ワン・モア・ロストタイム
ひどく悲しく、幸福な夢を見て、あたしは目を覚ます。開いた水晶の瞳からほろりと涙が伝った。それは山奥の水脈のように流れて、あたしの目尻を伝っていく。
「おはよう、随分遅いお目覚めだね。泣いてる場合じゃないよ」
真っ赤な瞳があたしを見下ろしていた。暗闇で祈るように手を組んで眠りについていたあたしを、ヒビの瞳が見下ろしていた。彼はあたしが起きるまで、ずっと見守ってくれていたのだろうか。
「君は今まで、ずっと彼女の腹の中にいた。影を踏まれた君は、彼女の中に引き込まれて、今までずっとこんこんと眠り込んでいた」
彼は淡々と事実だけを話す。それを聞きながらあたしはからっと笑って、両方の腕で顔を覆い隠した。肩が上下に震えて、上手く息ができなかった。
「……幸せな夢だったなあ」
呟く声は虚空に飲み込まれていく。その暗闇に、ただただ果てなく吸い込まれる。ひっそりと泣き喚くあたしを、ヒビはただしゃがんで眺めていた。
「泣いてる場合じゃないよ」
彼は優しげな響きで呟く。口ではそう言いながら、彼は結構優しいのであたしが泣き止むのをただひたすら待っていてくれた。
やがてあたしが泣き止んで、ふぅっと静かに息を吸って、大丈夫だと微笑みかけると、彼はその赤い瞳を細めて言った。
「彼女が君を、待ってるんだ。僕は君を案内するように仰せつかった」
まったく損な役回りだよね、と彼は呟いて、でもその割にちょっと嬉しそうに笑う。
彼はゆったりと手を差し出す。その小さな手が、子供ながらの大きな瞳が、可愛いタキシードの半ズボンから覗くつやつやした膝とか、そういうものが懐かしくて、あたしは安堵した。
「やっぱり君はそっちの方がいいね」
くしゃりと笑うと、彼は言う。
「だよね」
あたしは彼の手を取った。ただ混沌と広がる暗闇を、その小さな手に握られ、導かれるまま歩いていった。彼の後ろをついていく。ある時ふっと、目の前に一直線上の真っ白な光が見える。そこから暗闇が裂けて外の光が漏れるように、きらきらと線になって周りが輝いていた。ようやく彼の顔が見えた。彼は少しだけ笑っていた。
ヒビに手を引かれ、その光の中へと入り込んでいく。光の境界を跨いで、あたしはその世界へ誘われた。
「ようこそ」
ヒビは呟いて、あたしの手を離した。あとは自分で歩くんだよとあたしを見上げて、彼はその指先であたしが行くべき場所を指し示す。
あたしは彼の指す方を見た。波の打ち寄せる岸壁。真っ赤に染まった夕焼け。その断崖の端に、白いスカートがはたはたと煩く揺れている。
不思議な景色の中にあたしは彼女の姿を見出した。あたしはもう既に、なんだか泣きそうになっていた。でも、彼が言うように泣いてる場合じゃなかった。踵の尖った黒いヒールで、あたしはぼこぼことした岩場を歩いた。彼女のその、背中や、微かに見える寂しげな横顔を、目に焼き付けようとしながら。やがてあたしは彼女の後ろまでやってくる。
「琴音」
静かに呼び掛けると彼女は振り返る。その美しく静かな眼差しを、ただ無表情にあたしに向けている。今はもうその顔に、ルーズリーフは貼られていなかった。形のいい唇の、口端を上げて彼女は微笑む。
「来たんだ」
海風に煽られながら彼女は言った。あたしは答える。
「うん、君が呼んでるって、聞いたから」
「もう手遅れだって、思わなかった?」
「ううん、だって君が呼ぶならあたしは走らなきゃと思うから」
そう答えると彼女は諦めたように寂しく笑う。頭の後ろで結んだポニーテールが、今はすごく真新しく見える。なのにすごく懐かしくて、愛しいと思えた。
「あなたはすごく、馬鹿だよ」
琴音はふるりと肩を震わせて静かに呟いた。彼女の瞳に涙が溜まっていった。
「薺はすっごく頭がいいのに、時々すっごく単純で愚かで、馬鹿だよ。気づいてた? あたしの前で君の聡明さがまるで役に立たないこと。感情に流された行動をしてよく後悔すること」
「うん、だって君が好きだったから」
琴音はあたしを見つめた。纏めた髪の束が、ばさばさと風に揺れていた。
「あたし、死んだんだよ」
彼女は眼下に広がる漆黒の海と、真っ赤な夕焼けを眺めて零した。
「薺、聞いて。あたしずっと勘違いしてたの。死ぬ、ってもっとね、辛いことや苦しいこと、耐えきれないことの連続の中で、それが爆発するみたいにすごく鮮烈に、能動的にやってくるものだと思ってた」
彼女はあたしに振り返る。訴えるような眼差しが、あたしを見ている。
「でも違った。あたしそんなに不幸じゃなかったと思う。今までの人生を、二十一年の人生を振り返って、今ってそんなに不幸じゃなかったしそんなに苦しくなかったと思う。でもね、あたし気づいたの。死って、突然の爆発じゃなくて、ある時不意に木陰からやってくるの。ある時不意にあたしの手を握って、それをあたしはなんだか受け入れてしまって、ああ、そうなんだって飛び込んだ。それはまるで、ビーカーの中に水が溜まって、そしてその溜められた不幸とか苦しみとかが、表面張力を通り越してつうっと、流れ出した時、あたしもまた不意に、死んじゃおうって思ったの」
だから死んだの、と彼女は笑った。自殺したの? とあたしが静かに尋ねると、そうよと笑う。
「君が最初に、このゲームを始めた時。この場所に連れてこられたでしょう。だってここが、あたしが死んだ場所だから。双六ならスタート地点だし、電車だったら文字通り終着駅」
「ゲームを終わらせる為に、わざわざあたしの前に来てくれた?」
あたしが言うと、彼女はわあっと身体を震わせて、泣きそうになっていた。
「だって、君はそれを望むんでしょ?」
彼女は瞳から涙を零してあたしを見つめた。
「あたしはあなたと、もうずっとずっと一緒に遊んでいたいけど。もう帰したくないくらい傍にいて欲しかった。連れていきたいくらいあなたが好きだった。でもあなたは、あたしとあなたの終わりを、探してるんでしょう?」
彼女は肩を震わせながら忙しなく泣いた。あたしは彼女の目の前までゆっくりと歩いて行った。
「あたしずっと、君の命を取り戻したかった」
あたしは彼女の濡れた瞳を見つめた。
「君が死んだって聞いた時、それを受け入れられなくて、君に会いたくて、まだどこかにいるんじゃないかと思って走った。本当はもう、ダメなのかもしれない。ダメなんだって思いながら、泣きながら走った。そしたら、あたしって迂闊だから、事故った」
笑ってみせると、彼女は「馬鹿」と笑って、泣いた。
「ループの中で君の命を追っかけた。追いかける度にすり抜けて、掴む度に消えちゃった。それでもあたし諦めずに、君との未来を夢見てここまで走ってきたよ。そう言ったら、笑う?」
彼女は首を横に振った。「笑わない」断言する彼女の熱い頬に指で触れる。
「もしあの時に、あたしがこのゲームから下りていたら。君の命の形は、こんな風にならなかったんじゃないかって。あたしがあの時、願って君を引き止めなかったら、素直に諦めて、君が死んだって、その事実をちゃんと、受け入れられてたら。君はそのままゆっくり眠れたんじゃないかって」
涙が零れていた。溢れ出る感情が抑えきれなくなって、唇を噛む。そして彼女を見た。でも視界が霞んで、正直なにも見えなかった。
「あたしが、死ぬはずだった君の命を、無理やり引き伸ばして、傷つけて、負わなくてもいい傷までも、つけさせてたんじゃないかって、今すんごい後悔してんの」
彼女の頬にすがる。彼女はさめざめ泣くあたしを見つめて、笑ってる。琴音はゆっくりとあたしから身体を離し、真っ赤に染まる夕焼けを見た。
「あたしずっと怖かったの。何度も怖い夢を見て、何度も飛び起きて。その度にまた怖い夢に誘われた。怖くて怖くて、あたしは子供のようにただ泣き喚いて、蹲って、夢が終わるのを待ってた」
そして振り返る。夕焼けを背負って、君は笑う。
「そしたら君が、いつもあたしを見つけ出した」
彼女はくしゃりと笑って、あたしを見た。息を乱してしゃくりあげて、けれど懸命に笑った。
「怖くて泣いてたら、いつも君が助けに来てくれた。あたしそれが嬉しかったし、その為に怖い夢だって見られた。だって君に会えたから」
そんなこと言ってくれんの? あたしは彼女の頭をくしゃくしゃに撫でた。すると彼女はあたしの手の中で声を漏らす。
「あなたはあたしを何度も殺したのかもしれない。でもその度に、あたしの騎士様はあたしを慇懃無礼に迎えに来てくれたから、それについてはチャラにしてあげる」
痛くて、怖くて、悲しくて、寂しかったけどね。と、彼女はあたしを忌々しそうに睨んだ。ごめんなさい、とあたしは泣いた。
彼女の白い肩に、ゆっくりと頭を託して、そして少し考えてから、また顔を上げた。
「あたし、君の顔のルーズリーフを取ってあげたかった」
彼女の頬を撫で、その涙を指で拭う。
「夢の中で、君はいつも、×印のついたルーズリーフをしてた。あたしの描く未来でも、君はお腹に真っ赤な×印をつけてた。ループの中でも、夢の中でも、君は世界から追い出されようとしてた。あたしそれを認めたくなかった。世界が例え君がいなくなることを良しとしたとしても、あたしだけはそれにノーだと首を振っていたかった」
でも、できなかったけど。そう零すと、彼女は静かにそんなことないよ、と言った。
「君はいつも、馬鹿みたいにあたしの存在を信じてくれてた。あたしが今までの人生で、ひとつだけ後悔してることを挙げるとするなら、それは。あたしを信じてくれた君に人生を賭けなかったこと。ただそれだけ」
もしね、彼女はあたしの手を取った。その指先に、静かに唇を落とす。
「もしあたしに、君の信じる未来があるとするなら、今度は絶対に君に命を賭けようと思う。今までの世界で、君があたしにやってくれたみたいにね」
涼やかに鈴の鳴るような、美しい声のその提案にあたしは首を振った。
「いいよ、今度生まれ変わるなら、次は幸せな未来にして。あたしがいなくていいから。こんな碌でもないあたしに、君の美しい人生なんか、賭けなくたって構わないから。次はちゃんと、生きてて」そう笑うと、琴音は頬を膨らませて怒る。
「どうしてそんな連れないことを言うの? 君が言う、あたしの美しい人生とやらを賭けてあげるって言ってるのよ。人の善意は快く受け取るべきだわ、薺」
「君の人生は、あたしには勿体なさすぎる」
「じゃあ、降りかかる不幸でそれをチャラにするね」
「そんな縁起でもないこと言うなよ。じゃあ、その分君が幸福になるように祈ってあげる」
そんな冗談を言い合って、ふたりで肩を叩き合って笑う。月のように浮かぶ円環に艶っぽく凭れかかりながら、彼はあたしたちを眺めていた。
「ねぇ、薺」
彼女はゆったり微笑んで、あたしを見つめている。それにあたしは、なんだか胸騒ぎを感じで、でも同時にすごく胸が熱くなるのを感じた。込み上げる涙を、必死に呑み込もうとする。
ないと思うけれど、と彼女は前置きして、口を開いた。
「一緒にくる?」
彼女の朗らかな笑みを見て、あたしは泣いてしまう。
「連れてって」
あたしは彼女を抱き寄せて、その白い首元に顔を埋めて、わんわんと泣いた。
「連れてって。君のいない世界をあたしは、許せないから、連れてって」
彼女は笑って、そしてあたしの頭を撫でた。
「ねぇ、天使さん」彼女は頭上に浮かぶ月に呼び掛けた。
「あたしこの子を連れていっても構わない? あなたはそれを止めようとする?」
彼女はあたしを抱きしめたまま、頭上の月に問いかける。あたしの頭をゆっくりと撫でながら、その美しい声は問う。
月は答える。
「僕は、それを止めやしないよ。なぜならそれは僕の役割ではないからね。君たちふたりが望んで座を飛び下りるなら、命あるものの意思に僕は逆らわない。大丈夫、君の命は美しい。僕が言うのだから間違いない。数合わせなら僕がやればいいことさ。それが僕の、この世界での役目なんだから」
彼は真っ赤な瞳であたしたちを見下ろす。円環の上で優雅に微笑んで、命の行方を見守っていた。
「ありがとう、天使さん。優しいのね」
「優しくはないよ、当然のことだ」
彼はくつりと笑った。
「薺」
彼女はあたしの名を呼んだ。そしてその美しい顔を、あたしの額に寄せた。
「今から君を、一緒に連れていく」
彼女は囁いた。あたしは尋ねる。
「これって心中?」
「不覚にもそうなっちゃったね」
彼女は笑う。そして彼女はあたしを抱きしめる。慈しむような表情であたしの頬を撫でた。
「大丈夫、なにも怖いことじゃない。大丈夫よ。薺は、大丈夫。もうなにも、心配要らない」
彼女はあたしを抱きしめて、鼻を啜って泣くあたしを安心させてくれた。彼女はあたしの頬にキスをすると、あたしの手を取って、彼女の手と絡ませる。あたしたちは手を繋いだ。あたしは彼女を見つめた。この先にあるものが、怖かった。でも彼女がいたら、あたしはひどく、安心できる気がした。
彼女はあたしを見て、愛しそうに目を細めた。
行くよ、と彼女は呟いて、あたしの手を引いた。微かに笑って、その目が揺れた。あたしたちは宙に一歩踏み出した。空を歩くかのように優雅で楽しげな足取りで、あたしたちは空へと堕ちていく。あたしの瞳を、涙が零れて、重力に従ってそれは舞い上がった。あたしと琴音は手を繋ぐ。あたしの泣き顔を、彼女は無邪気に笑いながら、舞い上がる涙に指先で触れて、それからもう片方の手も繋ぐ。空を堕ちて、円を描く二人はそのまま、紺色の海へと落下する。
「あたし、あなたのこと大好きよ!」
琴音は笑う。無邪気に笑う。あたしは思わず泣いてしまう。そして次の瞬間には、君のことを見て笑った。
あたしと彼女は深い深い海に吸い込まれて、そして堕ちる。浮遊するような不思議な感覚が、身体を包んだ。水流の中で息の出来なくなるあたしを、琴音は抱き寄せた。はくはくと泡を吐きながら、耳元で囁く。
「薺は大丈夫。なにも心配要らない、大丈夫」
そう言って彼女はめいっぱい笑った。水の中で、太陽みたいに射し込む彼女の笑顔を、あたしは死んでも忘れないのだろう。ああ、君に会えて、よかったな。だなんて思いながら、あたしは静かに目を瞑る。彼女はゆっくりと、あたしの唇を探し出し、キスをした。何度も何度も、あたしの唇に、啄むように優しいキスと、そして眠るような深いキスを繰り返した。あたしは彼女の腕の中で安堵した。震えるあたしを抱きしめて、彼女はあたしが深い深い眠りに落ちるまでキスをしてくれた。大丈夫だよ、と呟きながら。
そうしてあたしは、意識の糸を裏側からつう、と誰かに引っ張られるように、深い、深い。眠りに堕ちた。
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