エピローグ

ピ、ピ、ピ、電子音の響く部屋の中、あたしの大好きな女の子は目を瞑って、その小さい頭に包帯をぐるぐる巻きにして、足は折れちゃったのか吊られて、すうすうと息を吐いて眠る。

あたしは彼女の傷だらけの指を取って、そしてそれに唇を落とした。彼女を眺めて、うっそりと微笑む。

「ねぇ、薺」

あたしは彼女に呼び掛ける。しかし彼女は静かな寝息を吐いたまま、あたしにはなにも返さない。けれど、それで良かった。彼女に秘密の告白を、ただそれだけをできるなら、もうそれで。

「あなたはあたしを、傷つけたかもしれないと恐れたけれど、それは君も同じだったよ。こんなになるまでボロボロになって、夢の中で何度もあたしを助け出して、その度に何度も死んじゃってさ」

あたしは彼女の温かな指先に頬を寄せた。

「あたしに命を賭けようとしてくれたの?」

あたしは笑った。そして彼女のまあるいおでこを撫でる。

「馬鹿だね、薺は。でもあたしも馬鹿だった。馬鹿だったから死んじゃったの」

でもね、あたしは続ける。

「あたし実は、あんまり後悔してないんだよ。びっくりしちゃうでしょ? 君も知ってる通り、あたしの運命っていうのは、なんだか奇妙なものだったけれど、それでもあたし、後悔ってあんまりしてないの。薺がいつも、あたしを見つけてくれたから」

あたしは彼女の、微かに握られた指先を取って、それを開いたり閉じたり、丸めたりして弄ぶ。彼女の身体を最後まで楽しむかのように。

「あたしたち、夢の中で色んな冒険をしたね」

あたしは彼女との素敵な冒険のことを思い出す。現実で実際に起きたこと、夢の中であったたくさんの奇妙で、でもとても幸福なこと。もうどれが現実で、どれが夢だったか、見当もつかない。けれどそれは、あたしにはどうでもいいことだった。

「君とした冒険の数々は、時々すごく残酷で、悲しいこともあったけれど。でもそれでも、あたしと君の、美しい毎日の数々は、あたしの中で、宝石みたいな粒になって、きらきら輝いてる」

あたしの瞳を、つうと涙が伝う。身体が朽ち果てても、心だけで人って、涙を流せるみたいだ。

「その全部が、あたしには楽しい思い出で、輝かしい毎日で、君のことが大切だった」

あたしは彼女のあったかい手に、わざと擦りつけるように涙を拭う。

「あたしの人生にあった大抵のことは忘れてしまいたい記憶だけれど、君と過ごした毎日だけは、悪いことも全部覚えていたいの。あたしがこの先どこへ行ったとしても、君だけは、君とのことだけは全部、覚えていたいの。我儘だと思う?」

あたしは彼女に尋ねてみる。しかし彼女はすうすうと、脈打つ命で静かに呼吸するだけで、答えはしない。それにあたしは微笑んだ。

「君の未来に、夢を見られなくてごめんね」

謝っても許されないことだと思うけれど、あたしは謝らずにはいられなかった。

「これから自分が、どこへ行くかなんてわからないし、あたしのこの心が、ちゃんと残ってるかどうか、わからないけれど、それでも」

それでも、とあたしはあなたが信じ続けてきた言葉を紡ぐ。

「それでもあたしは、これから先の長い時間で、ありもしない君との未来に賭けることにした。あたしにもうこれ以上、賭ける元手があるかどうかは甚だ疑問だけどね」

あたしは彼女の手を取って、それにキスをした。一度だけでは足りなくて、何度も彼女のその逞しい指先にキスをした。あたしの手を何度も、握ってくれたその指に。

「もう、時間みたい。ねぇ、あたしとあなたを引き合わせてくれた男の子がいたでしょう? あの子があたしを呼んでるの。あたしを近くまで送ってくれるって。それが自分の役割だから、って、そんなことを言うの。彼、いい人ね。それに可愛いし。きっと天使ね。あたしを案内してくれるんだもん」

あたしは彼女の頭を撫で、そして彼女に言い聞かせた。

「それじゃあ行くね」

あたしは彼女の額に最後のキスをして、席を立つ。命の座を明け渡して、今度はその座に、誰が座るのか。あたしは、知らない。

「ねぇ、薺」

病室を出ていく時、あたしは振り返る。そしてやっぱり寂しくなって、さも得意そうに彼女に言ってみせる。

「寂しかったら呼んでね。夢枕に立ってあげる。君が望むなら、恨んであげる」

やっぱりあたしは悲しくなって、格好悪く肩を震わせて、泣きじゃくる。

「やっぱり嘘。呼んでももう会いになんか来てあげない。会ったらきっと、それじゃ足りなくて、連れていきたくなっちゃうから。そうなるくらいなら、もう、君が死ぬまで会いにこない。それに恨まない。恨んだりもしない。あたしに恨まれたら、君が、可哀想だから」

あたしは眠ったままの彼女に叫ぶ。きっと聞こえない声を、これでもかってくらい大きくして叫ぶ。

「あたし、未来とか来世とか、信じなかったけど、それでも今思うの。いつかまた君に会えたらって、やっぱり思う」

あたしは彼女を眺めた。君が目を覚まして、これからもその、美しい人生を歩めるように。

「またどこかで会おうね、薺」

とびきりの笑顔で笑って、病室のドアを閉めた。光射す長い廊下を歩もうとした時、そこに彼は不意に、現れた。

「もういいの?」

真っ赤な瞳であたしを眺めて、そして微笑む。

「うん、いいの。気は済んだ」

「でも彼女の気は済んでないかもしれないよ」

「そんなの知らない、あたしに関係ない」

あたしは首を振って笑った。すると彼はくつりと笑って言った。

「それじゃあ君を、送り届けようと思うけれど。準備はいい?」

あたしは可愛い彼を見下ろして、そして笑う。

「連れてって、可愛い天使さん」

あたしは彼に手を引かれ、光に満ちた廊下を歩いていった。


静かな呼び声。鈴の鳴るような、涼やかな声であたしを呼んで、そうしてあたしに子守唄を歌う。あたしは彼女の温かな膝の上で微睡む。

そして、不意に。彼女があたしの手を放し、背を向けて、別れを告げる。あたしはそれを泣いて拒む。ピ、ピ、ピ、と電子音が聞こえて、それはやがて脈打つ鼓動になって、そしてそれから、長い長い最後の呼び声が聞こえて、命は沈黙する。

あたしは静かに瞳を開ける。今この瞬間、君の命が消えた気がした。あたしは必死にその残り香を吸い寄せるように、シーツを抱き寄せる。

「琴音」

美しい音の響きに、あたしは静かに目を閉じる。するり、と頬を涙が伝う。

「今頃になって、やっと、君が言ってたことがわかったよ」

あたしは呟く。しかしこの空間に、もう彼女はいない。それでも願い、祈る。君のその、美しい命と、魂に。

「あたし、今この瞬間、君に傍にいて欲しかった。それは未来じゃなく、過去じゃない、ただただ過ぎていく無慈悲な今を、君に慰めて欲しかった。君に隣にいて欲しかった。君に手を握っていて欲しかった」

あたしは泣いた。ぼろぼろと両目から涙を零して、聞こえない声を紡ぐ。

「君が願ってた今って、こういうことなの? 琴音」

しかしその声に彼女は答えない。あたしは静かに笑った。


君は、いったい誰で、いったい何だったのだろう。世界が覆い隠した、君というささやかな秘密の正体を、この世でただひとり、あたしだけが簡単に暴くことができる。あたしにとって、その答えは至極、単純だった。

例えるなら、君はひと夏に咲いた一輪の花。例えるなら、波間に見えた太陽の反射。言うなれば、真夏に打ち上がる花火。君はあたしにとって、もうこれ以上ないほどに特別で稀有な存在。でもそれと同時に、おんなじくらい。君はあたしのささやかな日常の全て、生きている時間の一部。君はあたしの記憶と肉体に、微かで、でも確かな印を残して、旅立つ。でもそれはきっと、なんにも特別なことじゃなかった。きっととても、普通のことで、でもそういう、普通のことほど、あたしにとって特別で、かけがえのない、君になる。真夏に打ち上がる花火みたいに、君は素敵で、刺激的で、不意に消える。そして翻る。でも君は同時に、遠くどこかから聞こえてくる風鈴の音。みたいに君は、普通の女の子。あたしにだけ特別な、あたしだけの特別なひと。この世に不必要だと言われたけれど、精一杯生きて、あたしを支えてくれた、ただひとりの女の子。

君の名前は、琴音。涼やかに鈴の鳴るような、美しい響きを持った、琴音。あたしは君が大好きで、大嫌いで、それでもやっぱり大好きだった。

「あたしさ」

無機質な病院の天井を眺めて、あたしは笑う。

「あんたのことずっと、大好きなんだわ」

彼女は飛び立つ。その命の座を下りて、するりとどこかへ消えていく。その背中は、遠い昔に見た美しい波間へと消えていく。君の下りてしまった椅子に、あたしはもうしばらく、ふてぶてしく座りながら、生きてく。君のいた時間を、ずっとずっと思ってる。君はその椅子を下りて、一体どこへ向かうのか。あたしは知らない。知らないけれど、でも。

いつかまた、美しい命を持った君に、会いたい。

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ワン・モア・ロストタイム 天上ひばり @tenjyou-hibari

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