ホラーハウスⅠ

その夏をもう、何度繰り返したかわからなかった。10回目のループを終えた時、あたしはこの終わらないゲームに涙して、惨い彼女の死体と、その命の尊厳を踏みにじるような殺害の数々に胃が空っぽになるまで吐いた。ひりつく喉を押さえ、円環の上に座る彼を見上げる。すると彼は「済んだ?」と冷たい瞳であたしをあしらった。


50回目を越えた時、あたしの身体に不調が現れ始めた。いつも通り授業を受けていたら、つう、と鼻先から血が零れる。頭の中がぼうっとしはじめて、彼に糸を引かれてるわけでもないのに眠くなる。度重なる彼女の死によるストレスと、それを回避するために巻き起こるあたしの犠牲は、あたしの身体と心を間違いなく蝕んでいったみたいだった。朝ごはんを見るだけで吐き気がした。彼女の柔らかな気配に触れる度、その凄惨な死を思って泣いた。あたしはトイレで人知れず何度も吐き続けた。


そして100回目を越えた時、あたしの陰惨で、重苦しい血の儀式は終わる。めっきり生理が来なくなったのだ。ループをしていても、月日に従って生活をしていることに変わりは無かったので、月の同じような日になればそれは現れた。それがいつからか、ふっと身体が軽くなったように、重たい頭痛も下腹部の痛みも消え去った。女に生理がなくなればこうも簡単に生活ができることにあたしは驚き、それを最初は不審に思ったけれど、あたしにとって生理のあるなしはもうどうでもよかったし、何より彼女を助けられなければ意味がなかった。


それからの記憶は、今はもうあんまりない。どんな日々を送ってどんな生活をしたか、そういうことはほとんど覚えてない。重要だったのは、この蜜月の中で彼女とどんな話をして、どんな秘密を分かちあったか、ただそれだけ。そして忘れてはならないのが、物語の伏線についてだった。彼女がどこで、どんな風に、誰に殺されたか、あたしはそれを明確に記憶して、遠ざける必要があったからだ。それから、あたしと彼女の、どの言動が彼女の死のトリガーになったか。それを記憶して、次に活かす。あたしの記憶は瞬く間に蓄積されていった。最初の頃、彼はあたしの心を気遣ってかあたしの記憶を消してくれていた。真新しいゲームで、新しい死を目撃した。その度に、新鮮な痛みと苦しみが伴った。彼があたしに掛けた魔法は、その死に向き合って初めて解ける。彼女を失ってやっと戻ってくる記憶に、あたしはいつも後悔していた。だから、あたしは彼に頼み込んで、記憶を継続させるようになった。でもそれも、もう無理そうだった。度重なる死は、幾度となる喪失は、あたしの頭で処理できる容量を越え、どれがどのループの記憶だったか、今はもう定かではない。回避できるはずの伏線も、塗り重ねた記憶に上書きされて、よくわからなくなっていた。

そんなあたしを見て彼女は言った。

「ねぇ。薺(なずな)って、そんな目をしてたっけ」

あたしはどんどん、化け物になっていった。


それは蒸し暑い夏のことだった。夏休みに入った学校は、夏期講習や部活のために開放されていたが、ほとんどの生徒はそのどちらもなく平穏な休暇に突入していたので、学校はひどく閑散としていて、生徒達のいるこの教室だけが、違う世界から誰もいない空っぽの場所に迷い込んでしまったように思えた。

夏休みに入る直前、家に帰らずに寄り道して、公園で溶けかけたソーダアイスを貪るあたしに琴音(ことね)は言った。

「夏休み、家にいたくないの」

俯く顔にはぺらりとルーズリーフが揺れていて、彼女の顔は全く見えなかったけれど、あたしに何かして欲しそうな空気を放っている。

あたしは食べかけのアイスから口を離した。冷たいソーダ味が、舌をひりひりさせて上手く喋れない。

「きみが」

舌っ足らずな口ぶりが恥ずかしくなる。あたしは真っ青に染まった舌に力を込めた。

「君がそうしたいと思ってくれるなら、あたしの家にいてくれても構わないし、一緒に夏期講習受けるってのも手だよ。休み前のテスト、赤点取ってあげる」

得意げに目配せすると、彼女がぱあっと表情を明るくしたのがわかった。もっとも、ルーズリーフをしていたから本当の表情はわからないけれど、あたしにはそう見えた。いや、見えたんじゃなくて、絶対そういう顔をしてた。


かくかくしかじかで、あたしと彼女は揃って意図的に答案を間違えて、夏期講習に出ていた。夏休みの教室には蝉の声が聞こえていて、体育館の屋根には陽炎が揺れている。教壇の横で扇風機が回っていたが、結局それは生ぬるい空気を循環させるだけでなんの意味も成さなかった。

テキストを回す時、彼女を振り返る。今日の暑さはさすがに彼女でも堪えたのか、珍しく髪の毛を後ろで縛っていた。一番後ろの席の彼女のうなじは、基本的に誰にも見られることがなかったけれど、あたしだけがその首筋に赤い跡がついていたのを知っている。

あんなに楽しみにしていた夏期講習も、殆どは午前中で終わってしまって、あたしと琴音は時間を持て余していた。制服を着たままのあたしたちは公園で水遊びをして遊んだり、コンビニでアイスを買って食べたりした。でもそれも、夕方を過ぎればいったん幕を閉じる。刻々と近づくその時間に、彼女は笑っていながらも、どこか落ち着かない様子でいた。どんな素敵なお芝居でも、ふとした瞬間に、我に返って終わりが来ることを思い出すように、彼女はあたしとの遊びに身が入らなくなっていく。あたしは、すこしでもその現実を忘れて欲しくて、あの家から匿うように琴音を自分の部屋に招き入れた。


初めて彼女が家に来た時、あたしの母は買い物に出かけていて、家には誰もいなかった。あたしは琴音を自分の部屋に案内し、ちょっと待ってて、と声を掛けて冷蔵庫で冷やした麦茶を持ってきた。

部屋に戻ると、緊張していたのか彼女はぴん、と背筋を張って、おまけに貼り付けたルーズリーフもぴん、と張って、正座してあたしを待っていた。あたしはそれが面白くて笑った。

「寛いでいいよ」

彼女は固まっていた足をゆっくりと崩す。あたしと琴音は麦茶を飲んで、お菓子を食べて、それからちょっと気恥ずかしくてそわそわしてしまって、本棚にあった漫画を適当に紹介したり、机の上にあった文房具やぬいぐるみを、彼女がかわいいと笑ってくれたりした。それでも、あたしと彼女の間に流れる空気はなんだか、おかしかった。

そういえば、制服を脱いでなかった。あたしはふと思って、胡座をかいた足を崩す。制服のスカートには皺がついていて、組んだ足の間は汗で蒸れていた。

「ごめん、ちょっと制服脱いでもいい? 忘れてた」

あたしはなんの気なしに断って、しゅるり、とスカーフを取る。すると彼女は「え?」と固まって、あたしから目を逸らした。

あ。と、その時あたしは確信した。確信というか、直感でわかってしまった。この居心地の悪さが、あたしだけではなかったことに。

どうするべきか考えて、そしてあたしは足りない頭で答えを導いた。彼女があたしの家に来てから、何かがすこし、狂ってしまったように、ちょっとだけおかしかった。そのおかしさを解決する術を、あたしは知っている気がした。

スカーフを床に置いて、あたしは彼女に微笑みかける。「琴音」と静かに名前を呼ぶと、彼女は小さく肩を震わせる。それが動揺だったのか、怯えだったのか、あたしにはわからなかった。

はち切れそうな心臓の音を隠して、努めて冷静に振る舞った。逸らした彼女の、ルーズリーフの貼られた顔に、あたしは尋ねる。

「くる?」

ただひとこと、それだけ。それからあたしは彼女を待った。とくん、とくんと静かに震える心音が身体の奥に響いて、沈黙がやけに長く思えた。

視線の先で、彼女のルーズリーフが波打っている。それはまるで、海神が震わせる美しい波のような動きだった。彼女はあたしを、ぼうっと眺めて、やがて泣き出しそうな空気を抱えたまま、勢いよくあたしに飛びついてきた。

琴音があたしの腕の中に飛び込んでくる。それをあたしは予期していなくて、目を丸くして彼女を抱きしめたまま床に倒れ込んだ。倒れたあたしの左の腕が、ひんやり冷たいフローリングの上に投げ出される。青く浮かぶあたしの血管。琴音のあったかい息と、涙の気配が、あたしの胸に乗っかっている。この時間が、永遠ならいいのに。

それから、起き上がったあたしと彼女はどちらともなく手を取り合って、頬を寄せた。あ、キスするんだ、って思った。思ったけれど、あたしにはやっぱりルーズリーフしか見えていなかったから、躊躇った。あたしの様子を見て彼女も動揺したのか顔を背ける。

彼女はあたしの指を取り、弄ぶ。そして、その指先を、彼女の制服の中へと誘った。あたしは彼女をゆっくりと押し倒して、その制服の中の肌を撫でた。白くて滑らかな肌は、砂丘をさ迷うみたいに楽しかった。

彼女に導かれるまま、あたしは彼女の制服を捲る。あたしは染められたそのキャンバスに息を呑んだ。

「薺」彼女が切なげにあたしの名を呼ぶ。

彼女の瞳を、あたしが瞳だと思う場所を見下ろして、あたしは彼女を安心させたくて微笑む。彼女の身体に描かれたいくつもの傷跡を、その生きてきた時間の痕跡と、物語の実存を、あたしは指でなぞった。すると彼女は不安そうに顔を逸らす。

「あたしを、醜いと思う?」

「ううん、絶対に思わない」

あたしは彼女の指に口付けた。その指先を自分の方に誘って、その白く美しい手のひらに、頬を寄せた。ルーズリーフが、漣のように小さく脈打ちながら揺れていく。彼女の顔に大きく描かれた×印が、少しずつ消えていくのがわかった。

「ありがとう」

彼女は泣いた。あたしは彼女の身体を起こして抱きしめる。×印の消えた顔に、どちらともなく口付けた。


それからあたしたちは、午前中は制服を着て夏期講習へ行った。午後、寄り道をして、アイスを食べて、ブランコを漕いだりして遊んだ。そして、ふたりの秘密のままごとをするように、彼女をあたしの部屋へと案内した。

あたしたちは秘密の遊戯に勤しんだ。彼女の制服の下に現れる、あらゆる歴史と、彼女自身の美しい心を撫でるように、あたしは塗りつぶされた地図の上を真新しい気持ちで歩き回った。その度彼女はくすぐったそうにしながら嬉しそうに泣いた。反対に、彼女があたしの誰も触れたことのない未開の地図を探検することもあった。地図の上を探検することに、彼女は長けていて、あたしはその事実を認めたくなくて、はしゃいでは、何も知らない子供の振りをした。

感じたことのない感触にあたしは小さく叫んで、あたしの反応に彼女は怯えたように怖がって、ごめんね、と謝る。でも、あたしは驚きと同じくらいにそれが楽しくて、面白くなってつい笑う。

琴音は意味がわからなそうな顔をしてた。それがますますあたしを笑わせて、あたしは彼女の肩をとんとん叩きながら「続けてよ」と笑う。すると、彼女は瞳に涙を溜めて大笑いしたあと、あたしを抱きしめて「だいすき」と呟く。その時あたしもなんだか泣きそうになって、必死に堪えた。

くる日も、くる日も、あたしは彼女との蜜月を謳歌した。毎日はそれの繰り返しで、けれどあたしは飽きることなく、むしろいつも新鮮な気持ちで彼女が差し出した地図の上を歩いていた。あたしは毎日、幸福で仕方なかった。

自分の本来の目的を見失っていた。そんなあたしに天罰が下るように、それは訪れた。

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