海神の夢Ⅱ
あたしたちはしばしばこのずれた立方体で、海を眺めながらセックスをした。あたしと彼女のそれはひどく甘美で、楽しくって、あなたはどうだか知らないけれど、あたしはそのあけすけで奔放な遊戯が好きで堪らなかった。
しかし彼女が、一度だけ強くあたしを拒絶したことがあった。今振り返れば、それが前兆だったように思う。
もうとっくに日の沈んだ時刻。あたしと彼女はソファの上でじゃれ合っていた。そしてそのまま空気と流れに任せてお互いの身体を撫で合い、何度も唇を交わした。擽るように肌を触りあっていると、思わず笑ったあたしは彼女もろともソファから転げ落ちる。あたしたちはけらけら笑って、そして遊戯の続きをしようとした。
彼女に覆いかぶさったあたしは静かに身体を起こして、眼下の景色を眺める。頬を染めた愛しいひと、飛沫だけが白く見える漆黒の闇があった。あたしはそれを恐ろしく、そして同時に彼女を抱けることをひどく幸福に思って彼女をうっそりと眺めた。しかし、彼女にはそうではなかったらしい。琴音、と名前を呼んで彼女の服を捲ろうとした時「やめて」と彼女は怯えた瞳で言った。
「どうしたの」
あたしは彼女からそっと身体を離して言った。琴音はその大きく綺麗な瞳を見開いている。
「怖いの」
「怖い?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「海が怖いの」
「海が?」
「そう。あたし、海を怖いと思ったことなんかなかった。それに薺は前に話してくれたよね。この真下の海は、住む人が自然と対峙することを意図して、生きてるってことを実感するために、そういう想いで作った、って」
「よく覚えてるね、そんなこと」
びっくりした、とあたしは笑って彼女の頬を撫でた。しかし彼女はふるふると首を振った。その瞳には静かに涙が溜まっていった。
「あなたは、そういう建物だから怖いのは仕方ないって言う? でもそうじゃないの、あたし、そういう意味で言ってるわけじゃなくて、なんていうか、その」
取り乱す彼女を落ち着かせるように、あたしはその髪を撫でた。
「あたしと、薺が、一緒にこの海に飲み込まれちゃったらどうしよう、って怖くなったの。それは、災害とかそういうことじゃなくって、もっとこう、不意に、突然に、あなたとあたしの時間が、この空間が、幸せな世界が、ある日ふと壊れて全部あの中へ吸い込まれたらどうしようって」
彼女は目尻からぽろぽろと涙を流しながら言った。握った指が熱い。
ごめんなさい、あたし、なんかおかしい。と彼女は必死に言葉を紡いだ。気にしないで、大丈夫。大丈夫だよ。と、あたしはただ彼女を宥めた。
「お願い、あたしをここで、この暗い海の上で抱かないで。怖くて怖くて、仕方なくなるの」
泣いて懇願する琴音を、あたしはゆっくりと抱き起こして、泣き止むまでその背中をずっと撫で続けた。大丈夫、大丈夫だから。と、絶えずそう言い聞かせながら。
それからすぐに、その事件は起きた。まるで誰かがあたしたちの幸福の引き金を引くかのように、何かが誰かの手によって、壊れていく気配がした。
その日、あたしと琴音は、ほとんど一緒に目が覚めて、一緒に朝ごはんの準備をすることにした。寝ぼけた目を擦って、冴えない頭を揺すって、彼女は笑う。幸福の中であたしはやっと意識が覚醒した。
あたしたちは四階へ向かった。琴音はリビングに足を踏み入れて、そしてそれから、はたと立ち止まった。不審そうに辺りを見回して、そして深刻な表情であたしに振り返る。
「ミルクがいない」
あたしは急いで階下へと下りた。しかし家のどこを探しても彼は見つからなかった。あたしたちは手分けして家の中を探し回った。クローゼットの中から、ベッドの下まで。とにかく調べられるあらゆる場所を探し尽くして、それでも見つからなかった。もう一度ふたりで思い当たる場所を探したけれど、家の中に彼はいない。
「どうしよう」
琴音は既に泣きそうな顔をしていた。
「外に出てみよう」
あたしは提案した。外に出て探したら、きっとあたしたちの心の溝は深くなってしまう気がしたけれど、それでもここで陰気にじっとしているよりは、その方が確実に良いと思えた。
あたしと琴音は広い海岸をふたりで探し回った。どこにいるの、と彼の名前を呼びながら、探し回る。入り組んだ岩場や、少し離れた堤防の所まで探しにいく。しかしどこにも彼の姿は見当たらない。そうしているうちに夕方になった。
「もうこれ以上暗くなったら危ないよ、帰ろう」
あたしは前を歩く琴音の手を掴んだ。しかしそれを彼女は振り払う。
「でも!」
琴音は瞳に涙を溜めていた。あたしは彼女を可哀想に思って、そして同時に自分の冷酷さに呆れた。
「きっと、戻ってくるよ」
あたしはただ彼女にそう言うことしか出来なかった。彼女は、ぽとりと涙を零し、あたしにしがみついて、泣いた。
薺の嘘つき、と叫び出したかっただろう。わかりきった嘘を言って、ありもしないことを並べ立てる。こんなあたしに呆れないわけがない。
あたしたちは手を繋いで、押し黙ったまま帰路についた。玄関で鍵を閉めた後、あたしたちは目が合った。そして暫く無言になって、どちらともなくキスをした。そうしなければならない気がした。
あたしたちはお互いに手を取り合って、そしてまっ先に寝室へと向かう。どちらともなくベッドに膝をついて、そして貪るように口付けた。
彼女の瞳をつう、と涙が流れて、それがあたしの頬を濡らした。あたしは薄情だったから、彼よりも、残された琴音の方が可愛く、可哀想だった。彼にはもう二度と会えない気がした。外に出てあの海を見た時、嫌な想像が頭をよぎった。そんなことはないと振り払いながら、それでも想像せずにはいられなかった。その大きな、黒目がちな瞳を、だらりと垂れた舌を、きっとこれから見られないだろうことを悲しく思いながら、この胸の空虚さと、どうしようもない寂しさを埋めるために、ただただ唇を重ねて、縺れるように倒れ込んだ。
あたしたちは転がるように寝転んで何度も何度も唇を合わせる。彼女の身体を抱きしめて、涙に濡れた頬や、赤くなった目や、滑らかな髪を撫でる。抱きしめあって、ただひたすら頭の中を空っぽにしようとした。
あたしは仰向けになって、彼女を自分の上に導く。あたしに跨った彼女の瞳は涙に濡れたままで、寂しそうに鼻をすすって眉を寄せていた。
泣かないでと思いながら、あたしは彼女の頬に手を伸ばす。すると彼女は愛しそうに、あたしの手に柔らかい頬を擦り寄せた。
あたしは彼女にキスをしながら、その服を捲った。彼女に服を持っているように促して、その身体を眺めた。そしてあたしは、あたしの目に映ったその光景に笑う。
「琴音」
あたしが目を細めて彼女を見上げると、彼女もあたしが笑った理由がわかったみたいで、寂しげに笑った。
「やっぱりこれは、夢なんだね」
彼女はあたしを見下ろした。こくりとあたしは頷きながら。彼女のその決して消えない印に触れる。
真っ白な彼女の腹には、裂かれたような深い傷ができていた。赤い肉が見えて、それが不器用に黒く縫われているのがわかった。彼女の腹に大きく描かれたその×印に、あたしも彼女も見覚えがあった。あたしはその二つの傷を、指でなぞる。
「こんなの昨日までなかったのにね」あたしは彼女を見上げた。ね、と彼女も小さく笑う。
「そうだよね、あたしに都合良すぎるもん。これ」
なんだかよくわからないまま熱くなっていく目頭を、パーカーの袖で拭って覆い隠した。自戒の念に苛まれるあたしを、彼女の滑らかで、美しい指が解く。
「薺の夢、綺麗だった。最後は悪夢みたいだったけど」
でも、今まで見た悪夢よりマシかもね。と、彼女はあたしの首元に顔を埋めた。
「ねぇ、琴音」あたしは自分の上に跨る彼女を眺め、そうして言う。
「戻りたい? それとも夢を続ける?」
意地悪く尋ねると、彼女は泣き出しそうな顔をする。
「どうして、あたしに聞くの?」
両方の瞳から涙を流して、あたしの手を握った。
「狡いよ、薺。続けたいに決まってる」
彼女の雫が、あたしの顔に降ってきた。恵みの雨だなあ、なんて、あたしは呑気なことを思って笑った。
「琴音、あたしと君の正解って、なんだろう」
あたしは彼女の身体を抱きしめて、その滑らかな黒髪に顔を寄せる。甘くない不思議な匂いだった。琴音の匂いだ。
わかんないよ、と彼女は泣いた。あたしは彼女の腹の×印を撫でながら、あっけらかんと笑う。
「どうして世界はさ、いつも君を排除しようとするんだろう。この×印って、そういうことでしょ? 君を消すよ、って、世界からのメッセージ。だからずっと君の顔にあった。夢の中なら許してくれたっていいのに。それでも君はここから消されようとしてる」
「よく気づいたね。あたしも途中までわかんなかったのに」
琴音はあたしを眺めて小さく笑った。
「待って、あんた自分の印に気づいてたってこと?」
あたしが眉を寄せて訝しげな表情をすると、彼女は肩を竦めた。うん、ごめんね。と。
「途中からね。君がなんだかおかしいって気づいたから。もしかしてって、思って。なんか×印が書いてあった。やっぱりあれって、そういう意味だよね? ひどいよね」
ひどいよね、じゃないよと、あたしは彼女の肩を叩いた。すると彼女は笑った。
「ねぇ、てことは琴音も覚えてたってこと?」
琴音はあたしの上でゆっくりと小首を傾げた。
「うーん、わかんない。その時々でバラバラだったし。でもね、君のループの度に、あたしは作り替えられてるんじゃないみたいだったの」
琴音はあたしを見下ろして、呟いた。
「君が、耐えず同じ君でゲームをリロードし続けたように、あたしもそうだった。多分それだけ」
彼女はくつりと笑って、あたしの唇に指を押し当てた。
「じゃあさ」あたしは呟く。
「あたしはやっぱり、何度も君を助けられなかったってこと? 何回も君を見殺しにして、何回も君を殺したって、こと?」
視界が濁って見えなくなった。自分が彼女にした仕打ちを思って、あたしは泣いた。すると彼女は慌てながらあたしの頬の涙を拭う。
「泣かないで。同じ思いをしたのは薺も一緒でしょ? それにね」
彼女は続ける。
「あたしあんまりループの記憶ってないの、幽霊って都合良いみたいだね。今のあたしは覚えてたい記憶しか残ってないの。薺とエッチしたこととか。デートしたこととか」
便利だね、と彼女は笑った。「でもね」
「今のあたしは綺麗な記憶しかない琴音ちゃんだけど、もしかしたらブラックなあたしもいると思うの」
ブラックな琴音? とあたしは聞き返す。
「幽霊に、なっちゃったから。あたし記憶が曖昧なの。綺麗な記憶だけを覚えてる今のあたしがいるように。きっとその反対もいるかもしれない。そのあたしは、薺に牙を向いちゃうかもしれない。わかんない」
そう答える彼女にあたしは、わかんないの? と言ってけらけらと笑った。
「ねぇ、琴音」と、あたしは彼女に囁いた。
「あたしね、ここに琴音とずっと一緒にいるのは、正解じゃないと思う。もちろん、ここにふたりで永遠に一緒にいるのは、すごく幸福で、楽しいけれど、それじゃいけない気がするの」
あたしと君の、答えがあると思うの。まっすぐな瞳で彼女を見つめると、わかった。と彼女はあたしを見下ろした。
「だから、とにかくここを出よう。どうしたら戻れるかな?」
あたしは上目遣いに琴音を見る。すると彼女は、とても艶っぽく微笑んだ。
「あたし知ってるよ」
琴音は得意げにそう言った。だからあたしは尋ねる。教えてくれる? と。すると彼女は、とっても楽しそうに呟いた。
「あたしと君がエッチすればいいと思う」
彼女は静かに涙を零して、それからひどく楽しそうに笑った。あたしの頬を撫でて、唇を落とす。彼女と目が合う。熱っぽくて、すこし寂しい空気のまま、あたしたちは見つめ合ってもう一度キスをした。
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