あなたがあたしを好きじゃなくてもⅡ
十月の末、あたしは久しぶりに琴音(ことね)に呼び出されて、近くの喫茶店で彼女を待ち構えていた。
高校を卒業して、別々の大学に進学したあたしたちの会う頻度は、毎日から週一へ、そして今では一ヶ月に一回、二ヶ月に一回と、少しずつ距離が出来てきた頃、琴音から「話したいことがあるの」という連絡が来た。彼女と会うのは一ヶ月ぶりで、逸る心を抑えて必死にコーヒーで流し込もうとした。待ち合わせよりも早く着きすぎたあたしは窓の向こうの喧騒を眺める。
大学生になって、バイトを始めて、お互いの授業内容も変わって、そして何よりも、近くにいても会う頻度がめっきり減ってしまった。会話の内容が少しずつずれて、次第に言いたいことが言えなくなって、なにをどう話すべきかわからなくなる。そういう時、親友って、時間とか隔たりとかそういうものを越えて昔みたいにぎゅっ、と時を巻き戻すように元通りになれるものじゃないみたいだった。少なくともあたしたちはそうだった。それってほんとうは、もっとずっと繊細な割れ物みたいなものだったんじゃないか、とあたしはぼんやり思う。毎日顔を突き合わせていたのに、物理的な距離が離れれば、心の距離も開くのか、とあたしは微かに落胆した。
「お待たせ」鈴の鳴るような声で呟いて、彼女はあたしの前に現れた。あたしは自分の目を疑った。先月までの彼女は、長いスカートと、清楚なブラウスを着て、そして高校時代と同じように長い髪を肩に流していた。それはあたしのよく見知った鳳琴音だった。
なのに、あたしの目の前に現れた彼女の声を持った生き物は、あたしの知ってる彼女とは全く異なる相貌をしていた。
「変、かな」と照れたように頬をかいた彼女の髪は、明るい栗色に染められていて、ふわりとパーマを掛けているようだった。黒いタイツで隠しているものの、普段は絶対に履かないような短いスカートを履いて、ピンク色のジャケットを着ていた。あたしは自分の目が信じられなかった。こんなの、琴音じゃない、と思った。変わっていないのは顔に貼り付けた×印のついたルーズリーフだけだった。
変わりすぎた彼女の容姿と、その照れた様子。そして、普段は絶対に香らない甘い匂いで、あたしはすぐに気づいてしまう。気づきたくもない事実だった。男が出来たんだ。それしかないでしょ。あたしは今まで、こうやって変わってく女子を沢山見てたんだから。
まさか、琴音がそうなるとは、思ってもみなかったけど。
琴音はオレンジジュースを頼んだ。そしてそれが運ばれてきたタイミングで、あたしは彼女が口を開くより先に言葉を紡いだ。
「彼氏ができたの?」
ぴくり、と琴音が肩を震わせた。怯えたような仕草で、あたしは自分の声色が怖くなってしまったことを反省した。優しく彼女を見つめると、彼女は静かに息を吸って、あたしを見る。
「うん。やっぱり薺(なずな)には何でもお見通しだね。今日はその話がしたくて呼んだの」
その言葉で、あたしは目を閉じて心の準備をした。努めて冷静に、激高しないように、温度が下がらないように。自分の心をそっと、冷たい布にくるんで引き出しの中にしまい込んだ。
「いいよ、聞かせて」とあたしが笑って促すと、琴音は、ぱあっと表情を明るくして、あたしにその彼のことを話し始めた。
彼とは、駅前で友達と待ち合わせをしていた時、ナンパされて、最初は迷惑がっていたものの、何度かお茶をするうちに彼女の方から好きになってしまったとのことだった(そんなことが現実で起こるなんてあたしは思いもしなかった)。すっかり変わってしまった彼女の外見は、その彼氏とやらの、茶髪の子が好み、女の子は足を出している方が好き等々、好みによるカスタマイズが施され、こうなったらしかった(あたしがかい摘んで説明しているせいで憎しみの強い感じになってしまった)。琴音とその彼との馴れ初めや、同棲の話を進めている話などを聞かされ、黙って聞いていたあたしに、琴音が一通り自分の報告を終わらせて俯いたところで、やっと喋る番が回ってきた。
「それで」
冷えきったコーヒーを流し込みながら、あたしは呟いた。
「琴音は今幸せ?」
あたしがほんとうに彼女に聞きたかったのは、彼氏との出会いや、そいつの好みでも、あなたたちの未来でもなく、もっと単純で本質的な(そして少々重い)ことだった。
琴音はちらり、とあたしを眺めた後、恥ずかしそうに笑って俯いた。そして表情を綻ばせ「うん、とっても幸せ」と言った。
その言葉で、あたしの身体と心が完全に凍死したのがわかった。ああ、心構えしてたはずなのに全然ダメだったな。琴音が惚気て上手く周りが見えなくなってたから気づかれなかったものの、あたしの手は冷えきって、震えて仕方がなかった。あたしは、もうこれ以上あなたの話なんか聞きたくなかったし、あなたがその男を思って零す笑顔を見たくなかった。ルーズリーフをしていたからまだ見ずに、心を抉られずに済んだものの、ルーズリーフがなかったらあたしは今頃発狂していたかもしれない。
その日は彼女の話を聞いて別れた。「お祝いに」と、彼女の分まであたしが奢ってあげた。これ以上あたしが今の彼女にしてあげられることはないように思えたから。帰り際、琴音があたしに言った。「ごめん薺、もしかして具合悪かった?」彼女はあたしの顔を覗き込む、ルーズリーフがぺらりと揺れた。「ううん、大丈夫」あたしは必死に取り繕って、本当は同じはずの帰り道を、用事があると言って別れた。
それから、あたしはなんだか今までしていたような他愛ないメッセージを琴音に送ることが出来なくなって、連絡をしなくなっていった。帰り道で見つけた猫のこと。高校生のときにした話のこと。小さな約束、そして共有した秘密とか、些細なことも大事なことも、彼女に言いたいことは、すべて引き出しの中にしまい込んで、それでも言いたくて仕方の無くなった時は、スマホのメモに書き殴ることで供養した。
あの報告から一ヶ月と少しが過ぎた頃、「今あの喫茶店にいるの。来て欲しい」という連絡が来て、あたしは部屋着にブルゾンを羽織った雑な格好で彼女の元に急いだ。
「どうしたの」先程降っていたどしゃぶりの雨に当たったのか、彼女はその栗色の髪をぺたりと顔に貼り付けていた。なんだか泣いているように思えた。
あたしはコーヒーを注文して彼女の向かいに座った。琴音はひたひたと雫をこぼしたまま俯いて、何も言わない。だからあたしは彼女が何か言えそうになるまで待つことにした。
窓の外には水溜まりがいくつかあって、そこには水色の空が映っていた。あたしは窓の向こうの空を眺める。薄い水色の空に、鈍色の雲が足早に過ぎていった。
「あたし、どうしてもあの人を怒らせちゃうの」
琴音が呟く。あたしは彼女に視線を戻した。もう冷えてしまったミルクティのカップを指で弄びながら、彼女は微かに笑った。
「薺は、あたしのことをよく知ってると思うけど。あたしってほんとうに、人の顔がわかんないっていうか、考えてることがわかんないっていうか。鈍い、でしょう。だからあたし、知らない間に彼の大事なところに踏み込んで足でぐしゃぐしゃに潰してるみたいで、すぐ彼を怒らせるの」
琴音は泣きそうな瞳をしていた、気がした。ルーズリーフがぐしゃぐしゃと、押し潰したように歪んでいる。
「でもあたし、馬鹿だから。なんで彼を怒らせてるのか全然わかんない。聡明な君ならわかるのかな、って思う。あなたならきっと、簡単にわかることが、あたしには全然わかんなくて、苦しい」
あたしは、彼女が可哀想で、仕方がなかった。違うの、あたしは何も聡明じゃない。あなたがそんなに泣くくらいなら、そいつとは付き合わない方がいい。あなたの時間が勿体ないから。そんなふうに泣いてるくらいなら、あんたはあたしと笑ってるくらいがいいの。
なんて、言えたら、どんなに良かっただろうか。あたしは絶対に、そんなこと彼女に言えなかった。なぜならあたしは、女にとって、恋が友情より大事なことを知っているから。いつだって、友達は体の良い聞き役で、求められているのはアドバイスでも忠告でもなく、ただ話を聞いて欲しいという承認欲求を満たす為にすぎないから。そうだね、と笑って、その感情に寄り添う。それだけが正解だということを、あたしは十分知っていたから。あたしがどんな言葉を言っても、こんなに変わった彼女はあたしの忠告など聞きやしない。それよりも恋っていう綺麗なフィルターのかかったその彼を信じようとするし、忠告したとして、今よりもっと、心の距離が開いたら、嫌だ。
うんうん、そうだね。苦しいね。辛いね。大丈夫、君は大丈夫だよ。と、できる限りの同調と慰めをして、彼女の肩を抱いた。知らない匂いのする首筋は、もうあの頃の彼女とはすっかり変わってしまったように思えた。ひとしきり泣いた後、彼女は「ありがとう」と笑った。あたしは罪悪感で胸がいっぱいだった。
喫茶店を出る時、またパラパラと雨が降っていた。あたしが折りたたみ傘を出そうとすると、琴音はパチン、と傘のホックを外して、黒い柄の赤い傘を広げた。そして彼女は、何の言葉も紡がないまま、あたしをその大きな赤い傘に入れた。まるでそれが当然だというように。はるか昔から決まっていたふたりのルールみたいに。ああ、鳥肌が立つのを感じる。あたしは今にも泣いてしまいそうだった。この顔を彼女に見られなくなかった。嬉しくて嬉しくて仕方がない。あの頃と変わらない赤い傘も、当然あたしを傘に入れてくれることも。一緒に帰ろうとしてくれることも。もう、どうにかなってしまいそうだった。彼女の前で崩れ落ちて、泣き喚いてしまいたかった。でも、友達のあたしに、どうしてもそれは出来なかった。
どんなにあなたが変わってしまっても、あなたがどんなひとを愛していようと、あなたがどんな馬鹿に成り果てても、その気高さを失っても、あたしを忘れてしまっても。それでもやっぱり、あたしは君のことが、どうしようもなく、好きでした。
それから、三ヶ月ほど経った頃。あたしはあの子が変わっていく姿を見ていられなくて、繋がっていたSNSのアカウントは、主要な連絡手段だったLINEだけを残して全部ミュートをした。彼女の存在を、あたしの生活から消し去ってしまいたかった。そして、年が明ける時。日付が変わってすぐ、彼女から連絡があった。ピコン、という電子音が鳴って、あたしは暗い部屋の中でその液晶画面を眺める。
『あけましておめでとう! 昨年はお世話になりました。今年も仲良くしてくれると嬉しいな』というメッセージと、にこやかな顔文字。そして一行空けて『彼と同棲することになりました。住所はここです。覚えておいてください。あたしの騎士様が、いつでもあたしを迎えに来られるように』
あなたはなんて狡くて、可愛い女なんだろう。鼻の奥につん、と泣きたいとき特有の痛みが現れる。不意打ちで目頭が熱くなる。まさか、年明け早々あの子に泣かされることになるなんて思いもしなかった。
「あなたはまだあたしを、あなたの騎士様でいさせてくれるの?」
彼女のメッセージを指で撫で、そしてあたしは枕に突っ伏した。ぐいぐいと顔を押し付けていると、今までの彼女のことだとか、そういうことばかり思い出して、泣いた。わんわんと馬鹿みたいに声を上げてみる。たまにはあたしも声をあげて泣いてみたくなった。でも、あたしの虚しい泣き声は枕に吸い込まれて消えていくだけで、到底あの子に届きもしない。
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