現代の曲?」
「クラッシックだよ。ドビュッシーの曲で、ベルガマスク組曲の、メヌエットっていうの。練習して、一応なんとなく形にはなってきてるんだけど、でも本当にこれがどういう曲なのかって、僕は知らないんだよね」
なにを言っているのかよくわからない。そのまま流してしまってもいいのかもしれないけど、不審に思っているのが表情に出てしまう。隠そうという気にならない。
「楽譜とCDがあれば、真似したりしてなんとなくそれらしくは弾けるし、頑張っていろんな本を読んだりしたら、作曲者がなにを考えてこの曲を作ったのかとか、ある程度はわかると思うんだ。でも、やっぱり、今の僕の、ピアノを弾く技術とか、感じる力とかで、なんとか弾ける範囲でしか弾けない。そして、勉強したり練習したりを続けていって僕が変わっていったら、もう今の弾き方には戻れないんだ」
途切れがちに話す言葉は、考えながら話されたようでもあり、ただ思いついたことをそのまま言ったようでもある。ただ私に言えるのは、混乱してくるということだ。
「それと、本が面白いかどうかがどう関係あるのか、わかんないんだけど」
「だから、僕はまだ本を読むのに慣れてないし、人生経験もあんまりないから、その話のことはほんの少ししかわかってないと思うんだ。でも、すごく面白そうだった。よく覚えてないし、けっこう飛ばし読みしちゃったけど、わくわくしたり、おおそうかって思ったりした。そんな一行がね、けっこうたくさんあったんだ。あと何年かしたら、また読んでみたいな。そのときは、漢字とか、言葉の意味もたくさん知って、僕も一回り賢くなってるんじゃないかと思うんだよね。
でも、きっとそうなってしまったら、もう今と同じ読み方はできないんだろうね。本も音楽と同じ、何回読んでも、毎回まったく同じ気持ちになれることってないんだろうね」
私はやはりよくわからないまま曖昧に頷くと、美術室を後にした。
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