第18話 バースト・コミカル・オブラート

「氷雨……!」

「頼さん……どうしてここに」

 頼さんはこちらの呼びかけには答えず、まっすぐにみのりの前に向かった。

「みのり、まずは次元の裂け目を閉じろ。こちらの世界に漏れ出してきた鬼の処理もだ」

「………」

「現場はすぐそこだ。それに、ここは人目につく。言いたいことがあるなら仕事を済ませた後にしろ」

 観念したのか、みのりは驚くほど素直に従った。

 だがその目は、反抗的に頼さんをにらんでいる。

 線路と駐輪場の間に敷かれた道を通り、現場となっている裏路地に向かう。途中で逃げ出さないよう、みのりを監視しながら歩く頼さんに小声で尋ねる。

「この付近にいたのに、どうして頼さんは現場に直行しなかったんですか?」

「それはこっちのセリフだ。現場のすぐ近くにいるのに、お前がまったく動かなかったからな。万が一、お前がみのりと遭遇していた場合の危険性も考えてのことだ」

 俺や夏希の位置も、GPSで把握されてるのか……

 次元の裂け目はすでに閉じていたが、現場には餓鬼の群れがいた。

 本当に、どこかから零れ落ちてきた、という感じだ。

 狭い裏路地の闇に、二対の白目が七、八匹分、うごめいている。

「みのりに任せればいい。すぐに終わる」

 一応、升を持って身構える俺を、頼さんは片手で制した。

 代わりに、口を真一文字に結んだみのりが前に出る。

 格好いい詠唱を口にしたり、印を結んだりもしない。ただ、みのりの細い腕がすっと上がり、餓鬼の群れに向けられる。

「……お還り」

 みのりは餓鬼たちに語りかけるように、たった一言、つぶやいた。

 みのりの手のひらに薄紫色の光がともるとほぼ同時に、餓鬼の群れが一瞬で黒い煙と化す。

「えっ……え?」

 あまりのあっけなさにとまどいながら、俺は宙に溶けて消える黒い煙と、頼さんの顔とを交互に見た。

「もう、終わり、ですか……?」

「これで分かっただろう。これが生まれながらに妖力を持つお針子の力だ」

 みのりは目を閉じ、肩で大きく息をしていた。

 もともと、一週間の逃亡生活で弱っていたこともあるのだろう。妖力を使う、というのがどういう感覚なのかは分からないが、代償がなにもないとは思えない。

「一時間ほど前に発生した裂け目を縫合したのも、みのり、お前だな? 中級以上の鬼が出てくる前に、次元の裂け目を縫ってくれたことに関しては礼を言おう」

「一時間ほど前……夏希が先行してくれた現場の、ですか?」

「そうだ。通常発生するほころび程度の裂け目からは、せいぜい餓鬼や人鬼程度の鬼しか出てこない。だが本格的に裂けてしまった箇所から出てくる大型の鬼は、お前や夏希の手には負えない」

 つまり、俺たちは知らないところでみのりに助けられていた、ってことか。

 さっき、一瞬でもみのりに悪意があるんじゃないかと疑った自分が恥ずかしくなる。

「大型鬼の脅威が分かっているからこそ、逃亡中の身にも関わらず、お前は次元の裂け目を縫合した。違うか?」

 念を押すように聞く頼さんを、みのりはやはりただにらむだけだった。

 ……ん? 待てよ?

 それじゃあ、なんでだ?

 根本的な疑問に突き当たり、自問する。

 みのりの行動は矛盾している。

 鬼の脅威を理解し、逃亡中にもかかわらず次元の裂け目を縫合してくれるくらいなら、なんでみのりは『らいこう』から逃げ出したんだ?

「私だって……できれば人が死ぬのなんて見たくない。自分の代わりに誰かが死ねばいいなんて、思ったこともない」

 ようやく重たい口を開いたみのりを、頼さんはあごで促す。

「なら『らいこう』に戻れ。お前一人のために、どれだけ多くの人間が動いたと思ってる」

「また、そういう多数決……?」

 涙のあとが目立つみのりの表情が険しくなる。

「組織の人間以外、誰も私たちのことなんて知らない。平和な日常が提供されて当たり前。なんでそんな人たちのために、私たちがすべてをかぶって犠牲にならなくちゃいけないの……?」

「知ってもらえたら満足か? 仮に、鬼やお前たちお針子の存在を公にしたところで、お前が望むような結果にはならない。無用な混乱を生むだけだ」

 志乃が言っていた、東洋の魔女狩り、という言葉を思い出す。

 その物騒な歴史を愚かだと笑い飛ばすことはできなかったし、頼さんの言葉を否定することもできなかった。俺だってついさっき、勝手な推測でみのりを疑ってしまったばかりだ。

 未知は、恐怖だ。

 ただ普通とは違うというだけで、人は必要以上に警戒する。

「だから、どうして私たちを受け入れてくれない人たちを、私たちが身を挺してまで守らなくちゃいけないのって聞いてるの。大勢の普通の人たちが、私たちの命より優先される理由は、なに?」

「ちょ、ちょっと待って」

 さっきから犠牲とか命とか、重い言葉が飛び交っているのがどうにも気にかかった。

 今度こそ未知を未知のままにしないために、重い空気の間に割って入る。

「ちょっと確認しておきたいんですけど。お針子の仕事ってそんなに危ないものなんですか? あの、海岸沿いの鬼の死体は事故だったとしても……基本的には鬼が出てくる前に、次元の裂け目を縫うのが仕事なんじゃないんですか?」

 二人分の視線が、同時に俺の方を向く。

「……そうだ。さっきは実演のために餓鬼に干渉してもらったが、次元の裂け目の縫合がお針子の最優先業務だ。成海や夏希に担当してもらっている通り、鬼退治はあくまで裂け目をふさぐのが間に合わなかった場合の、補助的な仕事だからな」

 答えてくれた頼さんは無表情のままだったが、みのりはなぜか、不敵に笑っていた。

「本当にずるい大人。嘘は言わない……でも大事なことも、なに一つ言わないのね」

 みのりは嘲笑交じりに吐き捨てた後、じっと俺の顔を見つめてきた。

 ほんのりと紫がかった、宝石のような黒目に見つめられてどぎまぎする。

「……名前」

「え?」

「まだ、聞いてなかった。なんていう名前なの?」

「え、と……桃原、成海」

 俺に会ったことがある、と言ったみのりが、俺の名前を知らない。

 その不可思議さを差し置いて、みのりは口を開く。

「聞いて、成海。あの海岸沿いの死体はね、鬼なんかじゃない」

「おい、みのり、やめろ」

「あれは私たちお針子のなれの果てよ。より効率的に次元の裂け目を塞ぐために、妖力増幅処置を施された結果が、あれなの。人の身には大きすぎる妖力を制御しきれず、暴走してしまったあの子を始末したのも『らいこう』の人間よ」

 唐突に、目の前が真っ暗になった気分だった。

 理解が追いつかず、まともな言葉が出てこない。

「え……は?」

「分かってる。多くの人たちの日常を守るために、そうしなきゃいけないってことは。次元の壁を縫合できるお針子の数は、どんどん減ってきてるから。でも」

 そこまではっきりと言葉を紡いできたみのりが、ふいに間を置いた。

 すっと息を吸った瞬間、黒紫の目がうるむ。

「でも、友達だったの。割り切るなんて無理だった……こんなことが、いつまで続くの? 私たちは死ぬまで日陰で、こんな風に生きなくちゃいけないの? それに……次は私だって」

 みのりの声は震えていた。

 震えたまま、言葉を詰まらせていた。

 一つ、また一つと涙をこぼしながら、やっと絞り出した次の言葉は。

「……戻りたく、ない」

「っ、頼さんっ!」

 俺はなかば反射的に頼さんに詰め寄っていた。

「今、みのりが言ったことは、本当なんですか」

 頼さんは相変わらず無表情だった。

 ただ無表情の奥で、なにかを考えていることだけは伝わってきた。

 やがて、頼さんが諦めたようにため息をつく。

「本当だ。お針子の負担を軽くするための妖力増幅処置が暴走を引き起こし……あんな結果になってしまったことについては、すまないと思っている」

「どうして……どうしてそんな危険な処置を」

「それもみのりが言った通りだ。現状、次元の壁に直接作用できるのはお針子だけだからな。発生するすべての裂け目を縫合してもらうには、お針子の数が減りすぎた。事態の悪化を防ぐために、ある程度のリスクは仕方なかったんだ」

「ある程度、って……どうしてそのリスクをみのりに、お針子たちに背負わせるんですか! 彼女たちに頼らない方法を探せば……!」

「その方法を探している間は、次元が裂けずに待っていてくれるとでも思っているのか?」

 頭を鈍器で殴られたような気がした。

 みのりたちにかけられている負担は明らかに過度で、理不尽だ。

 でもその理不尽を飲んでもらわなければ、俺たちのような、普通に暮らす大勢の人間が鬼の脅威にさらされることになる。

「でも……それでも、お針子たちだけが一方的にそんな負担を強いられるなんて、おかしいじゃないですか……みのりは俺たちを守ってくれていたのに、みのり自身はなに一つ、守られてないじゃないですか……!」

 こぶしを握りしめながら、絞り出した声に力を込める。

 伏した顔に、頼さんの嘆息が聞こえた。

「お前が言っているのはきれいごとだ。自ら泥をかぶることも、非情を引き受けることもできないくせにみのりを守りたいだと? 笑わせるな。みのり一人を自由にすることによって、一体どれだけの人間が代償を払うと思う。その責任を負う覚悟が、お前にあるのか」

 さげすむでもなく、声を荒らげるでもなく、冷静に放たれたその言葉が。

 頼さんの言葉が、本物の刃物のような重さでもって俺の胸に突き刺さる。

 なにか言い返そうと思ったが、なにも出てこなかった。

 自分にはみのり一人のために大勢を犠牲にする覚悟も、大勢のためにみのりの犠牲を受け入れる非情さも、両者を救う知恵もない。

「……成海。もう、いいよ」

 ぽつりと。

 こぼされたみのりの一言が、俺が作ってしまった沈黙を破る。

「もう、いいから。ありがとう。もう、充分だから」

 顔を上げたみのりの表情を見て、自分の無力さに死にたくなる。

 もういいなんて。充分だなんて。

 そんなわけないだろう。

 みのりは痛々しいくらい濡れた瞳で、微笑を浮かべていた。どこか悲しそうに眉尻を下げたまま、自分から頼さんに近づいていく。

「成海、お前も帰って、もう休め。兎呂を通してまた連絡する」

 みのりが頼さんに連れていかれてしまっても、引き止める言葉が出てこなかった。

 自分自身の臆病さを、無責任さを、無力さを、いやというほど突きつけられる。

 みのりはこちらを振り返らなかった。

 その代わり、かどうかは分からない。ただ、その後ろ姿の左手は、例の数珠ブレスレットを震えるほど強く握りしめていた。

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