一.美味しいアラビアータはいかが?
その日桃子は弁当を家に忘れてくるという人類史に残る悲劇に見舞われた。
取りに帰るかママに持って来てもらうか考えた桃子は、交番を空けておくのはあまりよろしくないという普段を省みてどの口が言うのか興味深い結論を出し、ママに電話した。
『もしもし』
「ママ! お弁当忘れた!」
『そうね。さっき見たら庭にあったものね』
「庭に!?」
『庭に』
「まぁいいや。持って来て♡」
『無理よ』
「なんでぇ? そんなに遠くないじゃん」
『だって大五郎が全部食べちゃったもの』
「大五郎ーっ!」
よもや文字通り飼い犬が飼い主(の弁当)に牙を剥くとは。犬がどうやって弁当箱を開けたのかは
というわけで、結局桃子はお昼ご飯を求めて交番を離れることになった。何故出前を取らないのか。
桃子にはいくつかの選択肢がある。
A.コンビニやスーパーでお弁当もしくはカップ麺等を買う。
B.ファストフード店等でテイクアウトをする。
まぁ大体その辺から選んで迅速に交番へリターンするのが彼女の仕事に対する使命なのだが、
「そうだ! 紡さんとこでご馳走になればお小遣い節約じゃないですか! 私天才!」
こういうウルトラCが飛び出すのが沖田桃子という生物の思考回路なのである。キコキコと油不足の自転車を駆り、決してご近所ではない知人宅へ勤務中にも関わらず向かう桃子であったが、
「あぁーっ!」
それは進むにも戻るにも中途半端な中間地点くらいで起きた悲劇だった。
自転車のタイヤがパンクした。
「私のアル◯ァロメオが!」
どうやら鋭利なものでも踏んだらしい。完全に空気が抜けて、脱皮した蛇の皮みたいになったゴムをホイールがズリズリ引きずっている。
桃子の約二万円のアル◯ァロメオはウンともスンとも、もう何も言ってはくれない。最初から何も言いやしないが。一応鈴は鳴る。
それより問題は炎天下の立ち往生である。
「今日はツいてなさ過ぎですよ……。きっと宝くじ買ったら『追加で金払え』とか出るんだ」
自身もタイヤのゴムのように萎んだ桃子に、追撃を掛けるかのような空腹が訪れる。交番や紡邸への距離も相まって、桃子はどうしようもなく動きたくなくなった。辛うじて道端に座り込まないだけの精神力を維持する為に、青い空を見上げるべく視線を上げるとそこには、
「『イタリアン
小綺麗なイタリアンレストランが佇んでいた。芸能人の歯みたいに真っ白な壁の上に健康的な歯茎のように赤い屋根の、いかにも南欧風な建物。
まぁそんなことはどうでもいい。要は空腹で移動手段も奪われた彼女の目の前にレストランがあって、それがドアに『
「炎天下から逃れ恵みの飲食も得られる、これぞオアシス!」
桃子はアル◯ァロメオを狭い駐車場の隅に停めると、誘われるように店内へ入った。
店内は木材の見た目を全面的に押し出したデザインをしている。席はそれほど大きくないテーブルが離れ小島のように点在しているかカウンターかの二択だったので、桃子は冷房がよく当たるテーブルを選んだ。他に客はいないようなので厨房と一対一になるカウンター席に座る勇気は持てなかった。
「いらっしゃいませ」
桃子が席に着くや否や、いかにもイタリアンが好きそうな若い色男(偏見)がメニューと水を持って来た。
「お決まりになりましたらお呼び下さい」
彼は爽やかに笑って厨房へ戻る。桃子はメニューを開いて、何となくパスタの欄を見る。
定番のミートソースにカルボナーラ、他にはジェノベーゼやボロネーゼ、イカ墨にマグロのトマトソースなんてのもある。色々迷った桃子だが、最後にはありきたりのものを食べても面白くないが冒険もしたくない心理が働いた。
「すいません」
「お伺いします」
「アラビアータをお願いします」
「スパゲッティとペンネ、どちらに致しましょう」
「え? あ、じゃあ、スパゲッティで」
「スパゲッティ・アラビアータですね。畏まりました」
「アラビアータです」
運ばれて来た品のいい白い皿には、真っ赤に所々バジルの緑が美しいパスタが綺麗に盛られている。
「美味しそう……」
「ありがとうございます」
「あっ、はい……」
色男に独り言まで拾われて、桃子はちょっと恥ずかしくなった。顔がパスタと同じ色になるのを誤魔化すように一口食べると、
「うん、うん!」
パンチのある唐辛子の辛味が舌を刺激するが、それがトマトの甘味と酸味で緩和されるので丁度良い具合になっている。特別辛いのが苦手でなければ誰でも美味しくいただける辛味。そしてそれらの裏に見え隠れするニンニクの風味がこれまた味に力強さと奥行きを与えるナイスなスパイスとなっている。
ここでテーブルに置かれている粉チーズをかけてみる。よりマイルドさが増し濃厚なコクも加わるので、味の引き出しが二段三段増える気がする。そして辛味が抑えられる分、より複雑で繊細なトマトソースとバジルのハーモニーを実感することも可能になる。
何にしてもニンニクと唐辛子のコンビは食欲が増して次の一口を求める心理が活発になる。冷房に当たりながらもうっすら汗を浮かべる桃子は、あれよあれよと一心不乱にパスタを口に運び、
「ふぅ……」
気が付けば皿は空になっていた。一息ついた所で唇への淡い刺激に「辛いもの食べたんだ」ということを再度実感する。
さて、お
「エスプレッソです」
色男が食後のコーヒーを置いた。
「えっ、注文してませんけど?」
「こちら私からのサービスです」
「サービス」
「ええ」
色男はまたも爽やかスマイルを繰り出した。
「実は私、つい先日独立したばかりでこのお店もオープンしたばかりなんです。そこに最初のお客様として貴方が来て下さいました。だからこれは記念のサービスです。よろしければ召し上がって下さい」
「そう仰るなら」
エスプレッソは桃子には結構苦かったが、こうして彼女は大満足のランチを終えることが出来たのである。
「よかったらまた来て下さい。独立して最初の、思い出のお客様ですから」
「もちろんまた来ます。独立して最初に作った、思い出のアラビアータを食べに」
桃子は爽やかな笑顔の色男に見送られてドアを潜りながら、数日後には店主目当ての若い女性で店が混み混みになるんだろうなぁと予想した。
そして青い空を見上げて素敵な店との出会いに心躍らせ、
パンクしたアル◯ァロメオを見て現実に戻され、一気に嫌な気分になった。
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