五.深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているとは限らないのだ
紡は『二の八』のドアを三回ノックした。
「すいませーん! カウンセリングの
「……」
「……」
「もしもーし!」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あはん」
「えっ」
「なんと」
「そんな見ないで下さい……」
つばきが真っ赤になっても未だ中からは
「反応が無いね」
「ありませんね」
「……生きてる?」
「いやまさか、そんなところ疑います?」
「あは。死んでるような生活らしいですけど」
「あらやだこの子辛辣」
「うーむ……、こうなったら押し通るか」
「仕方ありませんね」
桃子はポケットから鍵を取り出した。神社での紡のアンサーと要望を近藤に伝えたところ、彼
紡は鍵を受け取り鍵穴に差し込もうとして、
「もし無視じゃなくて、大音量イヤホンしてえっちビデオに夢中、とかだったらどうしましょう」
桃子の一言に手が止まり、つばきは普段から姿勢の良い背筋を更に伸ばす。
「……」
「……」
「……」
「お邪魔しまぁーす!!」
「「行ったぁーっ!!」」
紡は勢い良く室内に突入した。桃子とつばきは抱き合って震え上がる。
その室内にあったものは!
「Oh……」
「オゥってなんですか!? えっちですか!? えっちな何かなんですか!?」
「公序良俗に反する放送禁止あっは〜ん♡ ですか!?」
桃子は素早くつばきの目を覆う。しかし紡はやや掠れた声を出しながら、
「いや、そんなんじゃないけどさ……」
室内をか細く白い指で指す。桃子もその指の先に目を凝らすと、
「Oh……」
「なんですか? 桃子さん私見えない」
四畳半に散乱した
「な、なんですか……」
無気力とは言え流石に驚く神経は残っているらしい、上体を起こしてこちらを見る無精髭の青年。
「やっぱり私みたいな
「いや、まぁ、ある意味では……ってなんですかその自己紹介」
「そもそもキューティクルはキューティーどころか虫の外骨格だよ」
「あの……」
どうでもいい話題に走り出した三人を窺う様に青年は声を出す。
「あぁ、すいません。私、カウンセラーの岡林と申します。本日この日時でお伺いする約束だったのですが、聞いておられませんでしたか?」
紡が慇懃に頭を下げると、青年は気不味そうな顔で目を逸らす。
「その、親からのラインとか、見てないんで……」
「そうですか」
それを紡は咎めるでもなく(そんな義理も無いし)、にっこり笑って足でゴミを払い、ハンカチを敷いて腰を下ろした。
「ではぼちぼちお話しましょうか。まずはお名前から」
「お構いも出来ませんで……」
青年、実義はインスタントコーヒーを持って来た。無気力ではあるが、根は丁寧で礼儀正しいのだろう。
「これはどうも、わざわざありがとうございます」
紡はコーヒーを受け取り、実義が全員分のコーヒーを配り腰を落ち着けてから切り出す。
「さて、単刀直入にお聞きしますが、どうなさったんですか?」
「なんて
「あっはぁ!」
桃子が後ろでボソッと呟くと素早くノールック水平チョップが飛んで来て、彼女はつばきを巻き込みながら薙ぎ倒された。
実義はそれを目で追いながらポツポツ言葉を紡ぐ。
「その、なんというか、やる気が起きないんです」
「夏休み明けで五月病ですか?」
つばきと絡まって倒れたままの桃子が懲りずに口を挟むと、その土踏まずに紡の親指が突き刺さる。
「イヤァオ!」
「いやん上で暴れないで!」
「それは大学が面倒臭くなってしまった、ということですか?」
「いえ。と言うよりかは、僕は経済学部なんですけど、就活を考えた時に『自分が将来何をしたいのか、どういう会社で働きたいのか』が分からなくなってしまいまして。何も分からないんです。思い付かないんです。そうしたら就活に対する意欲を失って、最終的には『就職も出来ないのに大学出たって』ってなってしまって……」
起き上がった桃子が紡の袖を引っ張り耳元で囁く。
「ちょっと紡さん。何真っ当に、真っ当かな? とにかくカウンセリングしようとしてるんですか。実義君には何が憑いてるんですか? 人を堕落させる妖怪とかですか?」
「取り憑いて堕落させるのは西洋の悪魔ですね。日本の堕落させる妖怪は女の姿で現れて男を溺れさせるパターンです」
「なんか嫌ですねそれ」
「君らはうるさくするなら表でキャッチボールでもして来なさい」
紡は手で「しっしっ」と桃子達を払うと実義に向き直る。
「精神科とか行かれました?」
「いえ、そういうのは特に……」
紡はうんうん、と頷くと、唐突に笑顔になった。
「じゃあ、『これから』は置いといて、あなたの『今まで』についてお話しませんか?」
「今まで、ですか?」
実義の顔が疑問でいっぱいになった。
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