ホラーハウスⅢ
壁掛け時計の秒針の進む音がして、あたしは目を開けた。気づけば夕暮れになっていたようで、あたしと彼女はベッドの上で寄り添って眠ってしまっていたみたいだった。琴音(ことね)がルーズリーフの隙間から、すう、すうと安らかな寝息を立てる。彼女の体温が、その呼吸が愛しくて、静かに彼女の頭を撫でる。
そうしているうちに琴音が目を覚ました。少し寝ぼけた様子で、猫のように身体を伸ばす。声にならない欠伸をして、彼女はあたしを眺めた。
「おはよ」と、あたしが彼女の顎を撫でると、彼女はあたしの指を優しく咥えて、そして噛み付いた。微かな痛みが指先に走った。
それからあたしは、琴音を彼女の家まで送った。それじゃあ、またね。と言って、繋いでいた手を離そうとした。しかし、彼女は何か言いたそうにして、あたしを解放してはくれなかった。
あたしは彼女が何か言い出すのを待った。ただひたすらに待った。日が落ち始めて、辺りが暗くなっていく。近くの家の電気がついて、あたしと琴音の顔にその光が落ちる。あたしは彼女に指先を握られたまま、彼女を眺めていた。
「そばにいて」
ただ一言、彼女はあたしに囁いた。ルーズリーフの下の頬が、染まっているような、泣きそうな瞳をしているような、そんな気がした。
何も答えないあたしの指先を、彼女は離そうとする。諦めたような雰囲気と、寂しげな呼吸で、彼女は踵を返そうとする。あたしは彼女の手を強く掴んで、引き寄せて抱きしめた。
あたしは、ホラーハウスに誘われる。彼女に導かれ、その家に入った。
前に何かの本で読んだけれど、ヴァンパイアは家の主の承認がなければ家に入ることができないらしい。あたしは彼女に許可され、初めて彼女の許した場所に足を踏み入れた。
彼女はただ黙ってあたしの前を歩く。あたしは彼女の後ろを黙々とついていった。彼女は玄関に入るとそのまま目の前の階段を上がって、すぐ右側の部屋のドアを開けた。
そこが彼女の部屋のようだった。彼女の傷や痣から、あたしは彼女がどんな過酷な環境で暮らしているのかと常日頃身構えていたけれど、部屋は決して散らかっているわけではなく、むしろ綺麗すぎる程に片付いていた。白い家具で揃えられた、青い天井とラグの部屋はなんだか空を想起させた。白いベッドにはレースの天蓋がついており、ここが彼女の城であり、同時に鳥籠であるのだと思う。
彼女は部屋の扉を閉めると「きて」と囁いて、あたしをお姫様みたいなベッドへと導いた。そのまま彼女にゆっくりと押し倒され、唇を奪われる。彼女はあたしの身体に指を這わせ、あたしの服を捲った。冷たい指先がお腹に触れたのがわかった。あたしはその指越しに、見えない彼女の本心を探ろうとした。彼女は急いでいるように見えた。触れた指が、微かに震えているのがわかる。
「怖いの?」
縋る彼女からゆっくりと身体を離し、その目のあたりをじっと見上げる。
「うん、怖いの」
彼女はあたしの手を取って、その滑らかな髪を撫でさせた。あたしは彼女の思うがままに、その愛らしい毛先とか、綺麗な頭の形をなぞった。
あたしは彼女のその震える指先をとって、それにキスをした。すると琴音は安堵したように笑った。「おいで」と言うと、彼女があたしの腕の中に飛び込んでくる。あたしは彼女をゆっくりと寝かせて、その頬や、髪や、肌を撫でた。すると彼女は嬉しそうに息を吐く。
彼女の服を捲った。彼女はその柔らかい手をシーツの上に投げ出してあたしを眺めてた。あたしが彼女に微笑みかけると、彼女もまた少し笑う。
月明かりの下で、あたしは彼女のお腹の傷や、痣や、煙草でつけられたであろう跡を眺めた。じっくりと観察するように、目に焼き付けるように。すると、琴音は微かに身を捩らせる。
「嫌?」あたしが尋ねると、彼女は首を振った。あたしは琴音の印に触れる。ゆっくりと指先でその感触を覚えようとなぞって、そして撫でる。その度に琴音は苦しそうに息を吐いた。
「嫌ならやめるよ」あたしは何度も言ったけれど、彼女は聞かなかった。やがてあたしは彼女の印を指先でなぞり終え、その印達に唇を這わせて、口付けた。琴音の手が震えていた。あたしは怖くて泣き出しそうだった。
琴音は「やめないで」と泣いた。だからあたしもどうしたらいいかわからなくなって、それでも彼女の肌をなぞった。
彼女は自分の顔を両手で覆って声を殺して泣きじゃくっていた。その儚げで無垢で、そして可愛い姿を見下ろしてあたしは言った。「ごめんね」罪悪感でいっぱいだった。胸が押し潰されそうだった。彼女はふるふると首を振る。「違うの」とそれだけ呟いて、あたしを見た。あたしは彼女の息が整うまで彼女の頭を撫で続ける。やがて彼女は安心したのか、また声を漏らして泣いた。
「あたし、嬉しいの。あなたがここにいることが。あたしの印を覚えていてくれることが。あたし、あなたに触れられるだけで、こんなにも幸せなの。だから悲しくて、薺(なずな)のいる未来を夢見ちゃうの」
それは、あたしだって一緒だった。声を上げてわんわん泣き喚く彼女を眺めていると、ああ、ここで泣いたらあたしすっごく狡いよなあ、なんて思って、でもそれでも、堪えきれずに泣いた。あたしの頬を、ぽろぽろと大粒の涙が伝って、そしたらまた彼女が身を捩って、顔を押さえて泣く。もう何がなんだかわからなくなって、しっちゃかめっちゃかに泣いた。
あたしと彼女は抱きしめ合って、そうしてるうちになんだかもう、この世の全てが、あなたとあたし以外の全てのことが恐ろしくなって泣き喚いた。お互いを抱きしめる力が強くなって、縋るように彼女の背中をさ迷って、腕が痺れる。
そうしてふたりで、さんざっぱら泣いた後、あたしたちは見つめあう。お互いの泣き腫らした顔を見て、また笑った。くすくす笑い合っていると、がちゃり、と鍵の開く音がした。琴音はびくりと肩を震わせる。「ごめんなさい」と彼女は俯いた。
「帰ってきた。ごめんね、薺」彼女は諦めたようにあたしを見つめ、あたしの手を取る。琴音はウォークインクローゼットの白い扉を開けて、その中に乱暴にあたしを放り込んだ。そして、彼女は笑った。「じゃあね」と。
あたしは、これが最後になるような気がした。
「やだ! 行かないで」
「お願い、ここにいて。大丈夫。薺は心配要らない」
彼女の姿が今日はとても頼もしく見えた。それと同時に寂しくて、仕方がなかった。ああ、あたし、また間違ったのかな。
にこりと微笑んだ琴音を見て、あたしはまた泣く。
そして、強引に袖で涙を拭った後、決めた。
あたしは彼女を引き寄せた。え、と彼女が小さく声を上げる。あたしはそのまま彼女をクローゼットの中に一緒に引きずり込んで、扉を閉めた。がたん、と彼女の体勢が崩れる音が響く。あたしの悪手は、猶予を縮めてしまったかもしれなかった。あたしは自分の不甲斐なさを痛感した。
「何するの、離して」
彼女があたしに肩を抱かれたまま身を捩る。
「そばにいて、って君が言ったんだよ」
苦し紛れの言い訳だった。あたしの言葉に琴音は失望したかもしれなかった。もう絶交しちゃうかもしれなかった。あたしは彼女の父親よりも、彼女にどう思われたかを恐れながら、彼女の言葉を待った。
彼女は静かに抵抗を止める。そして暫くあたしに背を向けていたが、ふと振り返って、あたしに正面から抱きついた。それだけであたしは泣きそうだった。
彼女の肩を抱いて、その柔らかな髪を撫でながら寄り添う。琴音はあたしの腕の中で静かに呼吸をして、さめざめ泣いた。がたがたと、階下から乱暴な足音が聞こえる。
「琴音! 琴音どこだ!」叫び声が聞こえて、彼女があたしの腕の中で震えた。あたしは彼女を強く抱きしめる。ガラスの割れる音が階下から響いた。
「ねぇ」彼女が囁く。
「自分に近づいてくる足音が、怖いと思ったことある?」
と、彼女は泣きながら笑った。
「あたしはね、ずっと怖かった。あいつが今どこにいるのかずっと足音で探ってた。そしてそれが少しでもあたしの気配を察知すると、あたしはすぐさま息を潜めた。でもその足音はどんどん近づいてくる。あたしは、逃げたくて仕方ないのに、足が上手く動かないから凍えたままそれを待つの、そして過ぎ去るのを待つの」
彼女は息を乱しながらあたしにしがみつく。そうしている間に、その足音が階段を上ってくるのがわかった。あたしと琴音は強く抱きしめあった。
「あたし毎日怖かった。でもね、あなたがいたから生きてこられたの。あたしのこと全部忘れていいから、それだけ覚えてて」
彼女はあたしの腕の中で震えながら笑う。そして、彼女は自分のルーズリーフをぺらりと捲った。その時、部屋のドアが開いた。
琴音は綺麗な丸い瞳から絶え間なく涙を流しながら、笑った。真っ赤な鼻と瞳が可愛くて、あたしは泣いた。かたかたと歯が震えて、でも彼女はもう、これ以上ないってくらいの笑顔で笑って、あたしにキスをする。
「あたしと戦ってくれてありがとう」
彼女はクローゼットの扉を開けた。
「さよなら」
彼女はあたしに背を向けて、クローゼットの外へ飛び出していった。
ことね、と呟くあたしの声は男の怒号にかき消された。ごめんなさい、ごめんなさい、と彼女の弱々しく怯えきった声が聞こえて、あたしは思わず耳を塞いだ。言葉にならない低く唸る煩い怒号が聞こえて、それからドゴッと、殴りつける音が聞こえて、彼女が倒れ込む。男は彼女に跨って、その顔を何度も、何度も、殴りつけた。
ごめんなさい、ごめんなさい。と、あたしは絶えず呟き続けていた。クローゼットの中で腰を抜かしたまま、ごめんなさい、ごめんなさい。と謝る。あなたの死を、受け入れられなくて、ごめんなさい。琴音の、やめて、やめて、という声と、嗚咽と、小さな悲鳴が聞こえた。
クローゼットの隙間から、白く尖った鼻先が見えた。やがてそれはスローモーションのように抉られて変形する。だらりと赤い血が彼女の鼻先を濡らして、殴られると鈍く汚れていく。琴音の頭が、床に打ち付けられて、跳ね返る。虚ろな目が、あたしを見ている。目が合った。彼女の口角が、ゆっくりと歪に柔くなって、微笑む。
その時ぷつり、と何かが切れる音がした。それは、琴音の血管が切れた音でもなく、男の頸動脈が掻っ切られる音でもなかった。耳に確かに響いたそれは、他ならないあたしの内側の音だ。何かが、あたしの中のなにかが変わる音。
もう、なにもかもすべてがどうでもよく思えていた。今ならあたしは、琴音の為になんだってできる気がした。あたしはクローゼットに手をかける。怖いものなんか、もうこれ以上どこにもない気がした。
あたしはクローゼットの中から飛び出して、弱々しく抗うだけの彼女を抱きしめた。男はあたしを怒鳴りつける。けれどあたしは構わず彼女を庇う。薺! と琴音が泣きながらあたしの名を呼ぶ、あたしは男を引き剥がして、殴りつけて、蹴って、そしてよろめいたそいつを振り払って、琴音の上に覆いかぶさった。彼女のルーズリーフが、ばらばらに破けてしまっていた。彼女は両目から涙を流しながら、眉を寄せて首を振った。お願い、薺やめて、彼女の懇願する声が聞こえた。あたしは後ろから強く蹴り付けられて、倒れる。それから、なんか、ずっと顔とか足とか腹とか、色んなところを殴られて、それを横たわったまま琴音が見てて、やめてやめてと彼女は泣きながら、顔を手で覆っていた。片目が見えなくなって、そして次に顔を殴られた時に、耳も聞こえなくなる。そしてあたしはただ床に倒れ込んで、泣いてる彼女に笑った。大丈夫だよ。そこであたしの意識は潰えた。
次に目を覚ました時、まだ世界は続いていた。あたしは鈍い痛みの中で目を覚まして、片目を開いた。知らない天井。あたしはゆっくりと横を見て、そこに彼女が転がってるのを見つける。痛む身体で寝返りをうって、あたしは彼女を眺めた。彼女は頬とか目とか、色んなところを腫らしていた。目尻には涙の軌跡ができている。
「ことね」
彼女の名を呼ぶ。しかし彼女は答えない。あたしの頭の中に今までの悪夢が蘇る。それを振り払って、あたしは祈るような想いで名前を呼ぶ。琴音、と。
やがて彼女はゆっくりとその目を開き、暫く呆然と宙を眺めた後で、横にあたしが居ることに気づく。彼女は安堵して、泣いて、笑った。
ああ、よかった。とあたしも思った。あなたがまだ生きていて、よかった。ほんとうによかった。あたしは思わず微笑んだ。すると、琴音は両目から涙を零す。
あたしたちはもう虫の息になりながら、ただお互いの距離を縮めるために身体を引きずった。そして、目の前にある腫れ上がった頬と、流れる涙と、赤くなった鼻を確かめ合いながら、顔を寄せる。
「よかった、生きてた」
「ごめんなさい」
彼女はぽろぽろと涙を流しながら謝罪した。謝らなければいけないのは、どう考えてもあたしの方だった。
「どうして謝るの」
「巻き込まなくてもいいことに、巻き込んでしまったから」
あたしの胸にぐりぐりと頭を押しつけながら、彼女はしわくちゃに泣く。
「飛び込んだのはあたしの方。だから琴音は謝らなくていいの。それよりも、あたしの方が謝りたいくらい」
彼女が「なんで?」とあたしを見る。その問いにあたしは暫く考え込んで、黙り込む。言うか言わないか、逡巡する。でも、きっとまだ世界は終わらないだろうから、あたしは彼女に伝えてみることにした。いつか忘れてしまう彼女に。
「あたしが、あなたに生きることを強要したから」そう言って笑うと、あたしは自分の不甲斐なさが、自分勝手さが、強引さが、ずるくて泣いた。すると彼女は泣き喚くあたしの頬を撫でた。
「あたしに生きることを、望んでくれたの?」
あたしはそこではたと気づく。もっと早く、君が生きているうちに、生きていて欲しいと、伝えられていたら。未来は、変わったのかな。
琴音はあたしを抱きしめた。温かい温度と、彼女の匂いに、涙が出た。そうしているうちに安堵して、恐怖して、あたしは眠る。つう、と意識の糸を裏側から引っ張られながら。
目を覚ましたあたしはパイプ椅子に腰掛けていた。目の前には長机が二つ並んでおり、あたしは煌々と照りつけるライトに照らされていた。
何も見えない暗闇に、ぼうっと浮かび上がるのは円環に座ったヒビだった。
「おかえり」
彼はあたしの前のパイプ椅子には座らずに、円環の上で足を組んでいた。ふてぶてしく目を逸らして、拗ねている。だから、あたしはわざと言ってみた。
「ああ、なんだ。終わんなかったんだ」
事情聴取みたいなライトに目を細めながら、あたしはけらけら笑った。しかし彼はあたしのおふざけには付き合わず、じっとりした瞳であたしを見つめた後、ため息をついた。
「君が死んだらダメじゃないか」
彼はくるりと巻かれた漆黒の前髪を指で引っ張りながら肩を落とす。呆れとも慰めともつかない声が、なんだか弱弱しくて、可愛く思えた。絵に描いたような落胆した様子に、あたしは思い切って聞いてみることにした。
「やっぱり、あたしが死んだらダメなんだ。このゲームは。どんなに幸福だと思っても、あたしが死んだら、ゲームオーバー。そういうこと?」
彼はけだるそうに顔を上げた。忌々しい目であたしを睨んで、それから開き直る。
「ああ、そうだよ」
ああ、そっか。あっけらかんと呟きながら、あたしはパイプ椅子の上で足を組む。黒いスーツの裾が引っ張られて、つんつるてんになる。呑気に頭の後ろで手を組みながら、天井のない部屋の星空を眺めると、その景色がじわっと滲んで上手く見えなくなっていく。
「あれじゃ幸福って、言えないのかな」
両方の腕で顔を覆いながら、あたしは独り言ちる。澄み切った寒空に、心もとない声が吸い込まれていく。彼はあたしをちらりと見て、それから顎に手を当てて言った。
「人間にとって幸福が、ひとそれぞれ多種多様にあるってことくらいは、僕もわかる。……君の定義する幸福を、彼女が良しとするのなら、それを僕は覆せない」
「どういうこと?」
あたしの顔を見て、ヒビは眉を顰めた。
「人ならざるものになっていく彼女の望みに、君がもし、答えることができて、彼女が君をあっちに連れていこうとするなら、僕はそれを止められない」
ヒビはあたしから目線を外し、何かを考え込むように部屋の隅を眺めた。あたしはその言葉をゆっくりと噛み砕いた後で聞いた。
「幽霊になっちゃったあの子があたしを連れていこうとしたら、あなたはそれを止められないってこと?」すると、彼はこくりと頷いた。
「いくら神でも、そして神の使者でも、そうなってしまったものの意思に抗うことはできない」
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