一.主従と反発とざるうどん
その日桃子は
「うおおおあああああ!!」
移動サーカスから脱走した虎と、これを捕まえるべく
もちろん一対一ではない。近隣の警察官を招集し、透明な盾を構えたスクラムを組織し虎を囲み、その後ろに刺股で抑えに掛かる部隊を配備し、遂に勝負!
桃子は遮二無二刺股を突き出している。
「ガルルアァ!」
「ひいあああ!」
ガリバリ! と鈍い音を立てて虎が桃子の刺股に噛み付く。あまりの衝撃と引っ張る力、何より恐怖で腰が砕けそうになった桃子だったが、彼女が力尽きる前に一瞬の隙を突いた同僚達が無数の刺股を突き出し虎を制圧した。
「ガルアッ! ガァッ! ニャオオンッ!!」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「こちらA班! 虎確保しましたどうぞ!」
同僚が無線報告するのを横で聞きながら、桃子は飛んで行った魂が帰って来るのを待つばかりだった。
「よーし、解散ー!」
虎をサーカスに引き渡し、警官隊を解散したところで桃子は腕時計を見た。
「十一時三十二分……、もうお昼時ですか」
桃子はさっさと交番に戻ってお弁当にしようと道を振り返り、
「あ、この辺って」
すぐ近くに紡邸がある立地だということに気が付いた。すると桃子の頭は悪い方向に思考を巡らせる。
「どうせ昼休憩みたいな時間ですし、紡さんとこでお昼ご馳走になりましょう」
桃子は交番ではなく紡邸に足を向けた。お弁当はどうするつもりなのか。
いつものように物干しに周ると、今日は縁側に誰もいない。普通なら玄関でインターホンを鳴らすかせめて縁側から中へ声を掛けるべきなのだが、桃子はもう自分はこの家の一員だと思っているので堂々不法侵入した。
取り敢えずリビングに行くも、紡もつばきも姿は無い。
「お留守でしょうかね?」
桃子が独り言を呟くと、
「いますよ〜」
キッチンの方からつばきの声がした。
「あ、よかった」
本来なら姿が見えないまま幽霊の声がするなんて何もいいことないのだが、まぁ、つばきなら、いいか。
桃子が台所に行くとそこには、
「よっほっ」
オオフウチョウの浴衣を纏ったつばきが、なんだか変な動きで揺れている。
「そろそろ浴衣寒くないんですか?」
「下にシャツとスパッツ完備です」
まぁそもそもつばきは暑さ寒さを感じないのだが。
「そこまでして……。それは置いといて、何してるんです?」
「お昼ご飯作ってます」
「ご飯?」
変な動きをしているつばきの足元を見ていると、何かラップに包まれた白い塊が見える。
「あっ、もしかして、うどんですか?」
「はい。秋にざるですけど」
「そりゃ家でお
「ですよねぇ。あ、今日は大根おろしと
「あ、違う手間は掛けるんですね」
「あは」
桃子はリビングから椅子を持って来て、キッチンの入り口辺りに置いて座る。
「そう言えば紡さんはどちらに?」
「屋敷の方でなんかしてましたけど」
「ほう」
しかし噂をすれば影、
「おや、桃子ちゃん来てたの」
「紡さん」
「作業はもう済んだんですか?」
「いや? ちょっと喉渇いたんだ」
ヘビクイワシの浴衣の紡は棚からグラスを取り出す。必死に小さな足を動かすつばきを見て、桃子は紡に提案する。
「紡さん、うどん踏むの代わったらどうですか?」
「ん? なんで?」
「なんでって……」
桃子は紡とつばきを交互に見る。
「絶対つばきちゃんより紡さんの方が体重あるんだからうどん踏むのに適してますよ」
「女性に対して体重の話?」
「つばきちゃんと張り合うのは無茶でしょ」
「それはそう」
紡はリビングの方へ向かう。
「でもつばきちゃんの方がいいんじゃないかな?」
「は? なんでです?」
「あは。うどんって踏み過ぎても固くなっちゃうんですよ」
うどんから降りたつばきが生地を拾う。
「そうなんですか?」
「はい。なので体重が違う紡さんに代わると踏む回数の計算狂います。計算してませんけど」
「へぇ〜」
「うどんの気持ちになって考えてごらん」
リビングから泡盛(昼間っから空きっ腹で)が入ったグラス片手に紡が戻って来た。彼女は冷蔵庫を開ける。
「うどんの気持ちぃ?」
「そう。何故うどんを踏めば美味しくなるのか、それは『踏む』という行為の『呪』を考えれば分かる」
「げえっ!」
「なんだよ」
「なんでも」
またも面倒な話が始まりそうなので、桃子はつばきの作業を見て紡には生返事で返すことにする。
「桃子ちゃん、『上司に靴を贈ってはならない』ってマナー知ってる?」
「あーはい、確か見下すとか踏ん付けるとかいう意味になるんですよねー」
「その通り」
紡は嬉しそうに桃子を指差すと、リビングに戻って行く。
「つまり『踏む』という行為には上下、主従を決める『呪』が込められているんだ」
「SMの女王様みたいな」
「その発想にはドン引きだけどそうだよ」
つばきが小さく「あは」と笑うのが聞こえて、桃子はSMの意味が分かる童女に軽い恐怖を覚えた。
「それとうどんの気持ちとやらが、どう関係あるんです?」
「うどんを踏むということは、さっきの理論でいくとうどんに主従を叩き込むことになる。人間が主、うどんが従。そうすることによってうどんは主従を心得、主の為に美味しくなるわけだ」
「そいつはすごいやー」
「あはー」
「しかし逆に桃子ちゃんがなんらかの主従で従サイドだったとしよう。過剰に踏み付けられたら?」
「キレます」
「そう。キレるし逆らう。歴史を紐解けば人間も抑圧され過ぎると爆発して逆襲することははっきり分かる」
桃子はつばきにうどんを切るのを交代してもらった。一度やってみたかったのだ。まともに紡の話を聞く気は無い。
「だからうどんも踏み過ぎると人間に逆らって美味しくなくなるのさ。態度も食感も固くなる」
「へぇー、普通は一回でも踏まれれば態度固くなると思いますけど」
「あは。そもそもその理論だと『食べ物はなんでも踏んだら美味しくなる』になってしまいますよね。プリンでも踏みますか?」
つばきは桃子と交代して一旦キッチンを出たところで、
「あ!」
「どうしたの?」
「どうしたんです?」
桃子もキッチンを出ると、リビングには紡と、見るも無惨に搾られて泡盛に浮かぶ酢橘の姿が。
「わ、た、し、が……」
「つ、つばきちゃん?」
桃子はワナワナ震えるつばきに、爆発しそうなので触れることが出来なかった。そして、
「私がうどん用に用意した酢橘をーっ!!!!!」
つばきは紡に飛び掛かった。椅子から落ちる紡、フローリングで揉みくちゃになる二人。遂に上を取ったつばきが紡を踏み付けたのを見て、桃子は思わず呟いた。
「あ、主従が逆転した」
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