ホラーハウスⅡ

朝、夏期講習の為に学校に行くと、後ろの席に彼女はいなかった。あたしはその時、背中の芯がずうん、と沈むような心地がして、と同時に心臓が忙しなく動いているのがわかった。あたしは焦る。頭の中でたくさんの情報を整理していた時、一限が始まって、あたしは仕方なく講義を受けた。

しかし、彼女は一限が終わっても、二限が始まっても現れなかった。講習の担当の先生が「誰か鳳(おおとり)さんを見かけたひとは?」とクラスに聞いていたけれど、誰も知るはずがない。ただひとり、あたしを覗いては。


クソ! あたしは頭を掻きむしる。またあたしは、やらかしたのだ。彼女との甘い逢瀬に溺れてあたしはこの時が来るのを忘れてた。情けない。講義が終わるとあたしは真っ先に教室を飛び出して、彼女が待っている場所へと向かう。走りながらあたしは前回の記憶を呼び起こした。こんなに甘い日々を過ごしたのは初めてだったので記憶に騙された! あたしはこれを、前にも見てたはずなのに。


あのY字路に辿り着いて、あたしはそのまま右へ曲がらず直進した。目指すは、彼女の家だった。ここの角から十五軒目の、薄いピンクの壁の家。緩やかな上り坂を駆け抜けて、あたしはすぐに彼女の家に辿り着く。膝に手をついて、少しだけ息を整えてから表札の名前を確認した。少し迷ったあと、玄関のドアに手を掛けた。その感触に、嫌悪を覚えると同時に薄く笑みが零れる。玄関に鍵はかかっていなくて、引けばかちゃり、と簡単に開く。

あたしはあの家へと誘われる。初めて上がった彼女の家は、しんと静まり返っていた。父親が夜にならなければ帰ってこないことくらいは、あたしも知っていた。

わからない。数々のループであたしはこの家に入り込んでいるのかもしれないけれど、その記憶だけがすっぽり抜け落ちていた。いずれにせよ、重苦しく不気味なこの家に入り込んで、慣れることなんてないのだろう。

彼女の家の作りはあたしの家の作りと似ていて、玄関を入ってすぐに二階へと続く階段があった。でも、あたしは彼女が二階にいるとは思えなかった。だから一階から見ていくことにした。


もしかしたら、あたしはもう、彼女の死の気配を敏感に読み取れるようになってしまったのかもしれない。自分の直感の鋭さと、要らない力の覚醒にあたしは力なく笑った。あたしは導かれるままにキッチンへと向かう。すると、神様が『正解だ』と言わんばかりに、彼女はそこで眠りについていた。

「ごめんね、遅くなって」

あたしは彼女に歩み寄る。彼女はもう既に青くなって冷えきっているみたいだった。

彼女は白いワンピースを着ていた。いつか一緒に水族館に行った時に着ていたワンピースだった。懐かしさと寂しさが込み上げて、目頭が痛い。彼女の遺体は比較的綺麗だった。かつて殺人鬼に身体をバラバラにされたり、ぐちゃぐちゃになるまで彼氏に顔を殴られたりした彼女の、あんなにも美しい死に姿を、あたしは初めて見た。

白いワンピースを纏った彼女の腹には包丁が刺さっていて、そこから血が溢れていた。しかし、抵抗した形跡は見られず、彼女はその美しい指先を腹の上で静かに組んでいる。あたしが彼女の遺体の状況を確認していると、はら、とルーズリーフが彼女の顔から落ちるのが見えた。あたしは、静かにそれを捲った。

もう、無理だった。どうしてルーズリーフが捲れたのかあたしにはてんでわからなかったけれど、眠るようなその美しい表情にあたしは泣いた。初めて見たあなたの顔は、想像していたよりもずっとずっと綺麗で、その何も言わない寡黙な表情が、寂しくて仕方がなかった。静かに閉じられた瞳。長い睫毛。形のいい頬。つん、と尖っていて、それでいて小鼻が平べったいかわいい鼻先。綺麗だったピンク色の唇は、今はもう青白く染まってしまっている。

「どうして」

彼女の遺体が、殺害された後に動かされたのは明白だった。琴音に、抵抗した形跡は見られなかった。彼女と彼女の父親にいったい何があったか、それはあたしの知るところではない。知るところではなかったけれど。父親の犯行に、彼女は決して抗わなかった。彼女はそれを、その慈愛に満ちた表情で受け入れたのだ。

そして彼女の父親は、彼女を殺害した後で、だらしなく開いたままのがらんどうの瞳を閉じさせ、投げ出された白い指を腹の上で握らせた。

まるで祈りを捧げるかのように。

どうしてとあたしは思う。殺した後で、こんなにも彼女に敬意を払った行動ができるのに、どうして彼女を殺したんですか。どうしたら彼女を殺さずに済んだんですか。

あたしは彼女の黒く滑らかな髪を指で掬い、それに口付けた。ぽろぽろと涙が零れて、彼女の美しい鼻先を濡らした。

「望んで殺されたの? 琴音」

あたしの問いに、彼女は答えなかった。

「薺」

彼があたしの名を呼んだ。気づけば彼は傍らのダイニングチェアに座って、食卓についていた。彼はあたしと、彼女の死体を見ている。

「もう、終わりにする?」

彼は寂しげに呟く。今回の繰り返しを見守っていた彼は、この結末を冷静に分析していたようだった。やがて、彼は審判を下すように告げる。

「今回のループで、彼女が思い残したことって、実は無いんだ」

彼はあたしに何かを諭そうとするみたいに、穏やかに語り聞かせた。

「彼女は、大好きだった君と毎日一緒にいられて、可愛い子供の戯言みたいに、無邪気なままで結ばれて、父親を受け入れて、そして彼に望まれながら死んだんだ」

そう言うと、彼は黙り込んだ。それはあたしがこの事実を受け入れる為の時間みたいに思えた。視界の隅で、あたしの反応を伺っている。俯いたまま何も答えないあたしを、正面からじっと見つめて彼は言う。

「彼女は今回、今までの旅の中で一番幸福だった。どうする? 薺」

すべては君の手中にあるよ、と囁いて、彼はあたしの判決を待った。嘘つき。あたしの手の中に何もないことを、こいつは知ってるくせに。全部あんたの手の中にあるくせに。狡いやつめ。でも。

「ヒビ」

あたしは彼の名を呼んだ。彼は心底驚いた様子で顔を上げる。まさか名前を呼ばれるなんて、思ってもみなかったのだろう。

「残念だけどあたしは、この結末を受け入れられない。だからあたしを、もう一回、戻して」

彼の顔を眺めて力なく笑う。彼は少し驚いて、それから優しく目を細めた後で、

「わかったよ」と目を閉じる。

パチン、と左の手を頭上に掲げて彼は指を鳴らす。すると、いつものようにあたしの足場は崩れた。風が吹いてルーズリーフが飛んだ。あたしは彼女の青白い、安らかな美しい顔を目に焼き付けた。忘れてしまうのかもしれないけれど、忘れたくなかったから。

「次こそは、健闘を」

お決まりの台詞を吐いて彼はあたしを見下ろした。その表情はなんだか優しく思えた。けれど、もしかしたら、思い過ごしなのかもしれない。つう、と意識の糸を引っ張られるように、深く、深く、眠る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る