第16話 手紙

 ムガマ・オ・トウリは、斎殿ウィルカ・ファシの石造りの湯殿に満たされた薬湯に浸かりながら、流れる雲を眺めていた。

 ファラが翠緑苑コメ・ムヤに来なくなり五日が経った。


聖妃ワカ・コヤ様が、そう御命じたと聞き及びました」


 チェスカが事情を調べ、そう教えてくれた。


「そうですか」


 それに淡然と答えたトウリは、それからも変わらない日常を過ごした。こうして薬湯での斎戒沐浴の務めを果たし、ムガマ・オ・トウリとしての慈愛の心をもって、すべての民の恵みと実りを祈る。全身に刻まれた赤い蔓草の刺青は、それがムガマ・オ・トウリの使命であると物語っていた。彼はそれを信じて、この五日を過ごした。しかし――。

 木々に囲まれた斎殿ウィルカ・ファシの湯殿に風が吹いた。梢が鳴り、薬湯に波をさざめかせる。

 トウリはそこに心を抜けていく風穴の音を聴いた。


(――これは?)


 その音に驚く。トウリはこの心に吹く風を言葉にできず、風穴を塞ぐように自分の胸を押さえる。

 けれど風は止まず、そこには冷え冷えとした虚しさが、漠然と広がっていくだけだった。


「……チェスカ」


 戸惑うトウリは、湯船の縁に控えているチェスカに顔をむけた。


「どうされました、トウリ様?」


 そう問われてトウリは困ってしまった。言葉にできない自身の変調を、どう訊ねればいいのか。彼は胸を押さえる自分の手を見た。穴を塞ぐように押さえた手。何故そこに穴を感じるのか? 思い当たる変化はただひとつだけだった。

 いつも痛みの中にいて、幸せに怯えるように身を引こうとする少女。


「……彼女は」


 トウリはその少女の、空を飛ぶ鳥のように軽やかな舞を思い浮かべた。

 トウリはその少女の、綾絹あやぎぬのように繊細で艶やかな歌声を思い浮かべた。

 トウリはその少女の、触れては消える夢のように小さく儚い微笑みを思い浮かべた。

 だからトウリはチェスカに訊いた。


「ファラーレさんはどうしているでしょうか?」


 彼女がここにいないことが理由であるならば、彼女の存在を胸に感じれば、この心に吹き抜ける風穴も塞がるのではないか。そう思って口にした言葉に、チェスカは驚いたようにその目を大きく見開いた。


「どうしました?」


 その反応にトウリが首を傾げる。チェスカは一息を置いて懐に手を入れると、一本の小さい筒をトウリに手渡した。


「……もしトウリ様がファラーレ様のことをお訊ねになられたら、これを渡して欲しいとルントゥに頼まれていました」


 それは赤い粘土できちんと蓋の封をされた書筒であった。素焼きで作られた飾り気のない筒には特に宛名など書かれておらず、封の粘土にも送り主が誰かを示す印は捺されていなかった。それは誰から誰へのものとわからないように、意図的にそうしているようだった。


「これは?」

「ファラーレ様のお言葉をルントゥが代筆した手紙と聞いております」


 封の粘土を砕き、中の手紙を取り出す。筒状にくるまった紙を開き、そこに書かれた文字を読む。


あなたをカンパ愛しています・ムナイ


 その言葉にトウリは胸の風穴を塞ぐ暖かいものが身体の奥底から広がっていくのを感じた。それは濁りない湧水のように静かにしっとりと彼の心を満たしていく。しかし――、


(どうして?)


 それを感じれば感じるほど、トウリはこの場にいない彼女の顔を思い描いて、言いようの知れぬ焦燥が、身を焼くように自分を責め立ててくることに戸惑った。


(この感情は?)


 それは飢餓に似た感情に思えた。与えられない苦しみ。トウリはそれを知っていた。その苦しみに恵みを与えることこそが自分の役割――ムガマ・オ・トウリの役割と教えられてきたからだ。


(――私は、彼女と会うことを欲している?)


 そう思い至ってトウリは驚いた。与える側の人間が与えられることを望んでいる。そのようなことがあってよいのだろうか? あらゆる人に隔てなき手を差し伸べることが自分の、ムガマ・オ・トウリの使命であるはずなのに、今の自分は彼女だけに手を差し伸べることを望んでいる。彼は罪悪感にも似た戸惑いを覚えながらもう一度、手紙に書かれた文字を読む。

 そのときトウリの目に、手紙の隅に書かれた小さな文字が映った。


「……少し、一人にしてください」


 トウリの頼みにチェスカがしずしずと下がる。一人になったトウリは、この小さな文字をじっと見つめる。それは人の目に触れないようにひっそりと、はばかるように控え目に書かれた小さな文字だった。そしてトウリに気付かれなければ、そのまま諦めの中に消えてしまうことも覚悟した、痛みの中で佇む彼女のような小さな文字――。

 トウリは確かめるように何度もその文字を読み、そして何かを決心するように顔を上げた。

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