第15話 ルアオ・イ・オム
「数百年前、
自室に戻ったファラはサタハを部屋に招き入れ、ムガマ・オ・トウリについての話を聞いていた。その説明に関して、サタハはまずこの国インティ・パチャの成り立ちについて語った。
「当時、ムルカと呼ばれていたこの土地は、とても貧しかった。乾季に土地は日照り、雨季には大雨が土地を洗い流すからだ。ムルカとは“苦しみ”という意味だ。人々は飢えていた」
燭台のゆらめく灯りが、サタハの顔に揺れる影を映し込む。差し向かいに椅子に座るファラは手で胸を押さえながら、その揺れる影をじっと見つめていた。
「そこにアヤル・カチは現れた。彼は人々に言った『
これによって雨季の雨を溜め池に蓄え、乾季の農作に利用できるようになった。また貯蔵庫に乾季の収穫物を雨季の食糧として保存するようになり、人々は飢えから救われたという。この功績によりアヤル・カチは人々に
「しかし、
そこでサタハは一息つき、詩を吟じた。ルアオ・イ・オムについての詩だった。
――慈しみ深き雨雲の女神
天駆ける豊饒の使者
その名はルアオ・イ・オム
七色の天輪を戴きし天界の水蛇
その雄々しき羽根は黒き大鷲のもの
その光輝なる鱗は碧緑の
その美々しき尊顏は白面の処女のもの
その名はルアオ・イ・オム
無限の体躯持つ、水煙を纏いし神なる水蛇――
詩に讃えられるルアオ・イ・オムの姿の描写に、ファラはトゥパク・ユパンキの
「ルアオ・イ・オムはこの詩にあるように大地に恵みの雨をもたらす豊穣の神として敬われると同時に、怒り荒ぶる災神として畏れられてもいた。ルアオ・イ・オムは稲妻を従え、風雨を纏い、雨季とともにこの地を訪れる。風は木々も家も薙ぎ倒し、雨は川という川を氾濫させる。人々は畏れ震えながら、ルアオ・イ・オムの怒りが過ぎ去るのをただ耐え忍ぶしかなかった」
では、あの柱に蛇に捧げられるようにして描かれていた子供のように小さい人の姿は――。
「アヤル・カチはどうにかできないかと考え、
その名前にファラの胸が跳ね、その目が見開かれる。サタハはそんな彼女を落ち着かせるように淡々と語り続ける。
「ムガマ・オ・トウリとは『恵みを与えるもの』という意味だ。アヤル・カチはこれを隔てなき慈愛の心を持つものと理解し、国中からそのような人を探し、そして一人の少女を見い出した」
隔てなき慈愛の心――。その言葉にファラは、あの少年の雪解けを告げる春のような微笑みを思い浮かべる。
「ママ・ラウとその名を伝えられる少女は、アヤル・カチにその役目を伝えられると、少しのためらいもなくうなずいたという。人に怒りを見せたことのない、優しく、慈しみ深い少女であったという」
その少女のうなずきが、ファラの心に浮かんだ少年の微笑みに重なる。胸を抑える彼女の手は自然に固く握られ、それを見るサタハは一息をつき、しかし言い澱むことなく少女の運命を語った。
「少女はルアオ・イ・オムの前に捧げられた。ルアオ・イ・オムが少女を呑み込むと、あれほどに吹き荒れていた風雨は治まり、細く静かな雨が優しく降るようになった。少女の心がルアオ・イ・オムに宿り、『
燭台の
どこからか吹いたすきま風が、かさりとかすかに部屋を鳴らした。沈黙に吹く夜の風が、ファラに寒さを思い出させる。どこまでも冷え切った冬の寒さの奥底で、ひとり膝を抱えて凍える夜を生きてきた。それが自分の過去であり、そして変わらぬ現在のまま未来へ続く現実であることを、足元から伝わってくる夜の寒さが告げていた。ファラはうつむき、這うように床に横たわる夜の闇に沈んだ、自分の足先を見つめた。
「――しかし」
そこでサタハが口を開く。顔を上げたファラは、サタハの瞳が風に揺れた灯火にゆらめくのを見た。そのゆらめきに走った翳りは悲しみの色に見えた。
「しかし十数年を経て、ルアオ・イ・オムは再び荒れ狂う神となった。年月が心を荒ませたのだ。新たなムガマ・オ・トウリが必要となった。今度は少年が選ばれた。シンチ・ロカとその名は伝えられている」
サタハは苦しげに語った。先ほどまでの淡々とした語り口では耐えられぬように、苦しげに語った。
「それを繰り返す内に、人々はやがてムガマ・オ・トウリを育てるようになった。選ばれた少年少女たちは、この宮殿の
そこでサタハは「さっきの詩には続きがある」と言った。
――我らは貴女に捧げ奉る
心を
無垢なる奉仕
愛を
隔てなき手
貴女の心
ムガマ・オ・トウリ
貴女の心
捧げ奉る
貴女は与える、恵み多き雨を
貴女は斥ける、砂の如き渇きを
貴女は与える、実り多き
貴女は斥ける、夜の如き飢えを
我らは飢えなく営み
我らは健やかに育む
貴女は与える
恵みを、実りを
与える
愛を――
「その穢れなき慈愛の心をルアオ・イ・オムに捧げ、人々に恵みを与えるだけの存在にするためにな――」
そして心の底から苦々しげに、サタハはそう吐き捨てるように言った。
「
そこまで話したサタハは、問うようにファラの目を見た。そして小さく首を振ると、それ以上は語らず、静かに椅子を立って部屋を出ていった。ファラは呼び止めることもせず、夜の闇に囲まれた部屋に佇んで、じっと燭台の灯火を見つめる。
静かに燃える灯火は、息を吹きかければ簡単に消えてしまう。けれどその灯火は確かに暖かく、どれほどに冷たい夜の闇にも呑み込まれることなく輝いている。
ファラはその灯りの中に、自分の心の声を聴いた。
「――ファラーレ様?」
サタハが退室したのを見たのだろう。それまで隣室に控えていたルントゥが窺うように部屋の入口に姿を現した。
「ルントゥ――」
ファラはルントゥを呼び寄せて言った。
「
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