八.夜を駆ける

 家の前で降ろしてもらい、車の車庫入れまでしてもらった桃子。本来なら紡達を彼女らの家で降ろし、自分が運転して帰って来るべきなのだろうが、そんな気力は無かった。


「桃子、どうしたの?」

「お、男に何かされたのか!」

「クゥ〜ン……」


しょぼくれて帰って来た彼女を両親も大五郎も心配してくれたが、桃子は上手く言えず、シャワーだけ浴びて布団に潜り込んだ。

しかし誰しも経験があると思うが、気持ちの整理をしないままベッドインするのは非常に良くない。何故ならベッドは一日の最後に着地する場所で、一度そこで座を固めたら基本もう何処へも行かない場所だからだ。

つまりそこに入った後で気持ちの整理を始めてしまうと、辛い思いになったり整理が着かなかった時にもう逃げ場が無いのだ。いっそ一度起き出してしまえればなんとかなったりするのだが……。


「……」


桃子の脳裏にいくつもの光景が流れる。「ぬ」と出会った時のこと、「ぬ」のテレビを見る後ろ姿、「ぬ」が初めて喋った驚き、「ぬ」と出掛けたパトロール、「ぬ」と食べたチャーハン、「ぬ」と遊んだ遊園地、「ぬ」と手を繋いだ確かな温度、「ぬ」の頭を撫でた感触、「ぬ」と抱き合った圧、「ぬ」の自分を呼ぶ声、「ぬ」の笑顔。

「ぬ」の

「ぬ」の

「ぬ」との



そして最後に想像とは思えない程くっきり浮かぶ、暗い夜道で心細い顔をした「ぬ」。



桃子は掛け布団を蹴飛ばして跳ね起きる。見れば枕に何やら湿った色も。桃子はその忌々しい色を枕ごと投げ飛ばした。


「お前が泣いててどうする桃子!」


寝巻きのジャージに上着だけ羽織った桃子は、玄関に置いてある車の鍵を引っ掴んで秋の夜長に飛び出した。

背中を押すように秋虫が鳴いている。






 もう真っ暗でヘッドライトの照らす範囲しか見えなくても、どんどん街灯が減っていっても、人の営みの気配が遠ざかっても怖くない、何も思わない、気付きもしない。

今の桃子には前しか、いや、物理的な前なら見えない。

自分を待っているあの子の笑顔と、彼女と描く未来という概念的な「前」しか見えない。


そうしてアクセルを踏み込み夜を行く桃子のハイビームの中に、ぽっと浮かび上がるシルエットが。

今の桃子には不確かな像でも分かる、愛して求めてやまない、見間違うことの無い姿が。


桃子はブレーキを踏み切り車を停めると、ドアを跳ね飛ばすように降車し、ライトの中眩しそうにしている小さな影に駆け寄る。


「ぬー!!」


桃子は勢いそのまま相手を抱き締めた。可哀想な程震えているのが、触れた腕から胸から首筋から伝わって来る。

桃子の鼓膜に、その震えのままの声が染み入る。


「桃子……?」

「そうですよ! 桃子ですよ!」

「もも、こ……!!」

「ごめんね! ごめんね! 寂しかったね? 心細かったね? 辛くて寒くて痛かったね?」

「うん……、うん!」

「もうこんなことしないからね! もう離さないからね!」

「うん……。でも、でもね? ぬーね? 泣かなかったよ? 我慢して頑張って歩いたよ? 偉い? 褒める?」

「うん……! うん……!」

「えへ、ぬー、褒められるの、好き……、あっ、あっ」

「偉いよ、ぬーは偉いよ? だから」


桃子はぬーの頭を撫でながら肩に抱き寄せ、背中を軽くトントンと叩く。キュッとぬーの身体に力が入る。桃子はそれを解すように囁いた。


「泣いてもいいんだよ?」

「あっ、あっ……! ああああーん! あーん!!」


桃子の目には散々笑顔を思い出した「ぬ」の、悲しみと安堵の顔が映る。それが彼女の胸に相手と丸っ切り同じ感情を呼び起こす。まるで触れ合った胸を通して流れ込むかのように。


その全てを抱き止めるかのように、お互いの腕の力が強くなった。






「良いですか? 紡さんが目のかたきにしていて危ないので、不必要に外には出ないこと」


果たして桃子は「ぬ」を交番に連れ帰って来た。一日だって空けたわけじゃないのに、「ぬ」が宿直室のベッドの上にちょこんと座っている光景をすごく待ち遠しく思っていたような気がする。そしてどれだけ愛おしく感じることか。

そんな桃子の感慨を知ってか知らずか、「ぬ」は可愛らしく身体を揺する。


「えー? じゃあもうパトロール付いてけないの?」

「そうなりますね」

「つばきちゃんとテレビ見たり本読んだり出来ないの?」

「む……、残念ながら」

「ぬぅー、ぬぅぅー!」


ぷんぷんと怒りをあらわにする「ぬ」の姿が、桃子には申し訳無いながら堪らなく幸せに感じられた。


「大丈夫。その代わり私が今まで以上に一緒にいますから」

「本当!?」

「本当ですとも。今日は狭いですけどこのベッドで一緒に寝ましょう」

「わぁい!」


その晩二人はしっかりと手を握って眠りについた。「ぬ」の手を握る力の強さに、桃子は明るく振る舞った少女の本当の声が聞こえるようで悲しくなった。

それをまた謝ったりウジウジする代わりに桃子も強く握り返す。もう離さないという決意を込めるように。






「ぬー……!」

「これっばかりは仕方ないんですって。仕事なんですから。すぐ戻って来ますから」


明くる朝。早速自分を置いて出勤してしまう桃子に対して「ぬ」は真っ赤に潤む膨れっ面をしている。


「そんな顔されると、仕事に行けなくなるじゃないですかぁ」

「行かなくていいよ」

「そうはいかないんです」

「やっぱり行かないんじゃん」

「いやいや、それは言葉の綾で」


迷子用に置いているぬいぐるみを抱き締めながら駄々を捏ねる「ぬ」を見ていると、桃子は自分が小さい頃父親が名残惜しそうに、でも何処か幸せそうに出勤していく姿を思い出す。

今の桃子にはその気持ちが深く分かる。出来ることなら自分だって側にいたい。しかしこの一歩が帰る場所を守るための一歩であることを、帰りたくなる幸せな場所があるという誇りを知っていれば、おのずと足取りに力が入るのだという気持ちが。


「じゃあ行って来ます。賢くお留守番するんですよ?」

「お留守番出来たら褒める?」

「もちろんいくらでも! では」

「ぬー……」


「ぬ」を一度ぎゅっと抱き締めて、意気揚々と宿直室を出て交番フロアを抜けて玄関を開け放つ桃子。



「ひゅっ」



喉から変な引き攣った空気が漏れた。何故ならそこには、


「おはよう桃子ちゃん」


ゾッとする美しさで朝日に照らされる紡が立っていたから。

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