月と影踏み

それから。あたしはもう、何度彼女との追いかけっこを続けたのか分からなかった。彼女を助けられた、と思ったらあたしが死んで、ふたりで、この世界を打ち砕いた、と思ったらどちらかが死んでいた。生と死を繰り返すゲームに、あたしはもう疲れ果てていた。

あたしがため息を吐いて頭を抱えると、決まって円環の上で彼は尋ねた「諦める?」と。しかしあたしはその度に強く首を振った。どんな凄惨な目にあっても、どれだけ血が流れても、あたしはあなたを諦めきれなかった。それをあなたは、恨むかもしれない。


もう何度目かもわからないループの中、彼によって構築され直した世界で目覚めたあたしは、その感覚を奇妙に思った。あたしは自分の部屋のベッドで目覚める。しかし、その時刻は夜半を過ぎていて、あたしは何故か彼と初めて顔を合わせた時に着ていたパンツスーツにハイヒール、そして黒い手袋を嵌めていた。あたしはそれを不思議に思ったが、とにかく身体を起こして階下へと下りる。でもそこに母の姿はない。洗面所の鏡で自分の顔を眺めた。変わっていたのは服装だけではないみたいだった。あたしは自分の髪の毛先に触れる。髪の中心から毛先までが青く染まっているようだった。根元から毛先まで、黒から青に変わっていくグラデーションを描いている。あたしの真っ黒だったはずの瞳は水晶のように透明になり、光の加減で銀にも見えた。そして何より変わっていたのは、あたしの年齢だった。

ループの中であたしは基本的に彼女と多くの時間を共有した高校時代の姿だった。そして彼女に合わせて、時々大学生になったりもしていた。しかし、あたしの今の年齢は、恐らく彼女が死んだと連絡を受けた二十一歳の姿だった。

とにかく、彼女を探さなければ。あたしは外へ出る。街灯の明かりだけが等間隔に並んでいた。しかし住宅の明かりはひとつも灯っておらず、街に暮らす全員が寝静まっていると解釈するには不自然だった。やがてあたしはひとつの考えを巡らす。もしかしてここには、誰も居ないんじゃないだろうか。彼女さえもここに居なければ、いったいあたしはどうなってしまうんだろう。彼にさえも会えなかったら。あたしはこの空間に閉じ込められて、永遠にひとりきりなのかもしれない。それはとても悲しくて、寂しいことかもしれない。

でも。あたしは頭上を見上げる。街灯や家の明かりのない夜空は、怖くなるくらい真っ暗なのに、普段は光に霞んで見えない星々が輝いていて綺麗だった。

もしかしたら、これでいいのかもしれない。あたしは思い至る。あの子のいなくなったあの世界で、これからも生き続けることよりも、ここでたった一人きりで永遠に近い孤独を過ごす方が、あたしにとってはいいのかもしれない。あの子にもう二度と会えないのだとしたら。それでもいい。

頭によぎった考えを振り払い、あたしは彼女が一番行きそうなところを探すことにした。そしてあたしは思いつく。真っ先に彼女が足を運ぶはずのところを。あたしは電燈が鈍く光るY字路を進み、いつもの通学路を歩いた。


敷地を分かつ柵と歩道の間の地面には伸びきった雑草が野放しにされている。昼間は青々と揺れているそれらも、夜の暗闇の中では意志を持ってたなびく知らない生き物のように見える。点々と立ち並ぶ葉だけになった桜の木々を横目に歩いていくと、視界が開けていつもとは違う表情を持った学校が現れる。

目の前に現れたそれは、夜闇の中にどっしりと構えながら、やっぱりいつもの学校とはどこか違う雰囲気を放っている。それは、夜のせいばかりじゃない気がした。この街からひとが消えてしまったのと同じくらい、奇妙な光景のように思える。

なんだかいつものループとは、何かが違う。

閉じている門の横の格子に足を掛け、力を込めてあたしは門の上に上り、敷地を跨いで地面に着地する。学校は沈黙を貫き通したまま。人の気配は全く感じられない。

「遅かったね」

校舎への道をまっすぐに歩いていると、急に後ろから話しかけられて震えあがった。けれど、あたしはすぐにそれが彼だとわかる。あたしはほっと胸を撫で下ろした。

「いたならもっと早く言ってよ。いなくなったのかと思った」

あたしは振り返って彼に告げた。そしてその姿に唖然とした。

「ねえ、どうしたの」

あたしが目を見開くと彼は円環の上に座り、足を組んだまま忌々しそうに目を逸らした。いつもの小さな体躯は消え去り、あたしより背の高い青年がそこにはいた。しかしそれがヒビだということが、あたしにはわかる。

「なんだよ、見た目のことを言いたいのか? 君だっていつもと違うだろ」

半ズボンから見えていた彼の愛らしい膝小僧は消え失せ、いつものスーツではなく、黒いシャツに、深紅のネクタイとベストを着ていた。普段は地面につかない足をぷらぷらさせて浮遊していたが、今はその長くなった足を持て余しているように見える。大きすぎて溢れそうだった瞳は、切れ長の冷酷な瞳に変わり、ふわりとした癖のある髪は少しだけ短くなっていて、ゆるやかにうねっている。左の耳には銀のピアスをしていた。でも、手にはいつもと同じ手袋をつけている。

「似合ってるじゃん、かっこいいよ」あたしが茶化すと「うるさい」と犬が吠えるみたいに彼はあたしを制した。

彼とあたしは並んで校舎の方へと歩いていった。もっとも彼は自分の足で歩かずに円環に座っていたけれど。あたしと彼は程なくして校舎の玄関にたどり着く。扉に手をかけ、少しだけ引いてみると簡単に開いた。あたしはその中に入り、それに続いてヒビも入ろうとした。しかし、彼は訝しげな表情をしたまま、あたしの後には続かなかった。不思議に思って振り返ると、ヒビは円環から下り、まるで車を駐車するみたいに、それを外に浮遊させている最中だった。

「歩くの?」

あたしが尋ねると、彼は黒い手袋を嵌め直しながら言った。

「ここは狭いからね」

眉根を寄せて、不快そうに笑う。いつもは飄々としているヒビがそんな表情をしていたことに、あたしは違和感を覚えた。

あたしたちはそのまま、エントランスを抜けて廊下を歩いた。真っ暗で何も見えない廊下を、彼が後ろから照らしてくれている。

「なにそれ」

あたしは彼の手のひらの前でぼうっと輝く小さなリングを眺めて言った。

「あれの小さい版だよ」

「へえ、あれ照明代わりになるんだ?」

彼はあたしに取り合わなかった。その代わりにあたしの名を呼んだ。

「薺、この先に彼女がいる」ヒビは後ろからあたしの肩を掴んで、進もうとするあたしを引き留めた。彼にしては強引な行動にあたしは不信感を覚える。

「ねぇ、なんか今日らしくないよ」

「そりゃ、そうだよ。これは僕が作った世界じゃないんだから」焦ったような声で彼は言う。どういうこと? とあたしは彼を見つめた。彼はあたしをちらと眺める。彼の真っ白なこめかみに、微かに汗が滲んでいるのがわかった。

「ここは僕が君の為に作り直した世界じゃない。彼女が君の、君の為だけに作った世界だ。だから僕も干渉を受けてる。こんな姿になってね」

眉根を寄せたあたしの表情を見て彼はため息を吐く。呆れたように笑ってみせたあと、彼は暗闇のある一点を悠然と指さし、説明は彼女に求めるといい、お出ましのようだから。と呟いた。

「ようこそ、薺」

鈴の鳴るような涼やかな声がして、あたしは振り返った。

見るとそこに美しい衣装を着た琴音がいた。次の瞬間にあたしは感動が込み上げるのがわかった。目の前の彼女は十七歳のままで、可愛らしいウェディングドレスを身にまとっていた。締まったウエストからふわりと広がっていくスカート、その丈は膝上くらいで、彼女の足にはやっぱり所々痣が浮かんでいる。後ろの部分が大胆なフィッシュテールのように長くなって、レースが付いていた。彼女の無垢さを演出するのに、これほど可愛らしく相応な衣装はないと思う。

ノースリーブから覗く腕は真っ白でか細くて、でもその細さがあたしはすごく好きだった。髪を綺麗に結いあげて、ヴェールの下で彼女が微笑むのがわかる。

「あなたが来てくれるのを、ずっと待ってた」

ことり、ことり、と彼女の履いたガラスの靴が繊細な音を立てながら、あたしの元まで彼女を運ぶ。跳ねるように楽しげで、美しいその所作に、あたしはただ見蕩れた。

「ねぇ、薺。遊びましょう」

淑女のように恭しく頭を垂れて、彼女は手袋を嵌めた指先を差し出す。

「あの日出来なかった影踏みの続きよ」

琴音はヴェールの下で静かに笑う。それを傍らで見ていたヒビが制した。

「ダメだ、彼女は君が勝てないとわかっていてゲームに誘い込んでるんだ。この世界に月なんて存在しない。最初から影踏みなんか出来ないんだ。彼女は君を引き込む為に、わざと勝てない試合をさせようとしてる」

彼は琴音の前に立つあたしの肩を強引に引き寄せようとした。すると琴音のぎろりとした鋭い眼差しが彼を射抜く。

「ねぇ、殿方は黙っていて下さらない?」

氷のような凍てつく声で、彼女はその白い指先を地平線にまっすぐに指し示す。するとヒビは言葉にならない声を上げて窓の外へと投げ出された。彼の華奢な背中が窓ガラスにぶつかって、そのまま音を立てて割れる。ヒビの白い顔の前で、ガラスの破片が煌めいていた。

「あなたはどうしてここへ来たの? ここに必要なのは、薺とあたし。ただそれだけよ」

琴音は純真無垢な眼差しでそう告げた。

「死者の戯言に耳なんか貸すもんじゃない」

窓の外でヒビが叫ぶ。彼は宙に落下していく。しかし、円環を引き寄せて、その上に華麗に着地した。彼はあたしと彼女を見下ろす場所まで浮上する。

窓の外に悠々と浮かぶ円環と彼の真っ赤な瞳を見て、琴音は静かにくすりと笑う。やがて彼女はあたしに向き直った。ねぇ薺、親しげにあたしに呼びかける。

「あたしとの賭けに乗る? それとも降りる? あたしが勝ったら、あなたを一緒に連れて行く」

あたしは静かに息を呑む。琴音の瞳を見上げて、あたしは言った。

「あたしを連れていってくれるの? そしたらあたし、わざと負けちゃうかも」

あたしの目を見て、彼女は慈愛に満ちた表情をした。

「それが望みなら」

「わかった。影踏みをしよう」

窓の向こうでヒビが頭を抱えて項垂れるのがわかった。

「でもひとつ条件、あたしが勝ったらあなたの未来を頂戴」

あたしがそう言うと、琴音は少しだけ考えた後で答えた。

「いいよ、君にそれができるならね」

琴音はあたしの手を取って、くつりと笑う。そしてその指先に、まるで誓いのキスをするみたいに、ゆっくりと唇を落とした。

「薺、あたしを捕まえて」

そう囁いて、彼女は走り出す。透明なガラスの靴で、彼女は長く続く廊下を駆け抜ける。ひらりひらりと揺れるスカートが綺麗で、あたしはずっとその姿を見つめていたかった。

「あーあー、あーあー!」

あたしと琴音を見下ろしていたヒビが窓の外で頭を掻きむしって項垂れた。彼は心底後悔している様子だった。あたしに関係は無いけれど。

「まったく君は命知らずなやつだな!」

彼はあたしを罵倒する。それに構わずあたしはヒビを見上げて、ゆっくりと微笑みかけた。

「大丈夫だよ」

ただ一言そう告げると、彼は諦めたように笑って、「君は一体なにを考えているんだか」なんて言う。それからやがて、君が言うなら間違いないんだろうね。と微笑んだ。だからあたしは答える。

「君が味方してくれるって信じてるからね」

そう言うとヒビは目を丸くして、次の瞬間呆れた。はっはっは、と彼にしては豪胆な笑い声を立ててあたしを眺めた後、意を決して円環を頭上高く舞いあげた。そして彼はその光量を徐々に上げていく。鈍く光り輝いていた円環は、きらきらと煌めき始め、やがて辺り一面をまばゆく照らし出す。それは月にも劣らぬ美しい光だった。

「最初からこれが狙いだったんだろう!」彼は笑った。

「バレた?」あたしはおどけてみせた。いいから早く行け! と彼はあたしを罵った。


あたしは彼が作った偽物の光の中で、彼女を追いかけた。彼女とあたし、そして月明かりだけの終わらない追いかけっこがはじまった。追いかけっこが始まった時、あたしはもう彼女の姿を見失ってしまっていた。琴音はあたしを振り切って、構わず走った。あたしを、また置いてけぼりにするみたいに。しかし、月明かりはあたしには見つけられない彼女の姿を目ざとく見つけ出し、追いかける。ふわり、と彼女の純白のドレスが暗闇に浮かび上がった時、それを追いかけていた月の光は消える。

一瞬の暗闇の後、月明かりは彼女だけを照らし出すスポットライトになった。光の中で彼女は舞い踊る。バレエダンサーのようにくるりと翻って、いたずらにあたしを待ってみせる。やがてあたしを待つのに退屈すると、気まぐれにまた駆け出す。

月明かりが照らすその姿を、あたしはただひたすら追いかける。真っ暗闇の中、右も左もよく見えない中、それでも彼女の光だけを目印に、彼女の翻るその姿だけを追いかけて、あたしは走る。

「待って」

彼女の走った軌跡に、光の粒ができて、風に揺られてそれは舞う。それはいつか頭の中で君の為に作ったクラゲみたい。なんだか懐かしくて、でも初めて見る景色のようで、胸がときめく。あたしが彼女のいた場所に辿り着いた時、彼女はもう次のステージにいた。月明かりだけがその姿を丸く切り取っている。

「ねぇ」

その呼び声で、あたしはまた走り出した。偽物の月明かりを一心に浴びて、彼女はあたしを待ち侘びていた。それは早く着きすぎたバスが定刻を待つかのような、ゆったりと美しい時間だった。彼女は埃の被った床をとんとんと踵でつついて、そしてふと、傍らで彼女を照らし続ける彼に話し掛ける。

「あなたも大変ね」

彼女は月を見上げて、慈しむように笑った。すると月は答える。「誰のせい?」恨めしそうなその眼差しに、彼女は可愛らしく肩を竦めた。そしてその後で「薺」と、遠くからあたしを手招きする。あたしは導かれるように、彼女のところへと駆け抜けていく。

あたしは開けた視界の中心に彼女の姿を捉える。彼女は青白い月明かりに照らされながら、あたしの大好きな笑顔でにっこりと笑った。ああ、あたしは泣きそうになる。

こうやって、君があたしを待っていてくれたなら、どんなによかったか。零れた涙は振り払われて、暗闇へと吸い込まれていく。あたしは目を拭って、そして強引に腕を振る。彼女は言う。

「置いてっちゃうよ」

彼女はあたしをあしらって、踵を返して走り出した。あたしは悔しくて、泣きそうになる。ていうか、もう泣いてるけど。琴音はいつもそう。あたしが必死に伸ばす手を、あんたはするりとすり抜けて、ふわりとどこかへ飛んでいく。そしてそのまま、あたしの元には帰らない。それをあたしはよく知ってる。あたしはあの現実で、何回あんたに裏切られて、この夢でも、何度あんたに痛い目に遭わされたかわからない。なのにあたしは、それでもあなたを諦められない。馬鹿みたい、往生際が悪いって、君は笑う? でもあたし、たくさん痛い目に遭ったけど、ひとつも後悔してないよ。

彼女は目を細めてあたしを眺め、そして微笑む。その可愛い笑顔が、静かな微笑が、諦めたように笑う眼差しが、あたしは欲しくて堪らなかったし、傍に置きたくて仕方がなかった。

でも、そんなあたしのエゴがあなたを傷つけて、殺していったのかな。わかんないよ。教えてよ。

「ねぇ、薺」

彼女は楽しそうに跳ね回りながら、あたしに言った。なに、とあたしは息も切れ切れに答える。しかし彼女は、息も乱さず、ごく自然に流暢に言葉を紡ぐ。

「あたしね、ずっとこうやってあなたと遊んでたかったの」

琴音はくしゃりと笑った。

「こうやってね、ふたりだけの世界で、終わらない世界で、ずっとずっとふたりきりでいたかったの。あの時あたしの影を踏んで、あたしの時間を永遠にして欲しかったの。」

彼女は振り返る。顔を隠したヴェールが波打って揺れていた。

「それはあたしも、同じだよ」

彼女の背中を追いかけながら、あたしは言った。あたしは彼女に手を伸ばす。しかし彼女は瞬く間に消え、気づけばあたしの背後に立っていた。

「ううん、違う」

静かに彼女は教え諭す。

「あなたは影を踏まなかった。影を踏むのは、未来じゃなく今じゃなきゃいけなかったの。でも、あなたにとってそれは違った。あなたの影は、今にはなかったの。あなたは影踏みを、いつになるかわからない未来まで先延ばしにしたの。それが、あたしは怖かった」

身の毛もよだつような、彼女の冷たくて凛とした声が、あたしの背筋を撫でる。静かで、澄んでいて、でも確かにあたしを責め立てる声に、あたしは耐えられなかった。

「そんなの、わかんなかった。あたしにはわかんなかった」

「うん、薺にはわかんないだろうね」

「どうして言ってくれなかったの」

逃れるようにあたしは叫ぶ。すると彼女の周りの空気がぶるっと震えて、月明かりの中、光の粒が弾けていくのがわかった。

「言っても、あなたは未来を信じてた」

唇を噛んで彼女は俯く。やがて彼女の陶器のような頬を、一筋の涙が流れたあと、彼女はそれを指で拭って、またあたしの手をすり抜け走り出す。あたしはその時わかってしまう。君もあたしと同じだった。二人の夢を続けるために、君は走っている。

「そうだったかもしれない」

そう呟いて、あたしはまた彼女の背中を追いかける。ずっとずっと小さいままの、君の背中を追いかける。もう二度と大きくならない背中、瑞々しくて綺麗なまんまの、決して曲がることのない背中。

「でもあたし、言ってくれたら、君と世界の終わりまでずっと一緒にいた」

「嘘!」

あたしが叫ぶと、彼女もヴェールの下で叫ぶ。

「ずっと一緒にいたかったよ」

「でも薺はあたしから、逃げた」

視界の中心で、彼女がバランスを崩すのがわかる。ガラスの靴の、踵が折れる。彼女の上体が、ふわりと崩れていく。それでも、彼女は走る。つまずいた拍子に膝をつきそうになりながら、それでも必死に彼女は走る。

その健気な姿に、あたしは思わず涙が零れた。「ごめん」

「あたし、君の命が怖くなって逃げ出した。君の命から逃げ続けて、その未来から逃げて、君を閉じ込めた」

彼女の背中が、もうすぐそこまで迫っていた。あたしは必死に手を伸ばす。

「だから今、迎えに来た」

揺れるヴェールを、指先で掴む。彼女は振り返る。

「遅いよ!」

泣き腫らして赤くなった顔であたしを見上げる。あたしは彼女を引き寄せて、思いきり抱きしめる。

「捕まえた」

「どうしてもっと早く迎えに来てくれなかったの」

彼女はあたしの腕の中でさめざめ泣いた。あたしの胸を力なく手で叩きながら、声をあげる。

「それはあたしが、いつか君との未来を漠然と夢見て、叶うはずだって、待っててくれるはずだって、信じ込んでたから」

あたしは彼女を離して、そして微笑みかけた。

「でも、違ったんだね」

あたしは彼女の頬を撫で、その涙を指で拭った後で、そのヴェールに手を掛けた。

「君は今すぐ、迎えに来て欲しかったんでしょ?」

そうだよ、とぽろぽろ涙を零して、彼女は笑う。

あたしは彼女のヴェールを取った。そこに本物の君がいる。ルーズリーフを貼り付けられた君じゃない、あたしが夢の中で見た君じゃない。命の座を飛び下りてさ迷い続けている、君がいる。

あたしは彼女の顔を眺める。彼女のすこし尖っていて、なのに小鼻がちょっとだけ平べったい鼻とか、涙に濡れて真っ黒に輝く睫毛とか、しきりに動く赤くなった頬を眺めた。ちっとも寡黙じゃないこの顔を、ずっと眺めていたいと思った。

「あたし、死ななきゃ良かった?」

彼女はあたしを見つめた。懇願するような切実な視線が、あたしに注がれている。

「あたしずっと、あなたが迎えに来てくれるの待ってれば良かった? この苦しい毎日に耐え続ければそれはいつか報われた? あなたとの未来が訪れた?」

彼女は濡れた瞳で捲し立てるように喋った。

「そんなの、あたし信じられなかったよ」

ぼろぼろと両目から涙を流して彼女はあたしを突き放す。呼吸が乱れて、肩が上下に動く。

「あたしが悪いの?」

彼女は言った。しきりに肩を震わせながら、彼女は俯いて泣いていた。あたしから顔を背け一人きりで抱え込む彼女を、あたしはそっと包み込む。あたしは彼女の背中に手を回して、その上下する肩甲骨を、震える背中を撫でた。

「ううん、琴音は何も悪くない」

彼女は、わんわんと声を上げて泣いた。あたしは彼女を宥めるようにその背中や髪を撫で続けた。

ヴェールの中に隠されていた頬や、その白くてちっちゃい顎とか、しゃくり上げる喉元とかそういうものを、触れるだけ触って、撫でる。上手く息もできないまま彼女は言う。

「あたし、あなたとの未来を、見てみたかった」

彼女はあたしの胸元をそっと、細い指先でなぞりながら囁く。

「あたしの中には存在しなかった。あたしと君の、あったかもしれない未来。もし、そんな物があるなら、あたしそれを眺めてみたかった。それに命を、賭けてみたかった」

つ、と彼女はあたしの心臓の中心に触れる。とくんとくんと、微かな鼓動が響く。

「あたしが描いてた未来を、君にも見せてあげたかったよ」

じゃあ、彼女は悪戯っぽく微笑んで、上目遣いにあたしを見た。

「その未来を、頂戴」

どくり、と心臓が大きく脈打って全身の血が逆立つ。琴音はあたしの胸元をゆっくりと指でなぞった後、つう、とあたしの身体の中に入り込んで、その白く冷たい、氷のような指先であたしの心臓を掴んだ。

「……ダメだ! 引き返せ、薺! 君の命の座を彼女に明け渡してはいけない!」

ヒビの声が聞こえた。その時にはもう遅かった。

どくん、どくんと嫌な音を立ててあたしの心臓は叫ぶ。目を見開いて、背中が仰け反った。両方の瞳から、穿たれたように汁が溢れた。それは悲しいとか、痛いとかを超越した、ただ無感動に流されるだけの反射的な涙だった。

「ねぇ、薺」

彼女はあたしの身体を優しく抱いたまま、囁いた。

「入っていいって、君が言ったんだよ」

聞いたことがある。幽霊は家主の承認がなければ家に入ることができないらしい。あたしは知らず知らずのうちに、人ならざる彼女を許し、彼女をあたしの中に引き入れたのだった。

でも、それでもいいと思えた。彼女の手で強引に糸を引っ張られながら、夢の中へと誘われる。それはひどく冷たくて、氷の中に閉じ込められてしまったかのように、寒くて、痛くて、寂しい。手足の先から温度がなくなって冷たくなっていく。徐々に感覚は失われて、あたしは彼女に命を握られたまま動けなくなる。ひどく寒いのに、握られた身体の中心は熱く、破裂しそうなほどに脈打つ。ほろり、と一筋涙が零れて、あたしは彼女の腕の中で意識を失った。

それはとても甘美で痛くて、刺々しい瞬間だった。あなたはずっと、こんな暗闇に、ひとりきりでいたのかな。それはきっと、すごく寂しくて、恐ろしかっただろうな。でも、あたしはもうひとりじゃなかった。琴音に意識の糸を引かれて、あたしは彼女のことを考えていたから、どんな暗闇も寒さも、決して辛くはなかった。寧ろそれは愛しくさえ思えた。彼女が背負った痛み、感じた孤独。その中にあたしは今、彼女の手によって誘われていく。

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