秘すべきことⅢ
その日のデートはそれきり終わってしまって、あたしと彼女はただ黙って、手を繋いで帰った。繋いでいない方の手で、彼女は赤い傘を持っていた。やがて、彼女とあたしはY字路に差し掛かる。
坂道の右側があたしの家で、左側の通りに彼女の家があった。あたしと彼女は立ち止まって、どちらからともなく指を放そうとする。しかし、思いとどまって彼女が言った。ひどく切迫した声だった。
「待って、薺(なずな)。お願い、行かないで」
彼女はあたしの腕を掴み懇願した。
「お願い。もう少し、そばにいて」
彼女がそんなふうに怯えるのは珍しいことなので、あたしは彼女を近くの公園に連れ出して、そこで彼女の話を聞くことにした。ベンチに座った彼女に、自販機で買ったジュースを差し出した。炭酸の飲めない彼女に渡すのは決まってオレンジジュースだったし、あたしはその隣で気にもせず炭酸飲料を飲んだ。
「ごめんなさい、さっきは取り乱して。なんか、あたし変だったの」
「あんたとあたしが変なのはいつもの事だけど」
「はは、そうだね」
彼女はぎこちなく笑う。その受け答えが彼女らしくなくて、あたしはなんだか不安になる。
「どうしたの、なんかおかしいよ」
彼女のそばに腰かけて尋ねると彼女は自分を落ち着かせるように静かに息を吸った。
「笑わないで聞いてくれる?」
「君の言うことを、あたしが笑ったことある?」
強い眼差しで答えると、彼女は泣きそうな瞳で笑った気がした。
「なんだか、不安だったの。漠然とした不安なんだけど、それでも確信があるの」
顔を上げて、彼女はあたしを見た。
「あたし、今日ばっかりは絶対に殺されるって、思ったの。あのY字路に差し掛かった時、ああ、あたしこのまま帰ったら殺される。今日こそは間違いなく、殺される、ってそう思ったの。だから怖くて、あなたにそばにいて欲しくて、泣いたの」
怖いの、と彼女はあたしの手に縋る。ルーズリーフが静かに波打った。
「……君が」
一気に飲み干した炭酸飲料の缶を、わざと音を立てて自分の横に置いた後で、あたしは言う。
「君が望むなら、あたしは君の傍にいるし、一緒に家に帰らないって選択肢もあるし、なんならあたしの家に来てもいいし、ずっとここにいるってのも手だし、どうしたい?」
早口にそう言ってみせると、彼女は少し黙った後で、目頭を押さえながら楽しそうに口元を緩めた。この現実主義者、とあたしを揶揄いながら。
「あなたはいつもあたしに沢山の選択肢をくれる。そしていつもあたしの希望を聞いてくれる。あなたは頭がいいから、いつも最善策を知ってるはずなのに、それでも馬鹿なあたしの為に選ばせてくれるの」
「いつもじゃない、正解なんてわからない。あたしには」
「あなたみたいに容量が良くないから、あたしはいつも泣き喚いて縋ることしか出来ないの、だからあたしの答えは、いつだって同じ。それでもいい?」
「もちろん、仰せのままに」
冷えきった指先を、恋人繋ぎするみたいに絡ませて、意地悪く彼女を眺めると、彼女は纏った空気を震わせて言った。
「ずっとここにいて」
それから、彼女と他愛ない話や、議論、そして馬鹿みたいな話をしてるとあっという間に六時を過ぎて、七時に近い時刻になった。まだ薄い暗闇の中で彼女が笑う。その横顔の輪郭がおぼろになった時、あたしの携帯がぶるぶると震え出した。
「出なくていいの?」
「出たくない。どうせ母親だから」
「一回帰ったら?」
彼女は涼やかに鈴の鳴る声でそう促した。あたしは思わず絶句して、傍らの彼女を凝視した。彼女はぷらぷらと楽しそうに足を揺らしているだけだった。
「ここにいて、って君が言ったんだよ」
「うん、だから許すことにした。もう一回ここに来てくれたら許してあげる」
あっけらかんとした様子で彼女は言う。さっきとはまるで違う態度に、あたしは裏切られたような気になる。
「あたしが怖いから帰らない」
「そう? あたしもう何も怖くないよ」
「嘘」
「ごめん、盛った。あの家より怖いものはないから、ここは平気だよって意味」
言い合いをしている間に二回目の着信が鳴った。苛立ちながら出ると、やっぱり母だった。
「何?」
『何? じゃないわよ! あんたいつまでほっつき歩いてんのよ!』
「うるさい。今友達と一緒にいんの、三角原公園」
『なんで? とにかく一回帰ってきなさい! 出歩くのはいいけど、制服着替えて! 顔見せに帰んなさい!』
「やだ! 帰ったら絶対話長くなるし、もう出させてもらえない」
『つべこべ言わずに帰ってきなさい!』
我慢できなくなったあたしは電話を切った。
「どうするの?」
と傍らで彼女が笑った。何も答えられずにいるあたしを見て彼女は言う。
「一回帰れば? でないとお母さん迎えに来るよ」
「やけにあたしを帰そうとするね。自分は帰んないくせに」
「それとこれとは別だよ」
彼女はあたしを面白がっていた。誰のためにやってると思ってるんだか。あたしは少し苛ついていた。
「待ってるから」
と呟いて彼女はあたしの手を取った。その美しくて静かな声の響きにあたしは妙に納得してしまう。
「十分くらい待ってて、すぐ戻る」
彼女の手を握り返して頬を寄せた後、もだもだしながら公園を出た。
「わかった」と彼女の凛とした声が聞こえた。
公園を出たあたしは全速力で走る、走る。すぐにY字路に辿り着いて、その右側の通りを一目散に走った。あたしの家はY字路の右の通りの六軒目にあって、そこまで一気に駆け抜けた。はあはあ息を切らしながら、鞄から鍵を探し出す。走ったせいか、鞄のポケットから飛び出してしまったみたいで簡単に見つからない。教科書やノートの間を必死に探して、黄色い花柄の鍵を取り出した。ドアを開けて中に入る。正直母親には見つかりたくなかったけれど、きっと無理な話だ。玄関からすぐの階段を上がって自室に入る、ピンク色のベッドは中学に上がった時に買ってもらったもので、今ならこんなクソダサいベッドは自分で選ばない。でも過去のあたしのセンスはクソダサかったので、寒いくらいにファンシーなものを可愛いと信じて疑わなかった、あの頃のあたしはどうしようもない。
制服を乱暴に脱いで、クローゼットの中からイエローのパーカーと薄い水色のTシャツを取り出す。適当に床に転がっていたショートパンツを履いて、転がってたリュックに財布と鍵と、そしてスマホと、あとたまたま入ってた飴玉を持って部屋を出る。たったったっ、と飛ぶように軽やかな足取りで玄関を走り抜けようとした時、背後から迫っていた母親に捕まった。
「で、帰りは何時になるのかしら?」
彼女は薄ピンクのエプロンを外しながらあたしに尋ねた。
「ねえ、友達が待ってるの。お願い、早く行かせて」
「いいけど。帰りは何時になるか、ご飯は食べるか、スマホは繋がるか、帰ってくる前に電話をいれられるか、その約束が守れるか、って聞いてるの」
「守るから」
「そう? 今まで守れた試しがなかったけど」
「ねえ、お願い。そんなこと言ってる場合じゃないの。危ないって思うんなら行かせてよ、友達が今まさにその危ないってとこにいるんだから!」
「だいたいあんたいつもそう」
ほら、始まった。だから家になんか帰りたくないんだ。彼女にとって、家が殺人鬼のウロウロするホラーハウスなのと同じように、あたしにだって、ここは一度入れば脱獄できない牢屋と同じだった。だから、帰りたくなかったんだ。
親と家はいつも、外の危険な鬼ごっこから逃れる安全地帯のような顔をしてこの場所を守っているけれど、危ないのは何よりもこっちの方だ。優しい顔をした愛という名の永久機関は、その慈愛ゆえにあたしたちを監獄から出そうとはしない。なぜならそれが安全だと彼らは思っているから、でもそうじゃない。あたしたちにとってこの場所は、全然安全じゃない。人生がもっと簡単なゲームだったら良かった。家はただ、次のダンジョンへ向かうための武器屋と防具屋と宿を兼ねた場所でよかった。少なくともあたしにとっては。でも家は、それ自体が十分、危険に満ちているから気が休まらないのだ。あたしたちが本当に気が休まる場所って一体、どこ。
「……うるっさい! とにかく行かせろ!」
母親の御託を右から左へと全て受け流し、おまけに胸に溜め込んだ膿も罵倒に乗せて一緒に吐き出したところで、あたしは母親の言うことも聞かず玄関を飛び出した。物置の前に止まっていた赤い自転車に飛び乗り、待ってろ、と宣戦布告するように心の中で呟いて、自転車を走らせる。
家の前の坂道は、自転車に乗って少しの力をかければ風を切るように走れるから容易い。だからあたしはもう、足がちぎれるんじゃないかってくらい自転車のペダルを踏み込んでかっ飛ばした。ぐん、と風を切って進むのに、蒸し暑い夜の空気が頬に貼り付いたままでうざったい。止まれの標識でY字路を横断して、あたしはまたペダルを何度も踏み込んだ。ぐいんぐいん、と音を立てて加速する。そのスピードを簡単に追い越して、あたしの心は急いていた。
三角原公園と書かれた公園のプレートには年季が入っていて、街灯の光がそれをぼうっと照らしている。その光の元に、はらはらと一匹の小さな蛾が瞬くように飛んでいた。息をついてあたしは自転車から降り、それを押しながら公園に入った。
一歩踏み出すと、そこは昼間の明るさから隔絶されたような気配と静けさを持っていて、色とりどりの遊具や落書きは、すべて闇の中に吸い込まれてしまったように思えた。人の気配は全く感じられず、あたしはほっと胸を撫で下ろす。
よかった、待てなくなって帰ったんだろうか。
でも。その後にまたあたしは不安になった。あの家に帰って、彼女は大丈夫だろうか。今頃花瓶で父親に頭を殴られているんじゃないか、もしかしたら今日が彼女に会える最後だったら? 明日彼女が学校に来なかったら? 電話を取り上げられていたら? あたしはどう彼女の生存を確認すればいい? ざわざわと胸がざわめいて、逡巡した後。あの子が携帯を取り上げられていたとしても、とりあえず電話をかけようと決めた。回線が繋がるだけであたしは安心出来る気がした。スマホの着信履歴の上から五件目の番号をタップする。ツーツーツー、と繋がる前の不穏な音が耳に響いて、それから呼び出し音が一回鳴った。
ベンチの方で電話が鳴っていた。心臓が不自然に跳ねて、もしかしたら忘れていったのかもしれないと思った。あたしは自転車を押して、耳に携帯をあてがったまま、ベンチの方に歩いていく。
暗闇の中に、ぼうっと白いものが浮かび上がる。あたしはそれに絶句した。一瞬目を疑った後、恐ろしくて吐き気がした。目眩がした。目頭の奥が熱くなって、よくわからないのに喉がえづきそうで仕方がなかった。
まさか、と思ってあたしは自転車のライトを恐る恐る当てた。そして、あたしは気づいてしまう。
彼女はひどく静かに、そこに横たわっていた。その姿は、まるで眠っているかのようで、そして氷に閉じ込められたようでもあった。
込み上げる吐き気を必死に堪えながら、彼女を眺めた。制服のスカートはめくれたままで、胸元のスカーフは地面に落ちたままだった。薄汚れたピンクのブラジャーがずれて、微かに膨らんだ乳房が覗いている。彼女の白く美しい喉元はかっ切られ、辺りに血が飛び散っていた。彼女の顎が、突き上げるように上向いていて、×印がついた綺麗なままのルーズリーフの隙間から、青白い唇が見える。あたしは泣きそうだった。
想像、したくもなかった。あたし、いつかこんな日が来るんじゃないかと、ひそかに恐れてた。そして、それは今この瞬間、訪れた。
どうして? どこで間違えた? あたしまたあなたの前で失敗した? まだここに魂があるとするなら、どうか教えて欲しい。あなたのその、鈴の鳴るような美しい声で教えて欲しい。あたしが、いつ、どこで、どう、あなたを傷つけ、裏切って、そして間違えたか、について。
彼女は、芸術品みたいに膝を立てて横たわったまま、何も答えやしない。
……ねぇ、とあたしは呼びかける。静かな空間に、あたしの心臓の音だけが鳴り響いて、うるさい。今にも叫びだしそうだった。おかしくなりそうだった。
あたしはそっと、彼女の身体に触れた。まっぷたつに切り裂かれた、その美しい喉元の傷口に触れた。ひたひたとした冷たい感触は、よく見知ったあなたなのに、全然知らない物体みたいで恐ろしくて、咄嗟に茂みに吐いてしまう。咳き込んで散々戻した後で、またあなたの身体に向き合った。その首元の傷に触れる。その質感を十分に覚えて、傷口にキスをした。
「ごめんなさい、琴音(ことね)」
あたしはそこで、やっとあなたの名前を思い出した。どうして今まであたしは、あなたの凛としたこの響きを忘れていたんだろう。わからない。
気持ち悪くて気味が悪くて、仕方がなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、だらしなく涙が溢れて咽び泣く。あたしは琴音の首筋に顔を寄せて、そして彼女に縋るように泣いた。
「ごめんなさい、あたし次こそはあなたを救うと誓ったのに」
次こそは? と、言葉を紡ぎながら疑問に思った。
それからすぐに腑に落ちた。あたしはあなたを生かすためにここにいる。
起き上がって、彼女の顔を眺めた。ルーズリーフに×印を書かれた彼女は、生きていても死んでいても、どこか涼しげで飄々として見えた。だから、憎らしくて笑った。
彼女の血まみれの冷たい手をとって弄んでいると、ゴォォォンと何かの響く音がして、斜め上であたしを見下ろしていた青白い月がきらきらと不自然に瞬き出した。
ああ、彼が来てしまう。あたしは絶望した。
丸い月の真ん中がきらきら輝いて、そこがぷつりと二つに割れた。その中から、煌々と輝く巨大な円環に座って、彼はやってきた。
「やあ」と彼は爽やかに笑った。琴音の手を取ったまま呆然と彼女を眺めているあたしに、彼はもう一度言った。
「やあ」と。あたしはため息をついて、忌々しい瞳で彼を眺めた。すると彼はくつりと笑って「邪魔するな、って?」と揶揄う。
「また今度も間違ったやつに死体を堪能する権利なんか、ないね。そういうことは君の役目を果たしてから思いなよ」
何も言い返せず、あたしは彼女の指を握りしめた。それを見て彼は呆れた様子で言った。
「ほら、帰るよ薺。次の世界へ行こう。あの子の座を取り戻す旅だ」
見上げる景色に彼がいた。月を背景にくるくる回る円環の上に立って、もう指を鳴らす準備をしている彼は、ほんとうに様になって見える。真っ赤な瞳が、月の白に滲んでおぞましいくらいだった。
「さよなら、琴音。またね」あたしは彼女の白く冷たい指先にキスをした。そしたらまた涙が出た。すると彼は言う。
「めそめそするな」
ぱちん、と、指を鳴らす音が頭に木霊する。そして、景色は彼の立ちはだかる円環の中心にするすると飲み込まれていく。渦を描いて、世界が崩壊する。そして、また構築される。でも、彼女の死体だけが、まるであたしに見せつけるかのように、ずっとずっと壊れないまま暗闇の中に残り続ける。これがお前が救えなかったものだ、と神があたしを嘲笑うみたいに。やがて足場がぼろぼろと崩れていった。真っ逆さまにあたしは落ちて、つう、と意識の糸を裏側から引っ張られて眠くなる。最後に見上げた暗闇には、円環の上で静かに微笑む赤い瞳の少年と、いつまでも空中で静止したままの琴音の死体があった。
意識が潰えるその瞬間、ごめんね。と思う。そして、あたしはまた誓を立てる。また忘れてしまうかもしれないのに。でも、それでも。やっぱりあたしは必死に手を伸ばす。
今度こそは、あなたとの未来を掴み取る。
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