(幕 間)

それは、九月というのにやけに蒸し暑い夏の日の事だった。耳を劈くような蝉時雨が、クーラーでガンガンに冷やした店内にまで薄く聴こえて、夥しいほどの蝉が、虫の知らせ、というのに相応しいほど泣き喚いていた日。あと三十分で上がれる、と額に微かに汗を滲ませたあたしは腕時計をちらりと見た。カウンター越しにメニューを聞いて、オーダーをいれる。

「チーズバーガーワンです」

できるだけ明るい声で叫ぶと、店長がこちらを見た。彼があたしをこんな風に見る時は、何か面倒事を押し付けてくると決まっていた。一旦後ろに下がろうとしたあたしを店長が目ざとく見つける。中肉中背で、だんご鼻に脂汗を滲ませた彼は言う。

「申し訳ないんだけど、向坂(さきさか)さん。次のシフトの子が来れなくなったみたいで、二時間引き受けてくれないかな」

ああ、いいですよ。あたしは言葉だけの返事をした。いったい何度目になるだろう。あたしの後のシフトの女子高生の無断欠勤が増えるようになったのは。

にも関わらずこの優しそうで幸の薄そうな男はそれをどうこうしようとも思っていないらしい。それもそうだ。働き手の足りないこの社会で、たとえ無断欠勤が多くともその分の駒を捕まえておきたい気持ちは充分わかる。いや、わからなくもない。別に彼氏がいる訳でも先約があるわけでもなし、働く分だけ稼げるからいいけれど、大概にしてくれよ、と誰にともなく舌打ちをした。

二時間の残業を終え外に出たあたしは、すぅ、と外の空気を吸い込んだ。夏ももう終わるというのに三十度を越えた日の夕暮れは蒸し暑く、西の方へ沈む真っ赤な夕焼けが、地平線でやけに大きく輝いているように思えた。

スニーカーの踵を直して帰路につこうとした。その時あたしの足の裏に、少し固くて大きなものが当たるのがわかった。

「ひぃ!」思わず叫んでつまづく。グシャリ、と潰す前にどうにか足をずらして前につんのめった。振り返るとそこには、木から落ちた蝉の死骸が転がっていた。

よく見るとそれは一匹だけではなく、灰色の歩道に、いくつもの茶色い物体が点々と落ちているのがわかる。すべて蝉の死骸だった。昼間はあんなにも煩く喚いていた蝉が、一匹残らず無惨な姿で地面に転がっている。

背中に震えが走るのを感じて、あたしは静かに息を呑んだ。嫌な予感がして、切っていた携帯の電源を入れる。起動までの時間が長くて、やきもきする。蝉の死骸に取り囲まれたあたしの背中を、静かに汗が零れ落ちた。リンゴのマークが現れて、パスワードを入力する。すると、さっきまで死んでいた携帯が急に息を吹き返したかのようにぶるぶると震え出した。

不在着信十件、メッセージ一件。留守電一件。少し迷って、折り返し電話をかけた。呼出音の後、懐かしい声が息を切らして取り乱すのがわかった。

「薺(なずな)、聞いて、あのね、落ち着いて聞いて」

彼女は微かに息を乱しながら、言った。

「鳳(おおとり)さんが死んだらしいの。自殺だって」

あたしの視界は暗転する。暗転……ほんとうにこのまま何も見えなくなってしまえばよかった。でもあたしの視界の先には、真っ赤な太陽と、命を終えて骸になった蝉の死骸ばかりが見える。それはあたしが見ている、というよりも映画かなにかのワンシーンの様に見えた。あたしがそんなことを思っている間にも、電話の向こうで彼女が何かを言い続けているのがわかる。いつ、どこで、どんな風に、とか。告別式はいつか、とか。でも、その声がまるで聞こえない。聞こえても全部、右から左へと通り抜けてしまって、意味を持たない言葉の羅列にしかならない。

だいたいそんな切迫した声してさ、あんた一回でもあいつと話したことあった?

なんてどうでもいいことを思う。やがて、背中にじっとりと汗が滲んで「そういえば昔から、なんかおかしかったよね」なんてその子のその言葉だけ妙に鮮明に聞こえるものだから、薄暗くてどろどろした不完全燃焼の気持ちが蘇って、頭を支配する。頭の中が、真っ暗? 真っ白? 急に夜になったみたい。でもこの目に映ってるのは、世界の終わりってこんな景色なんじゃないかって疑いたくなるほどの、真っ赤な夕焼け。「嘘」あたしは電話を切った。ちょっと薺、まって、そんな声が聞こえた気がしたけれど、その声はもうあたしには意味がないように思えた。


「嘘」あたしはもう一度声に出してみる。もしかしたらこれ、夢なのかな、と思って頬をつねってみるけれど、やっぱり痛みは鮮明なまま、嘘みたいな夕焼けも、夥しい虫の死骸も、結局ぜんぶ現実らしい。

最後に会ったのは、いつだったっけ。たしか、二週間くらい前。もうすぐ夏も終わるからってパフェを食べて、あたしがめずらしく苺のやつを頼んだら、「それじゃああたしが苺食べられないじゃない」なんて怒りながらチョコレートパフェを食べてた。あの日も、白いワンピースに、つばの広い帽子を被って、屈託なく笑ってた。

なのに。なんで?

気づけばあたしは走り出していた。もしかしたらまだどこかに彼女が生きてる気がして、例えばそこの街路樹の影からドッキリでしたー! なんてけらけら笑いながら飛び出してくるような気がして、走る。走る。グシャリ、ぶつり。勢いよく駆け出す足が何かを踏みつけて、壊す。やがてそれが蝉の死骸だったことに気づくけど、あたしはもう、なりふり構わずがむしゃらに、走る。やがて、何も聞こえなくなる。周囲の雑踏、街のひしめき。そういうノイズが、自分の世界からひとつ残らず排除されて、聞こえるのはあたしのうるさい呼吸と、鼓動だけ。


生きてるって、信じてる。

なんて、嘘。ほんとうはわかってた。やっぱりもう君はここにはいないのかもしれないって。いつかこんな日が来るんじゃないかって、涼しい顔して誰より怯えていたことを、あたしは思い出す。

いつか。なんて、そんな未来がないことを、もしかしたら明日死んじゃうかもしれないことを、あたしとあなただけが理解していた。それはあたしたち二人だけに理解できる世界のルールみたいなもの。甘美で優しくて、痛くて愛しい。ある時ふっと、風に舞って消えちゃうような。

でも、それが今日だなんて、思いもしなかった。

「変わりないって言ったでしょ! 嘘つき!」

そう叫んだ時、ガン! と何かがぶち当たる音がして、視界が反転する。何が起こったのかわからないまま、あたしは宙に投げ出される。身体中がひどく、軋む。ぐるりと回転する視界の中で、トラックの車体と、赤信号が見えた。


ああ、あたし馬鹿だな。とぼんやり思う。ぼんやり思ったその直後、走馬灯のように今までの二十一年の人生が頭の中で再生される。断片的な映像は、ほとんどがあの子との思い出ばかりのように思えた。そう、あの子がいなくなってから。あの子のいない人生は、あたしにとってなんて味がしなくて、悲しみも苦しみも無ければ、幸福も愛もない。あたしが抱く、幸も不幸もすべて、あんたがいなきゃ成立しなかった。

……クソ! 悔しくて悔しくて、痛くて痛くて、身体が? 心が? わからないけどとにかく両方が軋んで千切れそうなほど、痛くて、この世に神がいるならあたしは今、そいつに噛み付いて、四肢が千切れて、ばらばらになったとしても、残った歯だけで、見えないそいつに噛み付いて「まだ終わってない!」と負け犬みたいに叫ぶのに。あたしはあの子との人生を、諦めない。心の中でそう激しく思う。そしてあたしは地面に叩きつけられて、遅れて鼓膜に音が響いた。雑踏、ひしめき、呼び声。そのどれもが遠ざかっていく。微かに轍の残るアスファルト。点滅する信号の中、何者かに手を引かれるかのように、意識が遠のいていく。


岸壁に打ち付ける波の音で目が覚める。気づけばあたしは岸壁の上で座り込み、空を茜色に染め上げる真っ赤な夕焼けを眺めていた。巨大な太陽の煌々と燃えるさまは、まるで世界の終わりのように思えた。徐に地面についていた指先を眺めて絶句する。あたしはなぜか、喪服みたいに黒い手袋と、パンツスーツを纏っていた。視界の隅に、微かに青色が映りこんだ。黒かったはずの髪の毛の先が、塗料で着色したように微かに青くなっている。

不自然な状況に驚いていると、甲高い音と同時に、何かが動くゴゴゴゴという音が聞こえて顔を上げた。

見ると、巨大な太陽の中心にしぶきのような光がきらきらと輝いていた。やがて、それは帯状の線になり、その真ん中が眩しいほどに光輝く。ゴォン、と不思議な音がして、煌めきの中から現れたのは錫杖のような凹凸のついた巨大な円環だった。

鈍い光を纏いながらゆっくりと回転する円環の上に乗っていたのは、稀有な見た目の少年だった。

「さっき僕を呼んだ?」

少年はあたしを見やる。真っ黒な髪に、同じく真っ黒なスーツと黒い手袋を嵌めていた。小学生くらいに見える幼い顔立ちだ。でも、彼がただならぬ存在だと理解するのにそう時間はかからなかった。困惑の中あたしは口を開こうとする。しかしそれを、少年の美しく澄んだ声が遮った。

「さっき君が、『神に噛み付く』と言ったから、なんだか面白そうで来てみたんだ。君はだれ? そう聞きたいんだろう。僕の名はヒビ」

ヒビと名乗った少年は、くつりと笑って円環の上からあたしを見下ろした。口端を上げて、ゆっくりと言い放つ。

「そうだね。言うなれば僕は神の使者。君は、命の座を知ってる?」

「命の座?」こくりと頷いてヒビは目を伏せた。

「命の座。この世には、その人が座る命の椅子があるんだ。でもその数は無限じゃない。有限だ。……んー、わかりやすい例えをするなら、四角形の箱の中に椅子を並べてみよう。無限に配置することは出来ないでしょ? 椅子の『数』は常に決まってる。実は、この世界もそれは同じで、数だけは一定を保つように神様が判断を下すんだ。その判断に従って僕は椅子に誰が座って、誰が下りるのかを見届ける。言ってみればそれが僕の役目みたいなものだ」

訝しげな表情をしたままのあたしに、ヒビは思い至ったように目を輝かせた。

「例えば、今まさに死のうとする老人がいたとする、そして生まれようとしてる命があるとする。その時、老人が座り込んだまま、新しい命のための座を作って、無理やり配置することは出来ないんだ。配置する場所がないからね。だからつまり、僕はそれを調整する役割ってことさ。老人に早く椅子を譲るように促して、新しい命が生まれるのを少しだけ待ってもらう」

死神、そう思って貰っても差し支えないね。と、彼は頬杖をついた。

「……死神があたしになんの用?」

不審がって少年を見上げると、少年は「そんなに警戒しないでよ」と笑った。

「胸に手をあてて考えてご覧。心当たりがあるでしょう?」

「さっきあの子が死んだこと」

「そう、当たり」

少年は円環の上で立ち上がり、彼の背後の丸く穿たれた空間を振り返った。そして、彼は細長い指先でその空間の一点を指さした。彼が指さすと、背景の景色は歪み、中心に渦を巻いたような闇が現れる。

「さっき、君の探し人とすれ違ったんだ。彼女は命の座を下りて、この闇の中を歩いていった。死に向かう暗闇の中を、ただひたすらまっすぐにね。僕はそれを見ていたよ。ただひとりきりであの暗闇を、美しい心と健気な命を抱えたまま歩くのは、どんなに孤独で寂しかったろうと、僕は思う」

「何故、引き止めなかった?」

気づけばあたしはそう呟いていた。血走った眼で彼を見つめると、彼はさもおかしそうに笑う。

「何故? 面白いことを言うね。残念ながら僕には彼女を引き止める義理も権利も存在しない。僕はただそれを見守るだけの役目だからね」

でも、と少年は呟く。

「今回ばかりは神様も可哀想に思ったみたいなんだ。なんせ彼女は生前、色々あったからね。だから、これは、言ってみれば神様の情けみたいなものだよ」

サキサカナズナ、と彼は片言のような響きであたしの名を呼んだ。

「今君は、自分がどんな状況にあるか、わかってる?」

そう問われてあたしは自分の指先と、そして目の前の光景を眺めた。波の打ち寄せる岸壁。夕暮れ。そして自分を神の使いだという少年。……そのどれもが信じがたい光景だった。けれど、今のあたしはそれを信じるしかないように思えた。

「……あの子が死んだって聞いた。それであたしは、そんなの嘘だと思って、とにかくそれを受け入れられなくて、がむしゃらに走った」

「そして?」

「……トラックにはねられた」

正解、と少年は得意げに指を鳴らした。その仕草は何かの儀式のようにも思えた。

「そう。君の命の座が脅かされてるんだ。たった今。この瞬間にね」

少年は呟いた。

「君に、ひとつのゲームに臨んで欲しいんだ」

「ゲーム?」

「あの子の命の座を取り戻す、君だけが参加できるゲームに」

少年が指を鳴らす。すると、世界はくるりと反転して、彼の乗った円環の中心に、景色が少しずつ吸い込まれていく。

「君の答えは乗るか、降りるか、ただそれだけだ」

少年の真っ赤に染まった瞳が、世界の終末を見下ろす神のように思えた。あたしはその掌で踊らされているのが悔しくなって、拳を握った。

「……乗るに決まってる。あたしは、あの子のいる世界を諦めない」

あたしは静かに呟く。すると、彼は笑った。

「やっぱり! 薺ならそう言ってくれると思ってたんだ。だって、君は、あの子の空白の椅子に、耐えられないでしょう?」

ヒビがもう一度指を鳴らす。すると、あたしの髪が先の方から燃えるように静かに青く染まっていく。指先に力が籠る。世界が瓦解していく。岸壁が粉々に崩れ落ちていった。意識の糸をつう、と引っ張られるように、猛烈な眠気がやってくる。

「僕の座の力で、君に魔法をあげよう! 君の命の座が揺らいだ今なら、君はあの子を取り戻せるかもしれない」

崩れ落ちていく足場。ヒビはあたしを見下ろして、悠然と微笑む。悠然と微笑みながら、どこか切羽詰まった雰囲気で、でもやっぱりすごく楽しそうな表情で、落ちていくあたしを見下ろしていた。

「……どうしてあんたは、あたしの味方をしてくれたの」

消え入る声で呟いた。次の瞬間、あたしの意識は遠くなって、甘い悪夢を見るような鈍痛が頭を支配した。

「僕は君の味方じゃないよ。でも、命ある君へ。僕にその輝きと、執着を見せて欲しいんだ。そうしたら僕の孤独も、少しは安らぐかもしれない。応援してるよ、薺」

茜色の夕焼けが跡形もなく消えて、ただひたすら深い暗闇に、ぼうっと浮かび上がるのは鈍く光を放って回転する円環と、その上で魂の行方を探す少年の小さな背中だけだった。

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