第19話 菓子は口ほどにものを言う

 翌朝、俺は目覚まし時計のけたたましいベルの音に叩き起こされた。

 かなり昔に親に買ってもらったものだが、目覚ましとして使うのは数年ぶりだった。スマホの電子音で起こされるのとは違い、耳障りな音が鼓膜に残る。

 顔をしかめながらベッドから這い出して、居間に下りる。

 テレビから流れてくる朝のニュースに、食卓に並べられた朝食。千代はブラスの朝練でいない。

 いつもと変わらない、朝の風景だ。

 無感情に身支度を整え、もそもそと白飯をかき込んで家を出る。

 いつもの電車に乗り、いつもに時間に登校し、教室に入る。

 いつもと変わらないはずの教室に飛び交う声は、やけに耳について腹立たしかった。自分の席で頬杖をつき、誰とも目を合わせないようにしていら立ちを抑え込む。

「なーるみっ! おはよ! 昨日送った百合浜の新作動画、見てくれたっ? 『自作のモリオカートで教授に勝負を挑んでみた』ってやつ!」

 志乃がスマホを片手に、上機嫌で俺の席に寄ってきたのもいつも通りだった。

「キャンパスでスター拾った瞬間、あまなつ先輩が物理的に輝きだしたとことか、教授に不意打ちで赤甲羅投げつけたとことか面白すぎて死ぬかと――」

「ごめん、見てない。スマホ調子悪くて」

 スマホは昨晩、電源を切ってクローゼットの奥に放り投げていた。

 ついそっけない態度を取ってしまった俺に、さすがの志乃も口を閉ざす。

「……どしたの? 具合悪い? 妖術師の呪い?」

「別に……なんでもねぇよ」

「それならいいんだけど……」

 志乃はそれ以上、俺に絡んでは来なかった。

 後ろ髪をひかれるように志乃が去って行った直後に、チャイムが鳴る。

 その後の授業にも身が入らず、ただ漠然と時間を過ごして家に帰る。

 自室に戻ると、机の上にはうさぎ型の焼き印が押された升が鎮座していた。

 升は確か昨日、家まで帰る道中のどこかに放り捨ててきたはずだった。無意識に机の脇に手を伸ばし、大袋から豆をつかみ取る。

 ……なにやってんだ、俺。

 空の升に豆を補充してしまってから、俺はぼうぜんと自分の手を見つめた。瞬間、例のアニソンがクローゼットの奥から聞こえてくる。

 電源を切ったはずなのに、鬼ごっこアプリが起動してアラームが鳴っている。

 どうせ兎呂がスマホになにか細工をしていたんだろう。削除できないアプリやら、燃やすことも捨てることもできない升があるくらいだ。今さらスマホの電源が勝手に入ったところで、別にどうとも思わない。

 俺は鳴り続けるアラームを放置して、部屋を出た。

 もう鬼退治はしない。呼び出しのアラーム音も聞きたくない。

 空気を読まない明るい曲調から逃げるように、俺は足早に居間に下りた。


 みのりが研究所に連れ戻されてから、三日が過ぎた。

 休日の今日、俺は昼前から、鍋に入れた小豆を火にかけていた。丁寧にあくをすくい、小豆の煮え具合を確認してから砂糖をまぶす。

「あれ、なに作ってるの?」

 甘さを調整中のあんこを木べらでかき回していると、千代が台所に入ってきた。

「あずき?」

 行きがけに、鍋の中をのぞき込まれる。

 千代は冷蔵庫を開けてピーチソーダのペットボトルを取り出すと、ほぼ物置と化している台所のテーブル席に着いた。

「志乃ちゃんがね」

 突然、志乃の名前を出されて手を止める。

 緩んだペットボトルのふたから、炭酸の噴き出す音が漏れてくる。

「お兄ちゃんに会いに来てたよ。おじいちゃんのいる離れにおやつ持ってった時にね、家の前に誰かいるなー、って思ったら志乃ちゃんで。なんか、チャイム押そうかどうか迷ってたみたい」

 怪訝に思い、あんこ作りを再開しながら眉根を寄せる。

 これまでも数えきれないくらい家に来てるんだから、今さら迷うことなんてないのに。

「それで、帰ったのか?」

「上がってって! って言ったんだけど帰っちゃった」

「変な奴……」

「あ、でもね、これ。預かってきたよ」

 そこで、俺は初めてまともに千代の方に顔を向けた。

 左手には飲みかけのピーチソーダ、右手にはピンク色のリボンでラッピングされた小袋。

 千代が苦笑しながら、右手の方を差し出してくる。

「クッキーみたいだよ。手作りの」

 手作り、と聞いて、条件反射で顔が引きつる。

 小学生の時にもらったバレンタインチョコで三日寝込んだのを皮切りに、誕生日やクリスマスが来るたびに見てきた地獄を、俺は一生忘れないだろう。『料理は創造だよ! クリエイティブだよ! まずは常識から覆していかなくちゃ!』と、自信満々にのたまう志乃を矯正するために、まず自分が覚えようと思ったのが、俺が料理を作るようになったきっかけでもある。

「なんでまた急に菓子なんて……イベント事でもないのに」

「心配、してるんだよ。多分」

 俺の手が離せないと見るや、千代はクッキーの小袋をテーブルに置いた。

 再び前を向き、木べらで適当に小豆の粒をつぶす。

「別に、心配されるようなことなんてしてねぇよ」

 背中に視線は感じたが、今度は振り返らなかった。ピーチソーダを口にしたのか、二、三度、喉を鳴らす音が聞こえてくる。

「お兄ちゃんってさ……」

「ん?」

「やっぱいいや」

「なんだよ」

 気になって、仕方なくもう一度千代を振り返る。

 千代は人差し指を頬に当て、もったいぶるように小首をかしげた。

「悩んでる時、あんこ作るよね」

「……そうか?」

「気付いてなかったんだ。高校の進路の時かなぁ、ずーっとあんこ食べてたもん、私」

「よく覚えてるな」

「そのせいで私もお母さんも太ったんだから!」

 ない胸を張って、千代がふんすと鼻を鳴らす。

 俺が中三の時って――千代、まだ小六だろ……? そんな頃から体重なんて気にしてたのか。

「あとはー……いつだったか忘れちゃったけど、お兄ちゃんがあんこ作ってると、また成海は悩んでるのねー、ってお母さんが言ってたから」

 ……言われてみれば、確かにそうかもしれない。あくを取ったりしてると、無心になれるし。

 でもそんな事実を知ってしまったら、これからめちゃくちゃあんこ作りづらくなるな……いや、聞いたのは俺だけども。

「ねぇ、最近お兄ちゃん変だよ」

 口をとがらせる千代を横目に、俺はガスコンロの火を止めた。

「変じゃねぇよ」

「変だよー! だって志乃ちゃんが気を使ってるくらいだよ?」

「俺にだっていろいろあるんだよ。そう……それこそ次の進路も決まってないし」

 適当に理由を後付けしながら、完成したあんこを皿に盛る。

 少し小さめの皿にも取り分けて、千代にもあんこを差し出してやった。

 千代はしばらく手渡されたあんこをじっと見つめていたが、やがて上目遣いで、ねだるように俺の顔を見た。

「おもちも……焼いてほしいな?」

「……太っても文句言うなよ」

 俺はため息をつきながら、乾物類が入っている引き出しから餅の袋を取り出した。

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