三.消えた女

 さて、空腹を満たした桃子は携帯で近藤に連絡を取った。彼は警察官で課長のくせに、いつもやや遅れて電話に出る。採用試験に受かったのが不思議なほど動きの機敏さに欠けるのだ。このことを指摘すると本人は


「通話前に報告内容をもう一度反芻はんすうする時間を作ってるんだよ」


とかかすのだが。

呼び出し音六クール目でやっと繋がった。


「もしもし! こちら沖田であります」

『はいはい。近藤です』


声の後にコーヒーを啜る音がする。いい御身分め! 出世欲など無い(将来のビジョンが無い)桃子だが、こういう時だけは上司が羨ましくなる。


「例の脱走老人の件でありますが」

『何かあったの』

「近所の方のご協力を仰げることになりました」

『そーなの』

「ですのでもう、この件はその方に任せてよろしくありますか?」

『いいんじゃないの?』


一秒とて熟考したり精査する様子が無い。


『じゃあそういうことで。現時刻を持って沖田桃子巡査の特別任務を解除します』

「承知しました! では仕事終了で上がってもよろしいでしょうか?」

『いいわけないでしょ。病院側にも話通さないといけないから、細かい報告をしに来てちょーだい』


これ以上桃子がメンドくさいを言わない内に、といった感じで通話は切られた。


「ちぇっ、ケチなんですから。そういうわけで二人とも、私今から署に行かなければならないので一旦お別れです」

「またなんの罪を犯したの」

「自首じゃないですから!」

「『いつも明るくて元気な人だったのでぇ、まさかこんなことするとは全然思ってなかったです』」

「このっ!」


セルフ目隠しに変な声で知人女性インタビューのモノマネをするつばきに制裁のをしてから、


「では!」


桃子はまた軋む音をばら撒きながら署へ向かっていった。






 近藤に小竹のことを報告し、正式に任務を解かれた桃子は今度こそ家に帰ろうとしたが、


「何言ってるの。通常の交番勤務に戻りなさい」


とあっさり却下されて終わった。

 そうして桃子は今、馴染みの交番でおやつ時のラジオを聞きながら暇している所である。


『私さ、「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」ってのがどうもピンと来ないんだよね』

『そりゃまたどうして』

『前二つは分かるの。芍薬と牡丹はすごい似てるから。でも百合て! 百合て! 急に別物の花なんだよ! 歩いた瞬間にさっきまでいた美人が別の美人になってるんだよ! 薬師丸ひろ子が冨永愛になるくらい別人なんだよ!』

『なんだその例え。まぁ「立つ」「座る」と違って「歩く」は動きがあるから印象変わるってことで違う感じの花なんじゃないか?』

『いーや私はいいのが思い付かなくて無理矢理三つ目を置いたと思うね!』

『だとしても別にいいと思うんだがなぁ……』


「相変わらず変なことに噛み付くMCさんですねぇ」


桃子が愛用の湯呑みで玉蜀黍とうもろこしの髭茶を飲んでいると、ルルルル! と固定電話が鳴った。


「もしもしー、こちら京都府警堀川一条……」

『もしもし沖田ちゃん? 近藤です』

「あ、課長。どうしたんですか?」

『それがねぇ、今井さんが脱走したみたいなの』

「もうここまで来たら病院の怠慢でしょ」

『みんな忙しいからねぇ。ずっと見張っとくのは無理みたいよ』

「じゃあもうベッドに縛り付けるんですね」

『そんな話しに電話したんじゃなくてね』


近藤は声を少し真面目そうなトーンに落とした。


「なんでしょう」

『病院側も脱走に気付いたんだけど、大木さんが連れて来てくれる話になってるから暫く待ってたのね』

「はい」

『でもいつまで経っても今井さん帰って来なかったんだって』

「なんと。大木さんは何してたんですか」

『病院の人が迎えに行ったら今井さん一人で大木さんらしき人はいなかったらしいのよ』

「職務放棄ですか」

『それはどっちかと言うと沖田ちゃんの方だけどそれは置いといて。それで病院の人も聞いてみたらしいんだ。「大木さんに会いませんでしたか」って』

「そしたらなんと?」


近藤は一拍置くと、まるで怪談のクライマックスを語るようなトーンで切り出した。


『「大木さんなんて知らない。近所にそんな人いない」って言ったんだって……』

「えぇっ!? それってどういう!?」


近藤は声のトーンをいつものダラけた感じに戻す。


『つまりあの大木さん……、本名かも怪しいけど、彼女は今井さんに全く関わりの無い人物だったんだ。庭の掃き掃除までしてるのに』

「不法侵入です!」

『他にも君に電話番号を教えなかったり、色々怪しいでしょ? と言うわけで君にはその大木さん捜索の任に就いてもらう。唯一顔を見てるからね』

「分かりました。……課長」

『なんだい』


電話口の近藤には分かるまいが、桃子はニヤリと笑った。そう、桃子は最初からあの二人を道連れにしようと声を掛けていたのだ。


「……実は私以外に顔を見ていた市民の方がいらっしゃいまして、その人にも協力してもらっていいですか?」

『それはいいよ。でも一応人相書き作るから先に署に来てね』

「承知しました! 急行します!」


桃子は電話を切ると表に飛び出し、自転車に跨った。そして紡邸がある方角を見ると、


「いつもは私が仕事の手伝いさせられてますからね。たまには紡さんに私の仕事を手伝ってもらいましょう……」


手伝ってもらったことは既にあるし、向こうの仕事には自分から首を突っ込んでいるくせに桃子はニンマリ笑った。

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