第2話
いろいろなクラスから人が集まっていて、こつこつやる子はちゃんとやるし、飽きっぽい子はすぐ飽きていた。多少持ち時間が増えようが、やらない人はやらない。それもまたその人が選んだことだ。課題を仕上げたいからというより、ひまつぶしで来ている人もいそうだった。
居残りしてまでなお、おしゃべりに興ずる生徒を横目で見つつ、真面目な生徒が、先生に尋ねる。
「先生、怒らないんですか」
「まあ、しょうがないわ。強制されてやってもいい作品はできないだろうし、怒ると疲れるし、そこまで私がしてやる必要ないでしょ」
大きな声でどなったり、生徒のスカートの丈や髪の色を注意をするのが苦手で、実は人間自体が苦手なのでは? とたびたび思ってしまう、美術の有泉先生。私は先生のことがなかなか気に入っていて、ことあるごとに観察していた。この日私が残っていたのも、作品の精度を高めたいというよりも、せっかくだから先生の様子を観察しようという気持ちも、あったかもしれない。
ふと気がつくと、先生が美術室で栽培している観葉植物、数えるのにもそれなりの時間を要しそうな、数多くの植木鉢に水を与えている男子生徒が目に入った。
この間転校してきた、渚君と呼ばれている子だった。注文したのが間に合っていないみたいで、みんなと違うデザインの、緑のジャージを着ている。この学校では、緑は一年生の色だ。えんじ色の中で一人だけの緑は、かなり目立っている。
「渚、お前、課題やらなくていいのかよ。さぼって水遣りなんてしちゃってさ」
机に向かいながら、漫画の絵を描いて落書きしている男子が、渚君に絡んでいる。渚君とは違うクラスなのに、なんだか親し気だ。そんな様子を見ていると、渚君は、転校してきたばかりなのにしかもジャージの色も全然違うのに、ずっと前からいたかのように見える。
「僕は、課題は終ったからいいんだ。これは、先生に罰として水遣りをやらされているんだ」
その言葉を聞くなり、うそだと思った。先生にとって植物はとても大切なものだから、罰で水遣りなんてさせるはずはない。
ふと、彼と話をしてみたくなった。私の席の後ろを通ったときに、思い切って話しかけてみた。
「今日、なんで遅刻してきたの?」
同じクラスという以外になんら接点がないので、とりあえず思いついた質問はこんなことだった。
渚君は週に一、二回は必ず遅刻してくる。今日も理科の授業の途中で教室に入ってきて、先生に怒られていた。
彼は、普段あいさつもしない私にいきなり話しかけられたためか、きょとんとしたけど、人見知りをしないたちなのだろう、初めて話すはずの私にも、ごく普通の様子で、
「ああ、今日は久し振りに早起きしちゃってさ」
と言った。
「早起きすると遅刻するの?」
あまりに意味不明な答えに、てきとうなこと言っちゃって、と言いたくなる。
「今日こそは遅刻しないようにって、着替えて、ご飯食べて、学校行く準備を万全に整えて、そしたら、見つけちゃったんだ」
「なにを?」
「ポピー」
とっさに、ポピーがケシの一種だと気づかなかった。なぜそんな、さほど珍しくもない花が遅刻と関係あるのか。
「何日か前に母さんが買ってきて、植え替えてなくて、まだポットに入っているポピーにつぼみがついてたんだけど、朝見たら、つぼみがもう少しで割れそうになってたんだ。ちょっとじーっと見てたら、つぼみが割れて、殻がぽろっと落ちた。これは最後まで見届けないと、と思った。それで、気がついたら、もう九時を過ぎてた」
「一体何時から見てたの?」
「さあ、まだ七時にはなってなかったと思うけど」
その時間、私はまだ布団の中にいて、目が覚めてもいなかった。
渚君は、それから淡々と、殻がぽとっと落ちてから、つぼみがゆっくり膨らんでいく様について語った。彼独特の、おっとりというよりも、あと少しで「ゆっくりすぎ」と言いたくなるような口調だ。
「前から一度、花びらが動いているところをみてみたいと思ってたんだけど、ゆっくりすぎて、いつ動いているのかとうとうよくわかんなかったな。もしかして、瞬きしている間に動いちゃってるのかな。本当は、くしゃくしゃになった花びらのしわが伸びきるところまで見届けたかったんだけど、また学校に遅れたことに気づいちゃったから、急いで走って来たんだ」
渚君は今朝の様子を思い出したのか、にこっとした。
「花が開くのって、なんだか太陽が昇るみたいだよね。太陽が昇るのは、速いから目に見えるんだけど」
私は花が開くのどころか、太陽が昇るのすら見たことはなかった。
小学生のとき、教室で飼っていたアオムシが蛹になったときに、授業が終ったらもう蝶になっていて、羽化の場面を見逃してしまったときのことを思い出した。親が蝉の羽化を見せようと誘ってくれたときも、眠いからといって自らその権利を放棄したこともあった。
私の普段とあまりにかけ離れた話に、
「お母さんは怒らなかったの?」
などと、どうでもいい質問をするのがやっとだった。
「ああ、母さんね。外で見てると近所の人に不審に思われるかもしれないから、家の中から見てなさいって言って、仕事に行った」
そのとき美術室の端のほうで、先生が「渚、こっちのやつ、枯れそうになってるよ」とで呼ぶのがきこえた。渚君は、「はーい」と答えると、「じゃあね」と去っていった。
なんとなく、すんなり美術の課題に焦点を戻せないまま、今の話はなんだったのかと考えた。せめて何色の花だったのかくらい訊くべきだったのかもしれない。つまらない人と思われたのではないかと、気になった。
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