秘すべきことⅡ
唐突だけれど、あたしと彼女の話をさせて欲しい。あたしと彼女の秘すべき友情について。あなたはあたしを、墓場まで秘密を持っていくことの出来ない正直者だと笑ったけれど、どうやらそれは本当みたいで、あたしはこんな、遺書みたいな形でノートにあなたとの日々を書き連ねることしかできません。あたしと、あなたには、これさえも許されていないのでしょうか。
あたしとあなたの友情とは、秘すべき友情でした。それは何故かといえば、あたしはスクールカーストの真ん中くらいで、目立つ訳では無いけれど、陰気に教室の隅に居るタイプでもなく、大多数の、そしてあまり表情のない長いものに巻かれるタイプに擬態しながら、それでも君の友人であることで、君を取り巻く世界を疎むことで、ナイフを握って、特別なふりをしていたからです。
一方、顔にルーズリーフを付けたあなたはスクールカーストの最下位……というよりも、むしろそのピラミッドには分類できない場所にいました。この狭い、箱のような教室で、あなたは誰とも言葉を交わすことなく、ただ静かに微笑んで、淡々と毎日をこなしていました。あなたは教室の中で巻き起こるカートゥーンのような大袈裟な芝居に興味などなく、それはあたしのファッション的な達観とは違って、本当に興味がないんだというように、ブックカバーをつけた文庫本ばかり読んでいました。帰り際、誰もいない教室で「ちょっと待って」と、あたしと帰るのも鑑みずに本に没頭するあなたに「何を読んでるの?」と拗ねて聞いたら、なんだと思う? と可愛らしく笑ったあと「太宰治」と答えてくれました。あたしは普段本なんか読まなかったけれど、彼女が読んでいた一冊だけは本屋で見かけて、家でひっそり読みました。でもあたしには、何がいいんだかさっぱりわからなくて、書いてあることも起こることもいまいちピンと来ませんでした。それでも、彼が書く文体はあたしと君の感性になんとなく合っていて、文字を追って、情景を追うその感覚が心地よかったことと、楽しげに没入する君の横顔が忘れられません。
話が逸れましたが、あたしとあなたの友情にはルールがありました。それはまず第一に、この友情は「秘すべき」ものである、ということです。秘すべき、なぜそうしなければならなかったか。あたしは少し疑問でしたが、君は徹底していました。
他の誰かのいる前で、決してあたしと言葉を交わさないこと。ふたりでいるところを誰にも見られてはならないということ。そして何より、この教室の中であたしだけがあなたの印に触ることが出来る、ということ。
君が再三言うように、あたしは秘密を墓場まで持っていけない人間ですから、ふたりだけの甘美で、背徳的なこのルールが、時々ひどく寂しく感じられました。隠さなければいけない友情が、ほんとに友情と言えるのだろうかと、疑ってしまったから。
でも今ならわかります。君があたしを思ってくれていたということに。いつも、君は肌が隠せる分厚いタイツを履いていて、ときどき腕には絆創膏とか包帯を巻いていた。それでも隠しきれない印が、そこにはあった。あなたは隠す素振りもなかったのかもしれないけれど、それでもそれを、直感的に「秘すべき」ものだと判断していた。聡いあなたはそれを隠して静かに笑うことに長けていた。
そんなあなたの前で、あたしはただ静かに従うしかなかった。クラスの皆は、あなたの家が、あなたがおかしい、っていうことが、わかってた。それでもあたしだけが、愚鈍で何も知らないふりをして、また時には誰よりも賢いふりをしてあなたの傍にいた。大人が決して、子供の味方になってくれないということを、あたしとあなたは体感的に理解していた。あの世界で、あたしとあなただけがわかっていた。だからあたしたちは、友達で、秘すべき友で居られたのだろうと思います。
顔のないあなたは、あたしにはひどく可愛く見えた。だから、あたしは言いふらしたくてたまりませんでした。言葉を持たないあなたが、静かに笑うあなたが、ほんとうは沢山の言葉を持っていて、豊かな表情を持っていたことを。でもあたしはずるいから、それを独り占めできることに優越を感じていました。それが、現時点で断言できる、あたしの罪のひとつめです。
中学の頃まで髪の長かったあたしは、高校進学と同時にイメチェンという名の、いわば出家のための断髪式を終えた。青春とはあたしにとって、何も知らない愚鈍な雛鳥の時代を示すものであり、ある程度の知恵と知識、そして、この世界に巣食う野ざらしの闇についての理解が進んだ時、その青く甘いおよそ一般的といえる青春は潰えたと言っても大袈裟じゃない。なかば、修行僧のような面持ちで挑んだこの生活に、執着も感動もなにも、感じられなかった。あの子が現れるまでは。
誰と誰がセックスしたとか、誰と誰がいがみ合ってるとか、あいつがどいつを嫌いだとか、こいつがそいつを好きだとか。そういうどうでもいいのに、この世の泥臭いところを煮詰めたような、後味悪い噂話の行き交う教室。混沌と喧騒のまじり合うこの嵐の中で、あなたの周りだけにいつも涼やかな風が吹いて、澄んだ空が広がっているように思えた。
あなたは台風の目のように、無垢で、綺麗で、そして孤独だった。
それは蒸し暑い夏の日で、湿気を含んだ髪がぺたりと頬にくっついてうざったいような、そんな日だった。スカートを団扇のように仰いでばふばふと風を取り込む女子。おでこと前髪の間の湿気が一番気になるからしきりにノートで熱のこもったその部分ばかり仰ぐ。あたしもそれに倣って、自分の汗で額にまとわりつく髪の毛を指で払った。
前から回ってきたプリントを送る時、彼女をちらりと振り返る。彼女は、その長く重い髪を結ばずに、下ろしたままのむさくるしい風貌をしていた。にもかかわらず、彼女の周りだけ温度が5度くらい下がってるようなひんやりとした空気に包まれている。おでこに湿った前髪を貼り付けたあたしを見て、彼女は涼しそうに口角を上げて微笑んだ(ルーズリーフで顔が見えないので、そう思っただけだったけれど)。
手元にあった付箋に、あたしは思わず『あんたはいつも涼しそうでいいね』と書いてプリントに貼っつける。それを眺めた彼女は声を抑えて笑って、でしょ? と囁いた。
午後三時。ホームルームを終えると、みな足早に椅子を上げて机を下げる。部活へ急ぐもの、教室に残って自習するひと、そして用もないのにたむろするひと。狭い教室に閉じ込められた分子たちが一気に外へ飛び出していく。
放課後、彼女はいつも廊下の掲示板に寄りかかって本を読んでいた。あたしは彼女と一定の距離を置いて、複数の友人に囲まれてお喋りをする。これが日課だった。教室の掃除が終わって、彼女が自分の席に戻る。それを視界の隅で捉えながら、あたしは机に寄りかかって友人たちと他愛ない話をする。部活の話、テストの話。好きなアイドルの話。そして彼女たちが決まってしてくるのが、好きな人の話だった。それらの話題にあたしは全く食指が動かず、いつも聞き役に徹した。下手なことを言って地雷を踏むだけなら、何も言わずにただ促すだけでいい。「へえ、そうなんだ」「君はどうなの?」「良かったね」そんなことを状況に合わせて言えば会話は成立する。しかし、同等の経験と物語を共有することを友情の美徳とする彼女たちは決まってあたしにこう告げた。
「薺(なずな)は、好きな人作らないの?」
その質問にあたしは辟易していた。
そう聞かれる度に、あたしは彼女の姿に意識を集中させながら「ああ、あたしはそういうの、別にいいや」といつも同じ言葉を吐いた。
やがて、お喋りをしていた友人たちが少しずつ減っていく。もうすぐ塾の時間だから、寄るところがあるから、彼氏と約束してるから、と多種多様な理由で彼女たちは去っていく。それを全て見送って、ひとりきりになったあたしは、そこでやっと、教室の隅で座敷童子の如く静かに小説を読んでいた彼女の方を見つめた。
「お待たせ、帰ろ」
彼女の方を振り返って声をかける。彼女はぱたりと小説を閉じて、いそいそと帰り支度を始めた。スクールバッグを肩に掛けて彼女があたしに歩み寄り「なんの話してたの?」と、凝りもせず尋ねてくる。それはまるでふたりだけの秘密の儀式の一環のように思えていた。「あなたには関係ない話」と、あたしが邪険に扱うと「なにそれ、ひどい」と彼女は頬を膨らませた。だからあたしは逸らした視線をもう一度彼女の方に向けて、微かに笑うのだ。「嘘。あなたとあたしには、関係のない話」そう言うと彼女は嬉しそうに笑った。はじめに言っておくと、これは彼女を喜ばせるための口八丁ではなく、紛れもないあたしの本心だったことは、ここに書き記しておきたい。落ち込んだ後で喜ぶ姿が可愛いので、いつも決まってあたしは彼女に意地悪をするのだった。
彼女はあたしの腕に、するりと細い腕を絡ませる。この子は人との距離感がおかしい。それが無意識なのか、意図的なのかは分からなかった。それもパーソナルスペースがどうこう、という話とは少し違っていて、肉体の距離と、心の距離がどこかちぐはぐしている節があった。常に他人と言葉を交わさず、晴れ渡る空の下でひとりきりで笑う彼女は、あたしに心を明け渡した途端、ふとした拍子に抱きついたり、顔を寄せたりと、無邪気な仕草であたしの心を抉った。だからといって、その華奢な腕を振り払う度胸があたしにあるわけもなく、気恥ずかしい思いで、いつも彼女の表現を受け取った。それは心臓の裏を爪で引っかかれるような羞恥を伴った。
華奢な腕と腕を組み交わしたまま、あたしと彼女は放課後の学校を歩いた。もう生徒は残っておらず、職員室の中だけに、微かに人の気配がした。遠く向こうから、ボールをつく音や野球部の掛け声が聞こえて、あたしは不思議な気持ちになる。放課後の誰もいない教室は、世界にあたしと彼女だけを取り残して、くるくると回る回転木馬のように思えた。誰も見つからないことを、誰にも見つけられないことを、祈って続けるかくれんぼみたいに、あたしと彼女は、誰かに目撃されることを恐れながら、その実ふたりだけの秘密の表層を誰かになぞって貰いたくて仕方なかったのかもしれない。少なくともあたしはそうだった。
彼女の手を引いて歩く廊下は、お姫様をエスコートする騎士のように、あたしの心を強くさせ、踊らせた。彼女がいればあたしは何でもできる気がした。そしてそれは、彼女とあたしの、ふたりだけの空間で成立する魔法みたいなものに思えていた。
「薺、影法師を踏んで」
彼女はあたしの手を放し、無邪気に笑う。
「影法師?」
「小学生の時やらなかった?」
「覚えてない、なんだっけ」
そうあたしが言うと、彼女はあたしを引き寄せて、夕焼けに背を向けて立った。あたしと彼女の背が長く伸びる。影はあたしたちの身体から伸びているものの、大きく伸びすぎたそれは、あたしと彼女とは全く別の生き物になって、勝手にどこかへ歩いていってしまうような気がした。
「ほら、日に背を向けると影ができる。その影を踏む遊び」
「そんなの何が楽しいの」
「違う、楽しいとかそういうんじゃないの!」
彼女が頬を膨らませて怒るので、あたしはそれを可愛く思いつつ、悟られないように振る舞った。
「どうして影を踏むの?」
あたしが尋ねると、彼女は息をついて寂しげな目で笑う。あたしは彼女にそんな顔をさせてしまったことを切なく思った。しかし次の瞬間には、彼女は努めて明るく振る舞った。あたしの前でくるりと回って、彼女はその長いスカートを翻す。
「影を踏めば出られなくなるでしょう?」
「出られなくなる? どこから?」
「強いて言うなら、この世界から?」
「この世界? 君が思うこの世界って、どういう世界?」
「もう、薺。質問攻めにしないでよ」彼女はあたしの顔の前に人差し指を立てた。
「あなたとあたし、二人きりの世界から」
彼女は夕日に背を向けてあたしの前に立ちはだかった。あたしは彼女の影の中に包まれて、それは明けない夜のように不安に思えたけれど、彼女の作る影ならあたしは喜んで入るのだろう。
「もしこの夕焼けが沈まなかったら。あたしとあなたは永遠に傍にいられるのかな、と思って」
ぺら、と彼女の顔のルーズリーフが微かに靡くのがわかった。
「あたしは家に帰らなくて済むし、あなたはずっと傍にいてくれる。あたし、あなたに守ってもらうつもりはないけれど、それでもやっぱり君がいると、安心する」
彼女は夕焼けを眺めながらそう語った。日に透けた茶色の髪の毛や、擦りむいた膝がなんだかとても綺麗に見えて、不思議とルーズリーフの×印が、薄くなっていく気がした。
「あたし、今から柄にもないこと言うよ」
あたしは彼女の大きな影から出て、彼女の隣に立った。窓の向こうの真っ赤に染まった夕焼けが、目を潰しそうなほどに鮮烈で、怖かった。
「あたしと、君。この鬱屈した狭い世界から一緒に出られたら、今度は海の見える小さい家をふたりで買おう。そしてそこにふたりで住もう。そこにはあたしと、君がいて、それで世界は満ち足りていて……でもそこに、ウエルッシュコーギーがいたらもっと素敵だと思う」
夕焼けを眺めながら、彼女は黙り込む。あたしは不穏な気配を感じて、少し身構えた。彼女はゆっくり口を開く。
「ありがとう、すごく嬉しい」
彼女の空気が湿っていく気がした。ルーズリーフの下で眉を寄せて、必死に堪えている気配がした。
「でも、あたし、それを待てる気がしないの」
ルーズリーフに書かれた×印が、今はとてつもなく強い拒絶のように思えた。
「影を踏むのは、未来じゃなくて今じゃなきゃいけないの。今じゃないと、それは意味が無いの。薺にはわからないかもしれないけれど、今あなたがあたしの影を踏まなきゃ意味が無いの」
あなたにそれがわかる? と零して、彼女は俯いた。彼女の顔のルーズリーフが、手で丸め込んだようにぐしゃぐしゃと歪んでいて、顔が見えなくても泣いていることがわかった。あたしは、また間違ったんだろうか。
何の解決にもならないけれど、そうしなければいけない気がして彼女の肩を抱いた。すっぽりと収まる小さな体躯。顎を載せた彼女の肩が小さく震えていた。ごめんなさい、と彼女は小さく呟いた。
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