海神の夢Ⅰ

波が打ち寄せる心地いい音で目を覚ます。あたしはゆっくりと目を開けて、寒々しいコンクリートの天井を眺めた。そしてあたしは、あたしの腕に乗った、その確かで温かな存在を思い出した。

横を見ると、彼女がすやすやと寝息を立てて眠っていた。長く伸びた髪を顔の上に載せながら、静かに肩が上下する。あたしは彼女のその髪を耳にかけ、彼女の美しい顔を眺めた。

腕には確かな重みと少しの痺れがあって、けれどあたしはその痛みが愛しくて受け入れる。眠る彼女の額に顔を寄せて、打ち寄せる波の音と彼女の寝息とその心音に耳を傾けながら、もう一眠りする事にした。


次に目が覚めたとき彼女はいなかった。あたしは少しだけ不安になった。ベッドから出て、窓から見える一面の海を見渡した。ざざ、ざざ、と静かに音を立てながらそれは打ち寄せて、また引いていく。この景色を眺めていると安心できる気がして、あたしはふっと息をつく。とたとた、くんくんくんくん、独特の呼吸と足音が聞こえてあたしはそっと笑った。彼にばれないように。

とたとたとたとた! と短い足をめいっぱい動かしながら彼はあたしを見つけ出す。わんわんわんわん! と、立ち上がって彼はあたしの足を叩いた。

「おはよう、ミルク。琴音が呼んでるの?」

しゃがんで彼を撫でると、彼はわん! と鳴いて、またとたとたと駆け出していく。部屋を出る時、ぐるんとあたしを振り返って、その黒目がちな大きな瞳であたしを見上げた。ちゃんと付いてくるんだよ! そう言いたげな瞳であたしを見ている。

あたしは彼の案内で四階まで歩いた。少し前を歩く彼のふわふわのおしりは、重力に負けてちょっと垂れ下がっていて可愛い。

階段を上がると彼は一気に駆け出していく。美味しそうな匂いと、目玉焼きが焼けるじゅーという音がして、あたしは目を細めた。

「おはよ、起きるの遅いよ」

彼女は笑った。長い髪を後ろで纏めて、薄いピンクのエプロンをつけている。彼女はあたしに微笑みかけて「もうできるから座ってて、明日は薺ね」と笑う。

あたしはダイニングテーブルにつこうとした。ダイニングの椅子は普通四脚だけれど、ふたりだけのあたしたちにそれは蛇足のように思えて、四角く大きいテーブルの真ん中と、もうひとつの真ん中に、揃いのダイニングチェアだけが置いてあった。あたしが椅子に座ろうとすると、ミルクが寂しげな様子であたしの足に擦り寄ってくる。

「ミルクにご飯は?」

あたしは琴音を振り返る。すると彼女は、あっ! と声を上げた。

「忘れてた! あげといて」

彼女の声であたしは袋に入ったドッグフードを取りに行く。それを彼専用のシンプルな皿に入れてあげると、彼はすぐさまそれを頬ばった。

お待たせ、と笑いながら琴音は目玉焼きを二つ運んできた。彼女はわざとあたしの前をくるりと翻って、料理をテーブルの上に置く。

エプロンを外して彼女は向かいの席につく。そしてじっ、とあたしを見つめて、両手を合わせる。目元にくしゃっと皺を寄せて、彼女は口を開いた。それに合わせてあたしも口を開く。

「いただきます!」

琴音の作る目玉焼きは半熟で、あたしの作る目玉焼きはちょっと固めだった。琴音は最初、それを嫌そうにしていたけれど、今では受け入れて、じゃあ日替わりってことにしようよと、目玉焼きの固さはどっちが作るかで日によって変わった。あたしたちは、同じことは同じと喜んで、違うことは代わりばんこにして。どちらかに合わせるのではなく、違うまま共にする。そういう暮らしを楽しんでいた。


大学生の時、建築系の勉強をしていたあたしはそのまま設計事務所に入社した。そこで雑用をして、暫く経って図面を書くようになった。そういう仕事をかれこれ五年くらい続けた時、ある有名な建築家の設計した住宅が売りに出されていることを知った。

それを同僚から聞かされたあたしは、ああ、きっと運命だ。彼女と暮らすにはここしかないと思ってすぐさまこの家を購入した。中小企業の事務をしていた彼女にすぐに連絡を取り、君と暮らすための家を買ったんだけど来ない? と率直な口説き文句を電話口で言い放ったところ、彼女は爆笑して「なにそれ、乗った」と一言告げた。

はじめて彼女をこの家に連れてきた時、正直あたしは不安だった。彼の建築は、利便性や快適さというものとはかけ離れていた。もちろん家は住むためにあって、快適さや利便性を求められる。大抵の家はそうだった。如何にストレスフリーに生活できるかが重要だった。

しかしそれは建築家という芸術家には、時々当てはまらない。彼らにとって建築はまず、美しい構造物でありそして芸術品だった。そしてその芸術品は、人が住むことによって完成する。

しかし、それらの建築が常に住みやすく機能的であるわけではない。その芸術は時に利便性や快適さとはかけ離れたところにある。自然との対話、街並みとの調和。芸術として想定される住宅は、人が住むことを前提としながらも、時に、挑戦的なまでに利便性や快適さを省き、人の心をいたずらに試す。

あたしが買った家とはとどのつまりそういう家で、海に面した眺望や、景観はもうこれ以上ないというくらい美しかったけれど、リビングが四階にあったり、トイレが一階にあったりして、とても便利だと言える代物ではなかった。

だから正直あたしは恐れていた。どうしてこんな不便な家買ったの? と問い詰められたらぐうの音も出ないからだ。だが同時に、彼女が好きそうだという勝算もあった。だから余計に、あたしはこの賭け事が怖くて仕方なかったのだ。

近くの駅で彼女を拾って、あたしは彼女をこの家へと案内した。トイレはどこにあって、お風呂はどこにある。二階が寝室で四階がLDK。と、あたしは彼女を案内しながらとりあえずの説明をする。ここで設計士故の蘊蓄や、設計者の意図を長ったらしく語ったところで、彼女が一切そういうものに靡かないことをあたしは心得ていたから。それよりも彼女は彼女の感性を重んじ、あたしの感性を尊重した。

答えは、「好き」か「嫌い」か、ただそれだけだった。

打ちっぱなしコンクリートで作られたこの細長い家の、立方体が飛び出して、海に面した壁が一面の窓になっている最上階へと彼女を案内した時。水色の空の下、波打つ紺にも似た海を見下ろして、彼女は言った。

「決めた。あたしここに住む」

くるりと翻ってあたしを眺めた彼女は無邪気に笑う。あたしは彼女がこの家を気に入ってくれたことに安堵して、そして人生でもうこれ以上はしゃげないんじゃないかってくらい、顔を真っ赤に染めてはしゃいで、まだ家具も何も揃ってない部屋で、祝杯をあげた。ちょっと高めのワインを買って、コンビニの適当なつまみを買って、彼女を帰さなかった。

それから彼女はすぐここに引っ越す準備をした。あたしと彼女は休みの日を合わせて家具を見に行ったり食器を買いに行ったりした。

何もない、コンクリートの寒々とした細長いだけの家に、少しずつ家具は増えて、私物は増えていく。

あたしたちには勿体なくて、そして寂しすぎるこの家を、ふたりの色で染め上げていった。ベッドやソファ、食器棚にダイニングセット。足元が冷えないようにふたりで選んだラグなど、ひとしきり家具が揃った頃、彼は家にやってきた。

ある休日、リビングの赤紫色のソファに寝転がってあたしは雑誌を読んでいた。温かい紅茶を入れて、雑誌を一通り読み終わった頃合いで、彼女は帰ってきた。

「薺ー! きてー!」

彼女があたしを呼ぶ大声が聞こえて、あたしは何事かと思って玄関まで駆け下りる。すると彼女は、目がくりくりした黒目がちな彼を顔の前に持ち上げて、笑った。

「コーギーが居ると素敵だって、言ってたでしょ?」

あたしは感動して、その場で彼女と彼とを抱きしめた。すると彼はびっくりしたのかあたしをとても警戒していたけれど、あたしは堪えきれずに笑った。

「最高すぎ」


朝食を終えると、あたしたちは各々好きな時間を過ごす。コーヒーを飲んだり、本を読んだりして、そしてどちらからともなく「散歩行こっか」と呟く。ミルクを連れてあたしたちは玄関を出た。家を出て、石の階段を下りるともうそこは浜辺だった。

さらさらとした灰色の砂。少し歩くともう青い海が広がっていた。あたしと彼女は手を繋いで浜辺を歩いた。琴音はいつもスカートを履いていて、それが潮風に揺れる姿はとても綺麗に見えた。琴音がミルクのリードを持って、歩く。すると、彼は楽しそうに息を吐いて走り出した。きゃ、待って、と琴音の声がして、あたしもまたそれを追いかける。

走って歩いてを何度か繰り返して、あたしたちは無邪気な散歩時間を謳歌した。彼がゆったりと、てくてく浜辺を歩いている時、あたしはぎゅっと後ろから彼女に抱きついてみる。すると彼女が無邪気な声をあげる。それが楽しくてあたしはいつも、これをやる。琴音は振り返って、丸い瞳であたしを眺めて、唇が触れるだけの短いキスをした。


そして日が暮れて夕方になった。十七時を過ぎた水平線に、ゆっくりと茜が染み始めていく。ソファの上で体育座りで本を読んでいた彼女に、あたしはワイングラスを差し出した。

「一杯やろうよ」

彼女の顔を見下ろしてにやにや笑うと、彼女はいつも、こんな早い時間から? とあたしをからかって、でも次の瞬間には「いいよ」と許してくれた。

あたしは辛口のお酒が好きで、琴音は甘口のお酒が好きだった。飲めないということはないけれど、お互いにそちらの方を好んだ。あたしはその日もちょっと高めのワインを開けて飲んでいた。がばがばと水のように飲んでいると、「もう! そんな高いものがばがば飲んで!」と琴音はあたしを茶化したけれど、次の瞬間にはけらけらと笑っていた。あたしは少し赤くなった頬で、いつも彼女のグラスに手を伸ばす。

「ちょっと頂戴」

屈託なく笑うと、琴音はいつも「えー、そんな辛いやつ飲んだあとでこんなの飲んでも何にもならないよ?」とちょっと嫌そうな顔をしたけれど、断るとあたしがしつこいことを知っているので、すぐにその甘いお酒をわけてくれた。

あたしは琴音のグラスで彼女のワインを飲んだ。すると彼女は「美味しい?」と尋ねる。

「美味しくはない」

あたしは即答した。すると彼女は、はぁ? と珍しく低い声になって、眉間に皺を寄せた。その後であたしは言った。

「美味しいとは思わないけど好き」

早口に言うと、彼女はきょとんとして、それからにまにまと笑って言った。

「薺のも頂戴」

あたしは彼女に、自分の飲んでいたワインを差し出した。


酔うと琴音は笑い上戸になった。ワイングラスを両手で抱えて、眉毛を寄せて赤い顔で笑う。ふふ、ふふふ、と耐えず息を漏らし始めると、それは琴音が酔っている合図で、こうなるともう、彼女は何がおかしいんだかよくわからないのにずっと笑っている。ふっ、と呼吸をして、また五秒後には眉を寄せてお腹を抱えて笑う。ここまで来るともう、自分が笑っているという状況に爆笑しているくらいだった。正直あたしは何が面白いんだか全然わからなかったけれど、ずっと笑い続ける彼女を眺めているのは楽しかったので、それを肴にまた酒を煽った。

酔いも回ってきたところで、彼女は赤い顔であたしをうっそりと眺め、そして言った。

「薺は独立しないの?」「独立?」あたしが彼女を眺めると、こくりと頷いた。

「建築家って、設計事務所で下積みをしてからみんな独立するんじゃないの?」

彼女は首を傾げながらあたしを眺める。あたしは思わず吹き出した。

「あんた、あたしが独立すると思ってたの?」

「しないの?」

「しないかな」

あたしはワイングラスを取って、その中にまだ入っていたワインを飲み干した。

「するもんだと思ってた」

彼女は屈託なく笑った。だからあたしは、少し考えて、それから勢いで言ってみる。

「独立しても、ついてきてくれる?」

え? と彼女は目を見開いて大袈裟に驚いた。

「どーしよっかなー」

彼女は頬を押さえて笑う。でも、その仕草と表情で、あたしは既に安堵していた。

「いいよ。ダメだなんて言うと思った? どこまでも追っ掛けてくよ」

彼女はにこにこ笑って、それを眺めてあたしも笑った。

「薺はさ」

琴音はクールダウンするように、ルームウェアに包んだ膝を抱えて体育座りをした。ソファの上でも落ち着くのか、彼女はよくこの座り方をした。

「まだ二十代なのに、こんなすごい家買っちゃってさ、休みも全然ないのにバリバリ働いてて偉いと思う」

仕事、好きそうだからと彼女は付け加えて、立てた膝の上に顎をくっつけた。あたしはグラスにまたワインをたっぷりと注いで、それを彼女の前でちょっとかっこつけて揺らしながら言ってみる。

「あたしね、あんまりこれからのことに興味無いの。仕事だって、流れでやってるようなものだし。意地とかそういうのはあるけど、野心とかあんまりない」

グラスの中のワインを眺めたまま言った。気恥ずかしかったのだと思う。

「琴音がいなきゃ、家なんて買ってないよ」

あたしは呟く。そして彼女を眺める。

「大学生の時、授業でこの家の勉強をしたの。テキストに載った眺めと、家の全景を見た時に、ああ、琴音と住むならこんな家がいいなあ、って漠然と思ってた。大人になったらそれがたまたま売りに出されてて、賭けるとしたらここしかないと思った。家さえ手に入れられればどうにかなると思ったの。君は絶対気に入るって、確信があった」

「でもその分、怖かったでしょ?」

彼女はあたしの隣に来て、あたしの手を取った。

「うん。もし君に、恋人がいて、その人との未来があったらどうしようと思った。あたしとの約束なんて覚えててくれてるわけないと思った。だって、女の友情って、きっとそうでしょ?」

「それは」少し言い淀むような間の後で、琴音はあたしを正面から見つめた。

「あたしと君の話をしてる? それともこの世界の一般的な女の話?」

彼女は神妙な面持ちであたしの顔を覗き込む。あたしは首を横に振った。

「ごめん、言い方が悪かった。世間一般の女って、きっとそうでしょ?」

「君はあたしをそういう女だと思った?」

あたしの真意を試すような空気に、あたしはじっとりとおでこに汗が滲んでくるのを感じる。

「思ってない。でも怖かった」

彼女があたしの頬を撫でて、それからあたしを抱きしめる。あたしの恐怖をすべて包み込んでしまうような温かくて優しい仕草に、あたしは思わず呟く。

「ずっと友達でいられるって思ってた。でも大人になって気づいたの。この世界で、十年後も一緒に君とお茶を飲むってことを望むのが、どれだけ難しいかって」

あたしの背中を、彼女はそっと撫でてくれた。ぽん、ぽんと一定のリズムを刻むそれは、子守唄のようだった。

「だからあたし、人生に望むことってもうこれ以上ないの。この毎日に、琴音がいてくれたらそれでいい。」

彼女の背中に手を回すと、彼女はあたしを包み込んだ後であたしを離し、くつりと笑ってあたしをソファに押し倒した。

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