あなたがあたしを好きじゃなくてもⅢ
それから程なくして、街はバレンタインの季節になった。家で雑誌をぺらぺらと捲っていると、携帯が小さく音を立てて鳴った。それは琴音(ことね)からのメッセージだった。『突然ごめんなさい。薺に会いたくなっちゃって、少しだけでいいので、時間を作って欲しいです』単純にそんなことを言われてしまうと、あたしも馬鹿なので無碍になんか出来なかった。男が理由でも、そんな風にあたしを求めてくれるなら、構わないと思った。
彼女が暮らすマンション近くの公園に来て欲しいと言われた。だからあたしは茶色いタートルネックの上に白いダウンジャケットを着込んで出かける。吐き出す息が白かった。
指定された公園へ行くと、ベンチに座ったピンク色のファーコートと、栗色の髪が見えた。俯いているのか、微かに白い項が見えた。
「琴音?」と、あたしは彼女に声を掛けた。
次の瞬間、あたしは思わず息を呑んだ。彼女の顔のルーズリーフの下半分が破かれていたのだ。
「来てくれて、ありがとう。薺(なずな)」
彼女は顔をあげた。薄いピンクの唇をきゅっとあげて笑ったのがわかった。そして、そのルーズリーフの失われた下半分から、青く腫れ上がった頬が覗いていた。
二月の公園のベンチは身体の芯に来るほど冷え込んでいて、背中に震えが走った。琴音は俯いたままで、暫く何も言わなかった。だからあたしは、投げ出された彼女の冷たい指先を握る。すこし笑って、彼女は口を開く。
「どうして薺を呼び出したか、わかったでしょう」
「うん。その傷が、あの頃のものじゃないってことくらい、あたしにでもわかる」
「流石、話が早くて助かる」
琴音はけたけたと得意げに笑ってみせた。普段は見えない形のいいピンク色の唇が見えて、彼女はこんなに綺麗な唇をしてたのか、としみじみ思う。
「暴力を受けてるの?」
「うん」
あたしは努めて冷静に尋ねる。あっけらかんとした様子で彼女も答えた。
……暴力は、と彼女は静かに呟いて、そっと息を吸った。
「暴力は慣れっこだから、別にいいんだけど。でも、なんだか、ここまで来ちゃうと、もうあたしがその為だけに生まれてきたんじゃないかって思う」
「その為?」
「誰かのサンドバッグになるために」
彼女は空を眺めて、そしてからからと笑った。寂しそうで、けれどどこか溌剌とした空気は、あの頃と何も変わらないように思えた。
そんなことないよ、と言いたくなる。でもそんな言葉が、もう彼女になんの意味も成さないような気がして、あたしは黙り込む。
「ねぇ、琴音」
代わりにあたしは呼びかけた。
「あたしにどうして欲しい?」
アドバイスをするでなく忠告するでなく、端的にあたしはそう尋ねた。すると彼女は神妙な面持ちになる。
「あいつを殺して、って言ったら、一緒に殺してくれる?」
「うん、いいよ」
即答すると、彼女は吹き出して笑った。かっはっは、と不思議な響きの笑い声が木霊する。
「冗談だよ」
彼女は笑う。腫れ上がった頬に、ほとり、と光の筋が流れるのがわかった。
「あなただけは何も変わらず、あたしの騎士でいて」
答える代わりに手を握って、もちろん。と心の中で誓った。
それから。帰りの電車で電話が鳴って、あたしはそれに出られずに、焦る気持ちを必死に抑えて次の駅を待つ。電車が止まるまでの時間が、どうしようもなく長く感じられた。扉が開いた瞬間、駆け下りたあたしは直ぐに彼女に電話を掛け直した。
ツーツーツー、と繋がる前の不穏な音がして、それからすぐに呼出音が鳴る。一回目のコールで彼女が出た。
「もしもし、琴音? どうし」
『助けて!』
切迫した声で彼女が言う。
『お願い助けて! 薺、今すぐあたしを迎えに来て!』
彼女の声が聞こえるや否や、何かが割れる鋭い音がして、彼女が短く悲鳴を上げた。恐怖に満ちた懇願するような声。小さく息を切らしながら瞳に涙を溜めた彼女を想像した。
「すぐに行く。待ってて」
電話を切ろうとした瞬間、約束だよ。と泣きじゃくる子供のような声が聞こえた。その時あたしはもう、何度目かもわからない決心と、心の準備をしてた。あたしは、間に合うだろうか。
あたしは駆け出した。反対側のホームへと繋がる地下連絡通路を駆け抜けて、そして電車が来るのを待つ。ああ、せめて電話だけでも繋いだままにしておくべきだっただろうか、あたしは逡巡して、そうしているうちに電車が来た。琴音の家の最寄り駅まで、あと三駅。時間がひどくゆっくり感じられた。圏外と、電波の受信をしきりに繰り返す携帯は、鳴らしたくても彼女の電話を鳴らすことができず、あたしはただ祈るようにその四角い箱を胸の前で握りしめることしか出来なかった。そうすることであたしは彼女の無事を、生きていることを、願っていた。
彼女の安全と平穏を確認できない時間はいつも、疎ましかった。時間の感覚が不自然に引き伸ばされたように感じた。あたしはいつもそうだ。彼女が、生きるか死ぬかの瀬戸際をさ迷うとき、あたしは決まって安全なところで、ただこうやって彼女の生を祈るばかり。今この瞬間も彼女は戦っているのに。あたしはいつも、こうやって走って、そして待って、それがもどかしくて仕方がなかった。あなたの力になりたいのに、あたしじゃどうしようもなく、無力だった。
ドアが開いてあたしは一目散に駆け出した。待ってろよ、琴音。今回は絶対、生きて待ってろよ。あたしは猛々しく彼女に呼びかける。急いで改札を駆け抜けて、階段を飛ぶように走り抜けた。
白く染まった雪道をブーツのかかとで勢いよく踏み潰しながら、あたしはさっきの公園を目指す。半分だけルーズリーフが破けて見えた顔。薄くて可愛い唇。形の良い頬。つん、と尖っていて、でもちょっと横に平べったい鼻先。それから上は見えなかったけれど、あたしはもうそれで十分だった。綺麗なあなたの顔が見たい。綺麗なあなたの声が聞きたい。だからそれは、今回は諦めることにする。誰かの為に染まったあなたじゃない、君が見たい。
ルーズリーフの下の彼女の顔を見たら、きっとあたしは納得して、その後すぐに、やっぱりそれが他ならない彼女の顔だったと感動するんだろう。あたしはきっと、あなたの顔のどんな整ったパーツも、ちょっとブサイクにずれた部分だって、それがあなたの顔なら愛することができると思う。でも、どうかその綺麗な顔に、傷は作らないで欲しいし、できればその瞳が、あたしを眺めているともっといい。そして君自身が、あたしの横にいてくれるなら、もうこれ以上ないってくらい完璧。
こんな緊急事態に、あたしはあなたの好きなところばかり考えていた。微かに雪の積もった真っ白な道を、ただ真っ直ぐ駆け抜けていく。それはあたしだけに用意されたステージで、あたしだけに切り開かれた道のようで、なんだか笑ってしまいたくなった。あたしの不甲斐なさを、あたしのどうしようもなさを、笑いたくなる。
走馬灯のように、あの子との時間が頭の中に流れていく。それはいくつもの記憶の断片に、記憶という静止画になって頭を悠々と流れていった。今あたしを支配するこの記憶と感情が、どこからどこまでが現実で、夢だったか。もう思い出せなかった。でも、それで良かった。藁をも掴む思いで、あなたとの日々をやり直したかったから。
気づけばあたしはあの子の部屋の前にいた。はあ、はあと息を切らしながら、その部屋番号を確認した。息を少しだけ整えて、電話をしようかどうか迷う。それからふと、ドアの取っ手に手をかけて、鍵が閉まっていないことに気づく。
あたしがままならなくて、間に合わないのが、いつも不甲斐なくて情けなかった。あたしはもうこのとき予期していた。泣きそうな顔で、そのドアを開ける。きっともうここに彼女がいないことはわかってた。それでもあたしは、手を伸ばす。
短い廊下を抜けて、出たのは小さなリビングだった。廊下から続く白い壁の目隠しが消えた時、あたしは彼女を見つけた。彼女はうつ伏せになったまま、倒れていた。何かで殴られたのか、頭からはたくさんの血が噴き出している。
あたしは、また間違えたのか?
「琴音! 琴音!」
あたしは血の海に膝をついて彼女を揺すった。まだ、間に合うんじゃないかと思った。でも、それがありもしないあたしのエゴでしかないことを、理解していた。
彼女は静かに眠っていた。緩やかに巻いた栗色の髪を血に染めて、彼女はその中に溺れてあたしを待っていた。きっと最後の瞬間まで、あたしが間に合うことを期待して。目の前の男が、人が変わったように自分に優しくなるのを期待して。
「あんた馬鹿だね」
あたしはその、柔らかな栗色の髪を撫でながら言った。冷たくなっていく彼女は、昏々と眠りに落ちていくように、ここではないどこかに沈みこんでいくかのように思われた。ピンク色のファーコート、栗色の髪の毛。そして似合わないミニスカート。好きな男の為に用意された衣装を、あたしは全く好きになれないし、そいつのために変わろうとするあなたを、あたしは煩わしく思うけれど。
「でもあなたの、そのひたむきな努力は認めてあげる」
部屋にはあたしと、彼女。ただそれだけがあって、悲しいけれどあたしは、やっとふたりきりになれたワンルームが、愛しくもあった。
やがて、がちゃりとドアの開く音がして、どす、どす、と重い足音が聞こえた。その持ち主が訝しげにあたしの靴を眺めて、それからリビングへとやってくる。その男の顔を、あたしは見なかったし、見る必要も無いと思った。だからあたしは最後まで、彼女のその可愛くて最高に可哀想な死体をうっとりと眺めて、そして意識が潰えた。
「あーあ、今回はまた酷かったね?」
聞き慣れた少年の声がして、あたしはゆっくりと瞳を開けた。目を開けるとそこは夜の三角原公園のようで、あたしと彼は二人でベンチに座っていた。
月のように輝く円環だけが、彼のいないままくるくると回転している。彼が円環を下りてあたしの近くに来るのは珍しいことなので、あたしは用心した。彼には全部お見通しだったようで、あたしをじっとりと眺めてけらけら笑った。
「なんだよ? 警戒するなって。たまにはいいじゃないか、ひとの世界っていうのも」
楽しげな様子で言うと、彼は立ち上がって目の荒い砂の道を楽しむように散歩した。
「ねぇ薺、君に聞きたいことがある」
大きな赤い瞳を細める。「なあに」とあたしはくたびれた生返事をした。
「今回、彼女は君じゃなく男を取っただろう。それに対して君はどう思った?」
そう尋ねる人ならざる少年は、人間の心がわからない人外ゆえの好奇心と探究心から、あたしにそれを聞いている気がした。
どう、って言われても、とあたしは微かに俯いて黙り込む。少し考えて、答えを出した。
「正直、失望した。もうお前なんか助けてやんない、って思った」
「それで、それで?」
彼は興味津々にあたしに歩み寄った。
「それでも」
あたしは呟く。月の消えた世界で、仮初の遊具と、偽りの景色を構築したこの場所で、月の代わりに鈍く輝く円環を眺めながら。
「それでも、あたしは彼女に手を伸ばす。本当はそばにいてくれたら、寄り添ってくれたらそれが一番いい答えだと思う。でも、もし彼女がそれを選ばなかったとしても、あたしは彼女が生きていて、そしてあの子に未来があれば、もうそれでいい」
あたしの答えに、少年はその大きい瞳を丸くさせ、腹を抱えてけたけた笑う。
「あの子も馬鹿なら、君も大概馬鹿だね! でも、僕はそういう人間の生への執着みたいなの、嫌いじゃないよ」
ひとしきり笑ったあとで「ねぇ、薺」と彼はあたしの名を呼んだ。その表情はどこか寂しげで、でも慈愛に満ちているように見えた。彼に慈愛という心があるのか知らないけれど。
「これは忠告なんだけれど」
長い前置きをして彼は本題に入ろうとしている様子だった。
「君の命の座が揺らいでるんだ」
「どういうこと?」
「死者は命の椅子を譲って逝くと言っただろう。君は今、生と死の狭間にある。だから君は僕とこのゲームに参加できてるんだ。でも、その君の椅子が揺らぐってなると、話は変わる。君はあの子に連れていかれようとしてるよ」
神妙な面持ちで話す彼が、いつもの飄々とした姿とは打って変わって、なんだかしおらしく、ちょっぴり可愛く思えたので、あたしはそんな忠告を笑い飛ばすように言った。
「それをどうにかするのが君の役割なんじゃないの?」
あたしの言葉に彼は面食らったような表情になって、やがて、うん、そう。と歯を見せて笑う。飄々としていながら、いつもより気弱な印象だった。
「だから僕が、君の椅子を支えてる」
だから君は、と彼は続けた。
「あの子の誘いに、決して乗ってはいけないよ」
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