二十九.ありがとう、さようなら
桃子が眩しさのあまり閉じた目を、ゆっくり開くと、
「あ……」
立たずに座っている自分、隣で正座しているつばき、芝生ではなく畳の上の座布団、庭ではなく屋内、
淡い光を放って布団に寝かされている紡。
「帰って、来たんですね」
そこは紛れも無い、元いた世界の紡邸の寝室だった。
どうやら桃子と入れ替わってこの世界にいた桃子は、ここでスタンバってくれていたらしい。
「『話はつけてある』ってこういうことですか。いきなり異世界のお姉さんに話し掛けられて、さぞかしビックリしたでしょうねぇ」
「朝起きたら異世界に飛ばされてたことに比べたら、マシなんじゃないですか? そもそも向こうの世界の桃子さんだって、紡さんと知り合いかも」
「どうなんでしょうね」
「あは」
「さて」
桃子とつばきは示し合わせたかのように、紡へ視線を向ける。
「無駄口はこの辺にして、取り掛かりましょうか」
「はい」
桃子は鞄の中から、道具を全て取り出して並べる。
「最初の結界破りと悪霊退散の役割分担ですが」
「どちらがいいです?」
桃子は少し考えて、
「本音はつばきちゃんの意志を受け取った形で私が食器を使いたいのですが、ここは私が笏を使います。いただいた私が使うのが筋ですし、一回だけですが警察で射撃訓練もしましたので」
「絶対拳銃と使い方違いますよね?」
「それは、まぁ」
無駄口終了宣言からの即雑談に走るつばきだが、その手は既にナイフとフォークを握っている。
「準備はいいですか?」
「ちょっと待って下さい深呼吸」
「もー……」
桃子も笏を両手で握って大きく息を吸う。持ち方的にもやはり、拳銃みたいな使い方をする気は無さそうだ。魔法少女アニメのステッキみたいに相手へ差し向けるのが妥当か。
「はいっ! お願いします!」
「では、参ります。私の背中に当てないで下さいよ?」
「プレッシャー!」
桃子に背を向け、横たわる紡に向かってナイフとフォークを構えるつばき。
「ぷっ、なんか食べようとしてるみたいですねぇ」
「うるさいなぁ」
つばきが静かに『呪』を唱える。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
ここでも九字切りですか……、桃子が余計なことを考える束の間、紡の放つ光が強くなっていく。それはラジウムのような光から黄金色へ……。桃子も気合を入れ直す。
そしてそのまま、黄金色に輝く紡の形をした、幽体離脱のような何かが浮かび上がる。
「おぉ……。え、あれは……?」
桃子の目線が自然と上がる。
何故なら紡の向こう側に、金色の後光を纏った存在が見えるのだから。
象頭人身、不思議な見た目の存在が、二人で抱き合ってそこに立っている。霊能力の無い桃子にすら見えるその存在の輝きたるや、信心の無い者ですら
これが大聖歓喜自在天なるものか……、全ての意識を釘付けにされかけた桃子だが、今だけは信仰の扉を開いている場合ではない。桃子は慌ててつばきの方へ視線を向ける。
彼女もその存在を見上げてはいるが、背筋はしっかりと伸びて精悍であり、ぼんやり魅入られている様子は無い。
そして、この状況が全ての準備の完了を示しているのだろう、つばきは一度だけ桃子の方を振り返って頷くと、
「ふっ」
フォークを紡の霊体に突き立てる。向こうの世界の紡が言っていたように、結界を『破る』というよりは『入れる』ものだからだろう、プツッともパキッとも何かを損壊させるような音はしない。
だがそれは結界の話。後で塞ぐ為の布がいるということからも、紡の魂そのものには今、大変綱渡りな傷が開いているに違い無い。桃子の笏を握る手に汗が滲む。
つばきは一度歓喜天の方を見上げた。その存在は、自らの結界を開こうとする者がいるにも関わらず、怒り咎めるでもなく「おやりなさい」と促すでもなく、そも小さき者を意識の端に掛けるでもなく、泰然と二人抱き合ってそこにいる。
それを確認したつばきは、紡の霊体にナイフを当て、
一気に引いた。その瞬間、
『オオオオオオオオ!!』
「きゃっ!」
歓喜天は一瞬にして消え去り、代わりに紡から黒い雲かヘドロのような何かを纏った騎乗の甲冑武者が、雄叫びを上げて一気に飛び出す。
その勢いに弾き飛ばされたつばきは、畳の上を転がった。
「つばきちゃん!」
桃子がつばきを目で追って腰を浮かせる傍ら、怨霊は既に太刀を抜き放っており、勢いそのまま振り被る。
つばきが体勢を立て直すのも忘れて、転がったまま桃子に顔を向け叫ぶ。
「今です!」
桃子は菅公の笏を握り締め、怨霊に向ける、狙いは、ぴったり矢が突き刺さった額。
「
瞬間、笏の先端から閃光が迸り、それはバリバリと大きな音と衝撃を放ちながら
『オオオオオオオオ!!』
怨霊へ額の矢を避雷針のようにして命中し、神々しく青白い稲光を弾けさせ、
『オオオ……!』
バッ!
最初の音しか聞こえない。あとは何がどう轟いたかも分からない破裂音と共に、何がどうなったかも見えない光が満ちて……
もうそこには何もいなかった。ただ寝室の壁や天井が見えるのみである。
「お、終わっ、た……?」
桃子が腰を抜かしてへたり込むと、
「桃子さんっ!!」
「うわっ!!」
つばきが思い切り飛び付いて来た。思わず桃子は床に押し倒される。つばきはそんなのお構い無しと、桃子に抱き着いて頬擦りをする。
「やーりましたっ! やりましたよ桃子さんっ! やったんですよ!!」
「あっ、もう、つばきちゃん、ダメですよ、私には紡さんがぁ……。そんなことされたら私……」
「何考えてんだこのタコ!」
残念な桃子は、さっきまですりすりしてもらっていた頬を一転、ピシャリと叩かれた。これでは体勢も抱き着きではなく馬乗りである。
桃子は少し上体を起こしながら、怨霊が消えた辺りをもう一度見る。
「いやしかし、すごかったですねぇ」
「あは。目と耳がやられたかと思いました」
「今更ですが、室内でやることじゃなかったですね」
「えぇ、普通に引火とかするかも知れないレベルでしたよ」
感想戦のような会話をする二人だが、まだ終わっていない。ここからだって手を抜けない、重要な作業が待っているのだ。と言っても、やること自体は雑なのだが。
桃子とつばきは一本ずつ、霊水が入ったペットボトルを持って紡のところへ向かう。
「わぁ」
紡の霊体には、つばきが開けた切り口がさっくりと残っている。中身がグロテスクとかはないのが、逆になんだか不思議な感じである。
だから雑にというわけでもないが、二人はペットボトルの蓋を開けると、そこに霊水をバシャバシャ振り掛ける。
「綺麗になれ〜綺麗になれ〜」
「ところで、雷を撃った時のアレはなんだったんですか?」
「菅公の漢詩の一部です。なんでも大親友に捧げる詩らしくて、今回にぴったりでしょう? その中で向こうの紡さんが、一番好きな一節を教えてくれたんです」
「へぇー」
「つばきちゃんも知らなかったとは、なんだか物知りに勝った気分ですねぇ」
「いえ、『
「なんと!?」
「まぁ菅公に対して『私はそれくらいこの人のことを思っています』と伝える
「それ、いります?」
「あは?」
ごちゃごちゃ言っている内に水が無くなる。不思議なのは、実体が不透明な紡の霊体を、水が通り抜けたりしないことだ。下の本体や布団、畳が濡れていない。
後始末が楽で大変よろしい、そんなことを思える程、桃子にも余裕が出て来た。
「次はこれですね」
ならもうテキパキ仕上げてしまうべきである。
桃子は「ぬ」のワンピースを手に取った。桃子はそれを暫し眺める。
紡を救う為の作業もこれで最後。向こうの世界から持って来た物もこれで最後。
長いようで短かった、桃子の旅もこれで最後。
「紡さんは『私達の力でやり遂げたから誇っていい』と仰ってくれましたけど……」
「はい」
つばきは背筋を伸ばして、神妙な顔を桃子に向ける。今桃子の心には、雷神や「ぬ」、日々を支えてくれた家族、関係無いようで自分の成長に繋がってくれた数々の依頼人に神仏、おまけで近藤、そして、
向こうの世界の紡の顔が浮かんでいる。
「こんなこと、決して私達だけでは出来ませんでした。たくさんの、本当にたくさんの人達との縁があったから、たくさんの『呪』が折り重なったからこそ、今、こうして、全てを終えられるんですよね」
「決して忘れません」
「えぇ、決して」
つばきと感謝の心を一つにした桃子は、その万感全てを込めてワンピースに口付けし、
「ありがとう、さようなら……」
ふわっと、花束を海へ投げるように、紡の傷口に被せた。
「わっ」
「あひゃっ」
瞬間、紡の霊体が放つ
桃子達が目を開くと、そこにはもう霊体もワンピースも無く、紡が静かに寝ているだけだった。
「終わっ、た……?」
「んでしょう、か……?」
一瞬ぼーっとしていた二人だったが、すぐに何より大事なことを思い出す。
「あっ! 紡さん!」
「紡さん! 紡さん! もしもーし! 起きれますかぁーっ!?」
二人してわぁわぁと紡に話し掛ける。なんなら桃子は肩を揺するし、つばきは頬をペチペチ叩く。
「紡さーん! 十時は過ぎましたよーっ! 起きてーっ!」
「そろそろお仕事再開して稼いだらどうですかーっ!」
「起きないと勝手に婚姻届出しに行っちゃいますよーっ!」
「今から美味しいご飯とお酒を準備するところですよーっ!」
つばきがそう言い終わるか否やだった。紡の身体がピクリと動いたかと思うと、
「紡さん!?」
その瞼がパチリと開き、大きなエメラルドグリーンが輝いた。
「紡さん!」
「あはっ!」
桃子とつばきは手を取り合い、跳ね上がる。
「やったやった!」
「やったーあぁあっはっはっはぁ〜ん!」
歓喜からシームレスに泣き出したつばきを胸に抱き締めて、自分も涙が止められなくなった桃子。
そんな騒がしい連中が横にいると言うのに、
「ふあぁふ……。うーん」
その対象は呑気に上体を起こして、大きく一つ伸びをした。
そして泣きじゃくる二人へ、彼女達がずっと見たかった、
それと同時に、玲瓏に鳴る高音ハンドベルのような、清らかな声。
「なんか、お腹空いたね」
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