第5話 節分とかいうイベント考えた奴ちょっと来い

「うわああああああっ!」

 声が出た。と同時に、身体が動いた。

 赤褐色の巨大な塊が、その体躯からは想像もつかない速さでこちらに突っ込んでくる。

 逃げられるか逃げられないかは問題じゃない。ただただ目の前の脅威から距離を置かなければならないという本能で回れ右してダッシュする。

「ひっ……!」

 尋常ではない速さで距離を詰めてくる気配を振り返り、後先も考えずに前方に身を投げる。スラッガーのフルスイングを彷彿とさせるなにかが、背中にぞっとするような風圧を残す。

 路上に転がった俺のすぐ上を、また突風が駆け抜けていった。乱暴に振るわれた爪が、かすめた石垣にいともたやすく傷跡を残す。

 這うようにして鬼の懐から逃れ、よたつきながらもまた逃げる。こんなわけの分からない化け物に引き裂かれて、わけも分からないうちに死ぬなんて冗談じゃない。

「おや、図らずも鬼に襲われていますね」

 場違いに落ち着いた、人をいらつかせる丁寧口調が介入してきたのはその時だった。

 声がした方を見やると、黒チョッキのうさぎがブロック塀の上にちょこんと乗っかっている。

「お前! 昨日の!」

 と、叫ぶことができたのはそこまでだった。

 学校の体力測定でも発揮しないような瞬発力でもって、背後に迫り来る鬼の腕から必死に逃れる。

「しかしこれで納得していただけたでしょう。さすがにこの状況では、現実を受け入れざるを得ないでしょうからね」

「ごちゃごちゃ言ってないでなんとかしろ!」

「うさぎにものを頼む態度じゃありませんね。まぁ緊急事態なので許しましょう」

 そう言うと、兎呂はひらりと塀の上から飛び降りた。入れ替わりに、俺を目がけて突進してきた鬼が勢いあまってブロック塀に激突する。

 爆音がして壊れたのはブロック塀の方だった。

 崩れたがれきに埋もれる鬼をぞっとしながら見つめる。兎呂はなに食わぬ顔をして、とてとてと俺の方に近づいてきた。

 すっと背伸びをした兎呂が、たっぷりと節分豆の入った升を手渡してくる。

「なに、これ」

「ご希望の豆です」

 兎呂のドヤ顔に一瞬、意識が遠のきかける。

 が、なんとか持ち直して、俺は全力で頭を振った。

「こいつマジで豆持ってきやがった!」

「あなたのために特製の升も作ってきましたよ!」

「いらねえよ!」

「まぁ、そうおっしゃらず……とりあえず、あの鬼目がけて投げてみてください」

 升にさりげなく押されているうさぎ型の焼き印から目を離し、改めて鬼が突っ込んだブロック塀を見やる。

 がれきの山が、さらに崩れる音がした。

 鬼はもはや当たり前のように起き上がってきていた。赤褐色の巨体がこちらに向かってゆっくりと方向転換し、粘り気のあるよだれを垂らしながら牙を剥き出す。

 兎呂は遠くを指さす要領で、びしっ、と鬼に向かって手を向けた。

「てーーーーっ!」

 突然の射撃号令にびびりながら、思わず升の中の豆をつかむ。

 がれきに埋もれてもケロッとしてるような奴に、こんなものが効くわけがない。そう思いながらも兎呂の気迫に押されて、わけも分からずに全力で豆を投げつける。

 一握りの豆はほぼ直線的な軌道を描き、鬼の左肩から胸のあたりにかけて命中した。とたんに豆が花火のように弾け飛び、鬼が上体を反らして身じろいだ。

「……効いた」

「当然です。鬼退治に使われる武器には全て、研究所の最新技術が注がれています。かつて鬼と通じていたとされる妖術師が三日三晩祈りをささげて行ったという妖力の注入も、現代ではわずか三時間に短縮することに成功しているのです!」

「それはなんか……逆に、いいのか?」

「なのであなたのような末端兵士にも惜しげなく技術を提供する組織の懐深さに涙しながら使ってください!」

 人の疑問を完全に無視して、兎呂は公園のフェンスを飛び越えた。

 よだれをぼたぼたと垂らしながら低くうなる鬼の表情は、とまどいから怒りに変わりつつある。

「え? ちょっ……この豆、だけ? お前はなにもしないの……」

「どこの世界に武器を持って戦ううさぎがいるんですか! こっちだってプリティー&ファンシーなイメージ一本でやってるんですからね!」

 ぶっ飛ばしたくなるセリフでさらに問いをさえぎってきた兎呂に、それ以上食い下がることはできなかった。

 鬼は皮膚の破れた部分からぶすぶすと黒い煙を吐き出し、こちらににじり寄ってきていた。

 充血して赤みがかった白目を剥き出し、明らかに怒りをあらわにしている。

 一瞬、鬼の身体が縮むと同時に、俺は反射的にその場から飛びのいていた。

 暴走トラックよろしく突っ込んできた鬼が、コンマ数秒前まで俺がいた場所を轢いてフェンスを突き破る。

 悲鳴が聞こえなかったということは、兎呂はとっくにその場から離れていたのだろう。勢いあまって二、三歩、公園の敷地を踏んだ鬼の背中に見据えながら、汗ばむ手のひらで豆をつかむ。

 手元が狂ったのは、力みすぎたせいだろう。

 今投げたひとつかみ分は、何粒かが鬼の腰のあたりをかすめるにとどまった。ほとんどの豆が地面にぶつかり、炸裂して消えてしまう。

 身をかがめた鬼は短くうなり、不気味に身体を揺らしていた。

 手の震えをごまかすために、再び豆を雑につかむ。鬼の振り向きざまを狙って、振りかぶった腕を思い切り振り下ろす。

 投げた豆の半分ほどが鬼の左頬をえぐると同時に、俺は再度升に手を突っ込んだ。そこから先は、豆がどこに命中したのかも確かめなかった。手当たり次第に豆をつかんでは、何度も何度も鬼に向かって投げつける。

 炸裂音をまき散らしての集中砲火……ならぬ集中豆まきを真正面から食らった鬼は、その場から動くこともできずに、全身から黒い煙を吐き出し始めた。

 鬼の両ひざが折れたところで、升の中に突っ込んだまま手を止める。あまりにも吐き出す煙の量が多くなったので、鬼の状態はよく分からない。完全に鬼を覆い隠した煙の奥を警戒しながら、じりじりと後ずさる。

 かなりの距離を開けたところで、鬼を包み込んでいた煙が徐々に晴れてきた。だが色を薄め、やがて完全に空に溶けた煙の向こうに、鬼の姿はもう、ない。

 あの鬼自身が、黒い煙になって消えた、ってことか……?

 理屈はよく分からなかったが、とりあえず当面の危機は退けられたようだった。

 声に出してため息をつき、手元の升に視線を落とす。豆はもう、ひとつかみか、ふたつかみ分しか残っていない。

「いかがですか? なかなかどうして、豆も捨てたもんじゃないでしょう」

 いったいどこに隠れていたのか、全てが終わった後で兎呂がひょっこり戻ってくる。

 なにもしていないのに得意げな顔がむかつくが、今は反論する気力もなかった。

「今のが……鬼、なのか?」

「そうです。詳しいことはまたいずれお話ししますが、次元の壁にできた裂け目のせいで、ああいった鬼が各地に出没するようになってしまったのです。ご覧ください。今ちょっと相手をしただけでも、このありさまでしょう」

 兎呂が両腕を広げてあたりを示す。

 改めて周囲を見回してみると、崩れたブロック塀やら引きちぎられたフェンスやら、俺の半径数メートル内は散々な状態になっていた。

「どんなに疑わしかろうとうさんくさかろうと、これが事実です。被害が大きくなる前に、この世界に現れた鬼は退治しなければならないのです」

 今度は反論する気力ではなく、反論する理由がなかった。

 現に襲われてこの手で倒しまでしたものを、さすがに否定することはできない。

「桃原成海さん」

 昨日と同じように、フルネームで名前を呼ばれる。

「鬼退治、してくれますか?」

 頷きはしない。

 だが、手元の升を突き返すこともできない。

 これを断ってしまったら、本当にただ現実から目を背けているだけになってしまう気がした。

「今後のことをいろいろと説明して差し上げたいのはやまやまなのですが、物損被害が出てしまいましたからね。今日のところは私も事後処理を優先せざるを得ないので、成海さんのところへはまた後日、改めて伺わせていただきます。それまでこのことは、口外不要でよろしくお願いしますね」

 兎呂はうやうやしく一礼すると、民家の塀から屋根へと飛び移り、あっという間にいなくなってしまった。

 鬼との戦闘の残骸が残るだけの路地に一人、取り残される。

 ……俺、このあと昼飯の材料を買いに行くんだよな?

 日常と非日常の信じられないようなギャップについていけず、俺はしばらくその場で立ち尽くしていた。

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