一.我のポワレ 〜Too many cooks spoil the brothを添えて〜
またぞろ冬の始まりである。ただでさえ気乗りしない出勤がますます勘弁してほしいものになる。また、沖田桃子という個人においては素足になると剣道場の床が冷たいので重ねて憂鬱。どうか先輩に稽古に誘われ(強制)ませんように……、銀河を巡る鉄道の車掌みたいなコートを着込んだ桃子は自転車に跨った。
今日も今日とてまずは署に出勤、備品やらなんやらを取りに来たところで、
「おはようさん」
「ひゃいぃ!」
桃子は思わず飛び上がった。先輩に見付かった! 地獄の寒稽古か……!? 桃子が振り返ると、そこにいたのは覇気の無い顔。
「なんなの声掛けただけで。傷付くなぁ。オジサンが知らないだけで、最近は挨拶ハラスメントとかあるの?」
「さぁ、詳しくないもので」
桃子は少しだけ平穏を取り戻した。近藤ならまず朝稽古に駆り出されることは無い。
しかし「少しだけ」である。何故って勤務時間中はデスクでスポーツ新聞の競馬欄を見ることに命を賭けている近藤がわざわざ話し掛けて来たのだ、絶対に……
「なぁ沖田。ちょっと話聞いてくんない?」
厄介なことがあるに決まっているのだ。
その夜。桃子が紡邸に縁側から上がろうとするとつばきが飛んで来て、
「玄関! 玄関から!」
と押し止めてきた。
「どうしたんですか今日に限って。紡さんでもそんなところ厳しくないですよ」
桃子が押し通ろうとすると、つばきは妙に高い声で
「あーっ! 困りますお客様! アーッ!」
とか叫ぶので大人しく従った。
それでわざわざ玄関に周りドアを開けて入ると、
「……」
なんか無言でつばきが突っ立っている。黒いカンディンスキーの『さまざまな円』Tシャツに、トランプみたいな赤のシェパードチェックの巻きスカートという出で立ちで、むっつり無表情なのがシュール。
「……」
「……」
「……どうしたんですか?」
「フランスの飲食店では日本と逆で、客の方が挨拶するんですよ」
「ここはいつからフランスになったんですか」
「……」
「……ボンジュール」
「ボンジュール」
ようやくリビングまで通してもらうと、そこには小洒落た様子で整えられた食卓が。
白いテーブルクロスにピカピカのナイフとフォーク、曇り一つ無いグラスまで。
「何が始まるんです?」
「座って下さいムッシュー」
「誰がムッシューですか」
つばきが半ば無理矢理桃子を席に着かせ、ナプキンで首を絞めてギブアップのタップをもらっていると、
「つばきちゃーん、そろそろいいんじゃなーい? 焦げるよー?」
キッチンから紡の呼ぶ声がする。
「はーい、ただいまー!」
つばきがパタパタキッチンに戻ると一人になった桃子は急に手持ち無沙汰。スマホを見たりしていたがすぐ暇になったのでキッチンへ追い掛ける。
ジュワアァァという音に誘われて一歩踏み込むとそこには、
「具合どう?」
「焼ーけましたー!」
「おおぉ!」
つばきが火から上げたフライパンには、魅惑の湯気を立たせるカリカリに焼き上げられた白身魚の切り身。
それを半切りのベイクドプチトマトと茹でたホワイトアスパラが待つ白い丸皿に下ろすと、
「よし来た」
紡が匙でボウルから緑の粘性ある液体をサッと一文字に引く。
「出来た!」
「まぁ美味しそう!」
大喜びでハイタッチする二人。桃子もその輪に混ざろうと
「すごいですねぇ! これはなんですか? 焼き魚?」
二人に近寄ると、すごい冷たい目で見られた。
「困りますお客様」
「厨房は関係者以外立ち入り禁止となっておりますお客様」
テーブルに戻された桃子がナイフとフォークを握り締めて待っていると、
「〜
つばきが皿を運んで来た。知らぬ間にちゃっかりシェフ帽を被っている。服装はTシャツだしシェフが配膳することはそうそう無いと思うのだが。
「紅葉鯛?」
「秋から初冬の、産卵期を終えた後の最も脂がのった鯛でございます。もうシーズンぎりぎり、最後の紅葉鯛を是非ご賞味下さいませ」
「なるほど」
すると今度は紡がワインボトルを持って来る。こちらもシェフ帽だが、服はカンディンスキーの『円の中に円』Tシャツとシアンのドレープパンツ。
「こちら白ワイン、冷涼地アルザスからリースリングの一品です」
「分かりません」
「分かれ」
「無茶な!」
とにかくグラスにワインを受け取り、その横にミネラルウォーターも受け取り、バゲットとサラダももらっていざ実食。
ナイフを入れるとカリッサクッとした感触。ムニエルと違って小麦粉を塗していないのにこれは素晴らしい仕上がりである。しかし中はふんわりしっとりジューシィで旨味たっぷりの汁を含んでいる。
そこに緑鮮やかなホウレン草のソースをたっぷり付けて一口。
「んーん!」
濃厚なホウレン草の風味に玉ねぎの甘み、そしてバターのコッテリ感。それが淡白ながら噛めば噛む程旨味溢れる白身に様々な色付けをしていく。
そこに白ワインを一口。フローラルな甘みはソースの濃さに全く負けていない。互いを高め合いつつ、最後は力強い酸味で全てをさっぱり、如何にも冷涼地といった風情に治める。
「私は断然お肉が好きですけど、これは美ん味いですよ!」
桃子は大喜びでシェフ(もう帽子は脱いでいる)達に報告するが、当の本人達は、
「……ちょっとしょっぱ過ぎません?」
「結構鯛に下味付けた?」
「淡白ですし、ほうれん草ソースなのでちょっと塩味を。このソース、バター使ってますよね?」
「たっぷり。鯛は淡白だし、ほうれん草の青味も丸くしたいし」
「……」
「……」
「ど、どうしたんですか? 美味しいですよ?」
「しょっぱい」
「しょっぱい」
「えぇ……」
紡とつばきはナイフとフォークを動かしつつ、なんだか反省会に入りつつある。
「やっぱり打ち合せ不足で分担したのがいけなかったね」
「せめて先に味見するべきでしたね」
「何事も、急に回されても困るってことだね」
「『
なんだか「美味しいです!」とはしゃげない雰囲気になってきたので、桃子はそれを白ワインで飲み込んだ。
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