あなたがあたしを好きじゃなくてもⅠ

彼女の名前は鳳琴音(おおとりことね)。

四月一日生まれの十七歳。出席番号は女子の最初から三番目。

そしてそこからあいうえお順の苗字を五つ飛ばすとあたし。向坂薺(さきさかなずな)。十月生まれの平凡な女。


あたしのことよりも、あたしは彼女の話がしたかった。彼女、鳳琴音はいつもルーズリーフを頭に貼り付けていた。そしてそれはあたしにしか見えないらしい。いつからかは覚えていないけれど、ある朝学校に来てみると、彼女の顔に、×印の書かれた白いルーズリーフが貼られていた。あたしは不審に思って、その日の放課後ふたりきりの時に話しかけた。「それ、どうしたの。顔のやつ」彼女は、え、あたしの顔なんかついてる? 痣? 顔は殴られないように注意してたのに……と手鏡を覗きながら自分の顔をチェックする。彼女の行動に唖然としながら、あたしは彼女をずっと観察していた。「ねえ、なにもついてないじゃない。驚かさないでよ」と、あたしを眺めてけらけら笑う。前髪を上げておでこまで丁寧にチェックした後で(もちろんあたしにはおでこに貼り付けたルーズリーフしか見えていなかった)前髪を整えた。ほら、可愛いでしょ? と言わんばかりに彼女はあたしを見つめた。

どうやら、彼女自身にも彼女のルーズリーフは見えていないようで、クラスメイトたちも彼女の痣や、その寡黙さについては言及するものの、ルーズリーフに対しては一切つっこんでいなかったため、恐らくあれはあたしにしか見えていないのだろう。

でも、どうして?

彼女の顔を最後に見たのがいつか思い出せない。だからあたしは彼女の顔がどうだったか、どんな鼻をしていたか、どういう瞳をしていたか……確か整った可愛らしい顔立ちをしていた気がするけれど。はっきりと、どんな顔だったかは思い出せなかった。

彼女が無防備に寝ている時、あたしは彼女の顔のルーズリーフをそっと捲ってみたが、その下にはまた×印の書かれたルーズリーフがあるだけで、捲っても捲っても彼女の顔は現れなかった。それでもめげずに彼女のルーズリーフを弄り続けてみたところ、あることに気づく。びり、と少しだけ破ってみると、次の瞬間に紙は元通りに戻っていた。ペンで適当なことを書いてみたところ、あたしがペンを机に戻して、彼女のもとに戻ってきた時には白紙のつやつやの紙に戻っていた。不思議な紙にあたしは正直慄いたが、誰も気にしていないようなのでいっそ、気にしないことにした。

彼女と一緒に過ごしていれば、ルーズリーフ越しでも今どんなことを考えていて、どういう感情を抱えているかは、なんとなく察することができた。そして気づいたのは、ルーズリーフは、彼女の感情や表情によって、動く、ということだった。例えば彼女が泣きそうになる時、途方もない悲しみを抱えた時、紙は握り潰したようにぐしゃぐしゃになる。そして、彼女が嬉しい素振りをすると、紙は少しだけぴらり、とうねる。

紙は、彼女の心と連動している。だからきっと、彼女次第であの紙は取れることもあるのかもしれない、とぼんやり思う。


八月の初め、あたしと琴音は隣町の水族館へ出掛けた。あたしたちは入念に計画を練り、どこをどう回るかを幾度となく話し合った。こうやって琴音とどこか遠くへ行くのは初めてのことだったので、あたしも琴音も楽しみで仕方がなかった。彼女の家の門限は厳しく、休日の外出もままならなかった。しかしその日、琴音の父親は出張で数日家を空けることになっており、それを聞かされたあたしは琴音とハイタッチして、彼女を抱きしめて喜んだ。

来たる朝、あたしは駅まで母に送ってもらうこととなり、リュックサックと飲み物、そして少しのお菓子を携えて、琴音の家まで彼女を迎えにいった。思えば、こんなに家が近いのに彼女の家をきちんと見るのは初めてで、あたしは不思議な気持ちになった。薄ピンクにも見える白い綺麗な一戸建ての住宅の屋根は三角で、表札の横の赤いポストが可愛らしく見える。あの窓のうちのどれが彼女の部屋なのだろうか。白いラティスの向こうに庭があった。そこには鬱蒼と伸びた樹木があり、一面に人工芝がひかれている。人工芝のおかげで小綺麗に見えるものの、物の少なさが不自然な印象を与えた。リビングの白いカーテンが見えるが、閉じられていて中の様子はわからない。あたしは彼女の携帯を鳴らした。すると、ドタドタと階段を下りる音が聞こえて、ドアが開く。

琴音は膝下の、ノースリーブの白いワンピースを着ていた。肌を隠そうと思ったのか上に紺色のカーディガンを着て、つばの広い帽子を持っていた。

「おはよ」

携帯を離してあたしは彼女に微笑んだ。すると彼女は少し照れた様子で

「おはよう、薺」と言った。あたしと彼女の間になんだか、不思議な、気恥ずかしいような空気が流れて、あたしはそれを堪能していたかったけれど、口うるさい母が邪魔をした。

「親御さんは? あたし、挨拶した方がいいかしら」

「あ、大丈夫です。今、外出中なので。出かけることは親に伝えてあります」

琴音の声が震えていた。嘘をつくことに抵抗があったのか、微かに俯き、怯えているように見えた。あら、そう? と母は呟いて、車の窓を閉めた。

「さ、乗って」あたしは琴音の肩を抱いて、後ろの席に座るように促した。琴音は安堵したのか、ほっと息をついている。

彼女の家を出発する時、あたしはちら、とミラーで後ろに乗る彼女の様子を確認する。車が発進すると彼女は傍らの自分の家を眺めていた。やがて、それが遠くなると振り返り、後ろ髪を引かれるような様子であの家を見ていた。


駅に着いて、あたしと彼女は降ろされた。じゃあ、いってらっしゃい。と母は笑ってあたしたちを見送る。用を終えた彼女は颯爽と車を運転して帰ってしまった。

「じゃ、行こっか」

リュックを背負って琴音を見た。すると彼女はあたしをじっ、と見つめていた。

「なに? あたしなんか変?」

「ううん、違う」

彼女が首を振った。

「じゃあ、なに?」

「薺のお母さん、いい人だなあって思って」

「なにそれ」

「薺はきっと素敵なひとに、素敵な家庭に育てられたんだなあって、しみじみしてたの」

ほかほかした様子で琴音は笑う。その様子が可愛くて、なんだかあたしは嬉しくなった。

「じゃあ、今度うち来る?」

「行っていいの?」

大袈裟に飛び跳ねて琴音は喜ぶ。

「うん、いいよ。そう言えばまだ来たことなかったね。もてなしてあげる」

あたしの言葉に、琴音は両手を挙げて、やったあ、と嬉しそうにしていた。彼女とまたひとつ、秘密の約束が増えたことが嬉しくて、あたしはこっそり笑った。


切符を買って、あたしと琴音は電車に乗った。隣町といっても、普通電車で五駅くらいなので、そこそこ時間がかかる。電車に乗り込むとあたしは、くるりと座席を回転させて、彼女に向き直った。すると彼女は「わあ、すごい」とはしゃいだ。今日の服、可愛いね。薺こそ。そんなことないよ。ううん、そんなことあるよ。なんて他愛ない話をしていると、電車は音を立ててトンネルに突入した。車の走る音だけが聞こえる静寂に、琴音はなんだか落ち着かない様子だった。窓の外の暗闇を、ぼうっと眺めている。あたしも倣って窓の外を眺めたが、窓に映るのは反射した自分の顔だけで、暗闇さえも上手く見えなかった。彼女の方を視界の隅で眺めると、彼女もまたルーズリーフを貼ったままの顔を、あたしにはわからない顔をぼうっと眺めていた。あたしに見えない何かが、彼女にはきっと見えているのだ。琴音はいったい、なにを見ていたんだろう。

トンネルを抜けると、琴音は感嘆の声を漏らす。それにつられてあたしも窓の外を見た。すると、窓の向こうに防波堤が広がり、その先に海が広がっていた。琴音は窓に顔をくっつけて(というよりも、ひたりとルーズリーフをくっつけて)窓の外の風景を眺めていた。小さく声を上げて喜ぶ彼女を眺めていると、あたしはなんだか、心臓の裏がふわふわとむず痒く、落ち着かない心地になる。いてもたってもいられないような、くすぐったくて、むず痒い気持ち。


駅に着いてあたしと彼女は電車を降りる。そこから十五分ほど歩いた丘の上に、水族館はあった。

学割チケットを二枚買って、あたしと彼女は緑がかった水色のアーチをくぐった。水族館の入口に広がっていたのはふれあいコーナーで、水槽を泳ぐウミガメたちの甲羅を触れるみたいだった。水槽の後ろの壁には巨大な竜宮城の絵が描かれていて、この亀たちが、そのおとぎ話をモチーフにここに暮らしていることがわかる。

「触ってみる?」と、にやにや笑って彼女に問いかけると「え、いいのかな」と少し狼狽えていたが、あたしは彼女の腕を掴み、水槽の前に連れていった。そのままあたしはしゃがみこんで彼女のルーズリーフの貼られた顔を見た。

「見てて」

一匹の亀が後ろの壁をつー、となぞりながらこちらに泳いでくる。兎と亀の物語で、亀はひどくのんびり屋さんだったけれど、本物の亀は意外と早いスピードでこちらに向かってくるので、あたしは思わず笑った。

亀が水槽の縁に頭を擦り付けながらこっちにやってくる。あたしの前を亀が通過しようとした。すかさずあたしは水槽に手をつっこんでその背中に触れる。硬い甲羅は、水のせいか少しぬめぬめしているように思えて、なんだか面白かった。

「ほら、大丈夫だよ。やってみよう」

あたしは琴音を引き寄せて、彼女のカーディガンの袖を捲った。琴音はされるがままだったが、亀が来ると心を決めたように指を水槽に突っ込んだ。つつつ、と亀の甲羅の上を、彼女の細い指が撫でる。

琴音は一瞬怯えた様子で居たけれど、亀が行ってしまうと息を漏らして笑った。

「なんだあ」と安堵する彼女が傑作だった。


あたしと彼女はその後、クラゲがいる小さな水槽や、カクレクマノミや、色とりどりの熱帯魚がいる水槽を回った後、エイや亀が泳ぐ巨大な水槽の前にきた。目の前を泳ぐ火星人のような、茶色く奇妙な形のエイを眺めて琴音は、うわあ、と声を漏らしていた。彼女は水槽の中を泳ぐ摩訶不思議な生き物たちに興味津々なようで、あたしは魚よりも琴音を眺めている方が何倍も面白かった。

巨大な水槽を二人で眺めていると、

『館内にお越しのお客様にご案内致します。十時からのバックヤードツアーの申し込みを受け付けております。先着二十名で、まだ空きがございます。お申し込みの方は、当館一階のインフォメーションセンターまでお越しください』というアナウンスが流れた。

「バックヤードツアー?」と琴音は小首を傾げた。

「そういえば、受付のお姉さんがなんか言ってた」

琴音は顎を触って何かを考え込んでいた。興味があるけど、言いにくそうな雰囲気を察して、あたしは言った。

「行ってみよっか」

彼女はこくりと嬉しそうに頷いた。


琴音の手を引いて受付まで走ると、まだ空きがあるようで、整理券を貰って近くで案内を待った。やがて、インフォメーションセンターの前にひとだかりができはじめ、あたしたちもそれに倣って並んだ。

十時になると係員の人が来て、あたしたちを水族館の水槽へと続く裏道に案内した。いかにも裏側という印象の薄暗い廊下を抜けると、そこにはひとつだけエスカレーターが配置されていて、あたしたちはそのエスカレーターに乗る。ただひたすら黒い空間の中で、いったいどこへ向かうのか不安だったけれど、目の前が徐々に明るくなっていき、気づけばあたしたちは水槽の真ん中にいた。円形の水槽の真ん中を通って、あたしたちは上へ上へと上っているみたいだった。それに気づいた琴音が、びっくりしたのか、あたしの腕にしがみついた。

エスカレーターはどんどん上昇していった。手すりだけがついた普通のエスカレーターは、気づけば水槽の上まで来ており、あたしたちはここから身を投げだけば水槽に真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。あたしは眼下に広がった、静かに輝く水色の巨大な水槽に見とれた。

「ここから落ちたら、どうなるのかな」

しがみついた彼女の耳元であたしは呟く。

「どうなる、って。サメとかエイとかうじゃうじゃいたんだから食べられちゃうに決まってるでしょ! それにこの高さから落ちたら、食べられなくても怪我するって」

あたしの発言に取り乱す彼女がかわいくて、あたしは思わず声を漏らして笑った。

「やっぱり?」

「ひどい、あたしをからかったの?」

頬を膨らませた彼女に、あたしは、ちがうよと弁明する。

「ただ、こういう普段味わえない危険と隣り合わせの場所って、なんかわくわくしちゃって。心が踊ったの」

正直にそう答えると、彼女はあたしをじっと見つめ、そして言った。

「薺は馬鹿だよ」

ルーズリーフの下で、寂しげな目をしている気がした。叱るでもなく、呆れるでもない、優しさの篭もった不思議な声に、あたしはなんだか愛しく、同時に切なく思った。


売店で焼きそばと唐揚げを買って、潮風の吹くテラスの席でそれを頬ばった。白いパラソルが、青い空に映えて綺麗だった。それから、外の海獣館を、ふたりで手を繋いで回った。自分より何倍も大きなセイウチやトドが、目の前の巨大な水槽を悠然と泳いでいく。海獣たちの大きさに琴音は怯えるものの、やがて自分から彼らに近づいて水槽の前でくるりくるりと仲睦まじく身を寄せ合うセイウチを眺めていた。

「かわいい」

「かわいい?」

目の前のぎょろり、と目をひん剥いた、口角を上げて笑ってるんだかなんだか、わからない表情をしている巨大な生物を見てあたしは聞き返す。すると、彼女はあたしの怪訝な表情を察して言った。

「かわいいよ。身を寄せあって家族でぎゅっ、ってするのがとってもかわいい。奥さんなのかな。それとも子供かな」

琴音はあたしに振り返る。だからあたしは、どっちだろうね。と笑った。それから彼女はもう一度水槽の中のセイウチを眺めた。

こういう時、つまりあたしが、琴音の希望や羨望に、どういう顔をしたらいいか、どう答えたらいいか分からない時。わかりやすく狼狽えるあたしを、決して彼女は叱ったりしない。ただ、あたしを眺めて、少し笑う。「わかったよ」とでも言いたげな感じで。実際彼女は言わないけれど。それが、どれだけ忍耐が必要なことかをあたしは知っている。君は偉いな、と他人事のように思う。怒らせるのはいつもあたしなのに。


それから、あたしたちは水族館を出て、近くの海水浴場まで歩いていった。夕方を少し過ぎた海水浴場の人はまばらで、あたしたちは、ちょうど良かったね、と笑いあって浜辺を歩いた。

広いつばのついた帽子を被って、琴音があたしの少し前を歩いた。ゆったりとして、それでいて優雅な歩き方が、今ほど綺麗で愛しく思えた瞬間はないなあ、と微かに浮かぶ茜の太陽と彼女とを見て思う。

琴音はくるりと白いワンピースを翻してみせた。

「あたしやってみたかったことがあるの」

琴音の提案で、あたしと彼女は防波堤まで歩いていった。少し小高いこの場所からは、浜辺と海が見下ろせた。少し向こうに、あたしたちみたいに歩く人達や、浜辺に寝転ぶ人達が見える。

琴音は徐にサンダルを脱いで、防波堤の上に立った。

「ここを歩いてみたかったの!」

無邪気で楽しげな様子が、潮風に靡くルーズリーフ越しに伝わった。

防波堤の上をしゃん、しゃん、と跳ねるように歩く琴音の手をとって、あたしは彼女を下から支えて歩いた。彼女は左の指先でサンダルを弄んで、ふふふ、と声を漏らしながら歩いている。

そういえば前に、海底を歩くクラゲがいると聞いたことがある。そのクラゲは、悠々と海底を散歩して、そしてその歩いた跡がきらきらと、まるでガラス片を粉々に砕いて散らしたように光るのだ。でも、あたしはこのクラゲがどんなクラゲだったか、いったいいつ、どんな番組で見かけたかだとか、そういうことを一切覚えていない。だから、もしかしたら、あたしの思い過ごしかもしれない。そんなクラゲは存在しなくて、あたしが頭の中で作り出してしまったのかもしれない。

でも、それでも良かった。琴音が歩いた跡は、なんだかあたしには、きらきら煌めいているように見えて、それが、ヘンゼルとグレーテルが意図的に落としていったお菓子くらい、なんだかかわいく、そして美しいものに思えたから。架空でも何でも、彼女の無垢さを語るのに合っているなら、それでいい。

彼女は海底を優雅に歩くクラゲのような足取りで、あたしの手を取って歩く。そしてその軌跡には、ないはずの光の粒が、きらきらと光って見える。あたしには、見える。

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