秘すべきことⅠ

チクタクチクタク、と時計が何度も囁いている。

悪い夢を見たのにその夢の内容が思い出せない。もやもやとした不快感を残しながら、むくりと起き上がる。時計の針は六時を指していて、起きるには少し早かったけれど、もう一度眠れる気なんてしなくて、あたしは制服に着替えることにした。心地悪い汗が滲んだ服を早くとっぱらってしまいたかった。

母の呼び声よりも早く起きて、ダイニングに向かったあたしの姿に母が驚いていた。「なんだ、今日起きれたんだ」と小さく笑って、彼女はフライパンの上に乗っていたベーコン付きの目玉焼きを、あたしの席の前に置かれた真っ白な皿の上に滑らせた。

コトコトと、鍋の煮える音がして、ぼんやりと考え事をした。頭に微かな鈍痛が残る。寝不足だろうか? それとも夜中までゲームをしてたせい?

欠伸を噛み殺して牛乳で流し込む。ふと、テレビの雑音が気になってそちらに目を向けた。

朝のニュースは色のない世界地図みたいで、この画面の中に世界のあらゆる薄暗いものが、ちっちゃく折りたたまれてぎゅうぎゅうに詰まってるかと思うと、吐き気がした。

『今朝未明、○○区の公園のベンチで女性の変死体が発見されました。衣服の乱れた形跡や現場の状況から、殺人と見て警察は捜査を進めています』

たっぷりとジャムを塗ったトーストを齧りながら、あたしは頭の中で、公園のベンチに転がる女の人の死体を想像した。ブラウスのボタンがとれて、下着が見えている。彼女は自分に跨る男に対して必死に抵抗したものの、声帯はすぐにかき切られ、声も出せぬまま痛みと屈辱とを味わう。叫んで掠れた声、必死に抗う身体。心は恐怖にまみれながら涙を流し、その命はある一点で不意に潰えた。

やがて、静まり返る公園で、自転車を押していたあたしは死体を発見する。あたしが見下ろすその景色に、居るのは殺人鬼の男でも、殺されたOLの女でもなく、あたしの頭の中で無惨に殺されているのは、真っ赤に染まったセーラー服と、黒くて長い髪。真っ白で、目鼻立ちの整った美しい顔に、大きな赤い×の書かれたルーズリーフを貼り付けた女の子。あたしの大好きな、あの子。彼女の亡骸を見つけたあたしは、ぽろぽろと涙を零しながら拳を握って、その白い、血の滲んだ細い首筋に指を這わせた。

そこであたしの夢想は終わる。

「物騒な世の中ね。うかうか外も歩けないわ。あんたも気をつけなさいよ」

エプロンを外しながら母が微かに笑った。うん、と生返事をして、赤いジャムをたっぷり付けたトーストを詰め込んだ。


七時半。母の運転する車に揺られて、あたしは学校へ向かう。青空の下、微かに小雨が降っていて、自転車に乗った男子高校生は濡れないように自転車を急がせる。集団で登校している女子たちはきゃー、と小さな悲鳴を上げながら楽しそうに走っている。

車の中で雨に濡れず、揺られているあたしだけが、世界から切り取られてしまったかのように思えた。映画のように流れていく景色を眺めていると、その景色の中にあたしはあの子の姿を発見する。真っ赤な傘。彼女はその傘をくるりと回して、ゆっくりと歩いていた。あたしはすぐに彼女に釘付けになる。彼女だけが映像の中で静止しているように、あたしの目に焼き付いていく。彼女の顔が見える。黒く長い髪をふわりと揺らして、今日も顔には×印のついたルーズリーフを貼り付けている。やがて彼女は景色の中からフェードアウトする。彼女の姿を見て、あたしはほっと胸を撫で下ろした。

教室につくと人はまだまばらで、数少ない生徒たちは静かに今日の課題のチェックをしている。まだ八時をすぎたばかりで、この時間に着いている人達はみな勉強熱心で、他の煩いしっちゃかめっちゃかな子達が来るまでは比較的大人しく各々の時間を過ごしていた。

「あ、薺(なずな)おはよ」

前の席の女の子が声を掛けてくれた。

「おはよ。雨濡れなかった?」

「雨降ってたの?」

「うん、降ってた。ちょっとだけど」

「へえ、中にいたから気づかなかった」

彼女はくすりと笑って、開いていた教科書に視線を移した。勉強道具を机の中に入れて筆箱を放り出した時。からり、とドアの開く涼しげな音がして、あたしはそっちに視線を向ける。まっさらな黒髪が小さな肩を撫でて、あの子がやってくる。あたしはその姿を確認して、視線を逸らした。彼女に悟られないように。しゃん、しゃんと、しなやかな音が聞こえてきそうなほどゆったりした歩き方で、彼女はあたしの隣を通過する。「さっきあたしのこと見てた?」蚊の鳴くような声で彼女が囁いた。「見てないよ」あたしは即座にそう返して、すると彼女は笑ったみたいで(ルーズリーフを貼り付けているからよくわからないけれど、雰囲気で笑っているような気がした)。あたしの後ろの席に着いた。


かったるい月曜の一限は体育で、ホームルームが終わると袋に詰めたジャージを各々手に取って体育館へ向かう。「薺、行くよ」と少し離れた席の友達があたしを迎えにくる。ふと、視界の先にあの子の姿が映る。後ろの席の彼女は紙を貼り付けたまま座っているばかりで移動する気配がない。みんなが行ってから独りで行く気なんだろう。あたしは友達に指を引かれ、体育館に向かった。

女子ばかり詰め込まれた更衣室は、年季の入ったかび臭い匂いがする。この空気に、あたしはいつも居心地悪くなって視線を逸らす。誰の肌も下着も見てはいけないような、そして見られてはいけないような、恐ろしい心地がした。なるべく早く終わるように、更衣室に入った途端に制服のボタンを外し始める。女子更衣室の気配が、どうしても好きになれなかった。むせ返る制汗剤の匂いと、髪止めを外したシャンプーの匂い、それらが絶妙に混ざりあった臭いは、えづきそうになるほど甘くて幼くて、吐き気がする。

下着の上にキャミソールを着ていなかったらからかわれること。親しい友達がお腹の肉を摘んでくること。じゃれあいみたいにかわいい素振りで誰かが誰かの胸を揉む。それを、愛らしい遊戯としてこの空間は片付けて、青春と名付けて記憶の片隅にしまい込む。あたしはその遊戯が恐ろしくて仕方がないからいつも、目を伏せる。見なかった振りをして、見えない振りをする。

灰色のスポブラの上には白いキャミソールを着て、それが透けるのを恐れてもう一枚キャミソールを重ねる。あたしは慣れた手つきでスカーフを外してちゃっちゃと着替えを済まして、友達が着替え終わるのをスマホの画面に視線を落としながら待つのが常だった。

静かに、あの子が更衣室に入ってくる。彼女はあたしの少し離れた場所に立って、手首に付けていた紺のゴムで長い髪をひとつに束ねた。白いうなじに、赤紫の印がついていたのを、あたしは見逃さなかった。

赤いスカーフを解いてセーラー服を脱いだ時。キャミソールを着ていない下着だけの姿に、皆が静まるのがわかった。あたしは目を瞑りたくなって、なんだか喉の奥がひりついて痛くて仕方がなくて、なのに、あたしだってどうしても彼女の肌を見てしまう。そしてそれは、一度見れば忘れられない烙印になる。白い肩には大きな青あざ。背骨の浮き出た薄い背中には、丸い絵の具を垂らしたような点々とした焼印が見える。皆がそれを固唾を飲んで凝視して、隣にいる女の子の肩を小突いて、ざわざわと何か耳打ちを始める。

しかし、彼女はそれを隠す素振りも見せず、ただその無防備な身体を晒して、それからまた白いTシャツの中にしまい込む。ただそれだけだと言わんばかりの、淡々として、堂々とした姿に、あたしは見とれていた。

Tシャツを被る時、彼女の顔の紙がひっぱられて、床に座り込んでいたあたしから、微かにその口元が見えた。薄く形のいい桃色の唇は、何もつけていないはずなのにきらきらと輝いているように見える。その先の表情が見えることを期待して、あたしは彼女の内側を見つめていた。でも、彼女の紙が取れることはなく、Tシャツから顔を出した彼女はぴん、と張った折り目すらない紙を貼り付けたままだった。どういうわけか、彼女の紙は破くことも書き込むこともできない。


着替えが終わって体育館に集まると、更衣室の前で女子がたむろしていた。その中心でもなく、かといってあぶれているわけでもない端っこの壁に凭れ掛かりながら、あたしの友達が、ジャージのファスナーを上まで上げる。それから彼女はあたしをちょん、と小突いて「鳳(おおとり)さん痣すごかったね、隠さないのかな」と徐に呟いた。独り言めいた響きにあたしは何も返さず、ただ彼女のその、純粋無垢な疑問に胸を痛めていた。

あれは、隠さなきゃいけないものなのか。あたしはふと思う。この世界で、あの傷跡や痕跡は秘められるべきものだということに、あたしはなんだか少し傷ついて、それと同時に、悲しく思う。

体育の授業はバレーボールで、何人かでグループを組んでサーブを回していった。高三にもなると体育は、仲のいい子たちで組んで何ヶ月かごとに好きな競技を選び、その競技をグループで順番に回していくという自由度の高いものになった。出席番号や背の順に囚われず、好きな子と好きなように組めるのは楽しい。でも、それは同時に膿と孤立を生む。あの子はどのグループにも混じらず、ワックスでぴかぴか輝く床の上に体育座りをしてボールを眺めていた。

サーブを順番に回していく時、あたしは振り返って彼女を眺める。でもあたしはあの子に声を掛けられないまま、その小さな体躯を眺めるだけだった。そんなあたしを尻目に前のサーブの子が彼女に声を掛けた。

「鳳さん、来て! サーブテストしよ」活発なその子の耳の後ろで、シュシュで結んだ髪が揺れて、ハーフパンツから覗く膝小僧がやけにつやつやして見えた。あの子は顔に紙を貼り付けたまま、てくてくと小走りに駆けてくる。活発な女の子に促されて、あたしと友達はネットの向こうでボールを拾うことになった。緑色のネットの向こうに、赤い×印が見えた。

「投げるから打ち返してねー、5回だよ!」

活発な女の子があたしたちにも聞こえるように呼びかけた。そしてそのまま、彼女にボールをトスする。最初の二回は打ち返したボールがネットを出なかった。次の二回、ボールはネットを超えて、点数になった。最後の一回、彼女に打たれたボールが、その手首の上で、パン! と割れるような高い音を立てて跳ねる。それは円い軌道を描いて、あたしの目の前に落ちてくる。

その時、ネットの向こうで揺れた彼女の紙が、ばさばさと波打っていた。彼女の黒い髪が背中でさらり、と揺れて、そのハーフパンツから出たあんまり綺麗じゃないくすんだ膝小僧とか、腕に微かについた痣の跡を、あたしは見ていた。

「薺! 危ない!」

その声が聞こえた時には既に遅く、彼女の打ったボールが真上にあった。バン! と衝撃音がして、あたしの顔面にボールが当たる。それは、あたしの顔に直撃すると、威力が弱まったのかころころと床を転がった。

「大丈夫?」

友達が駆け寄ってくる。薺が避けられないなんて珍しいね、と笑いながら、彼女はあたしの肩を抱いた。

「……大丈夫」と答えた直後、たらりと鼻先を温かいものが流れて、あ、やばい、と思った。鼻先を指で拭うと赤いものが付着して、隣にいた友人が青ざめた。

「先生!」


その後のことはあんまり覚えていなくて、とにかく傍らの彼女があたふたして、そして視界の先で、あたしにボールを当てた張本人はわりと涼しげな顔をしていた(紙を貼ってるから本当はどうだかわからないけど)。あたしは友達に保健室に連れていかれて、念のため当てた本人も連行されることになって、でもさすがに3人いるのは多すぎるから、と友達が名残惜しく体育館に戻っていったところで、ちょっと親御さんに電話入れてくるわね、と保健室の先生もいなくなったところで、あ、ふたりきりになってしまった。と我に返った。

しんと静まり返った保健室は、誰かが寝ているのかいくつかのベッドのカーテンが閉まっていた。保健室はなんだか、不思議な気配がする。誰もいないみたいに静かなのに、やっぱり誰かがいるからこそ、どんよりした重苦しい空気が流れている。ここに居るだけで気持ちまで落ち込んでしまいそうだ。あたしと彼女はちょこんと椅子に腰掛けて、口を開くこともなくただ押し黙った。

やがて珍しく、彼女の方から口を開いた。

「避けられないなんて、らしくないね。よそ見してたんでしょ」

「してないよ、ちゃんと見てた」

「それはボールを? それともあたしを?」

ルーズリーフの向こうで彼女がすこし笑った気がした。あたしはそれに何も返さず、ちらりと彼女を見た後で、また俯いた。取り合うのも今は違う気がした。

「最近そういうの多いよね、薺」

親しげに名前を呼んで、彼女はあたしに話しける。その時ふっと、肩の力が抜けるような柔らかな心地がした。あたしの白と黒だけの世界の端っこに、彼女の豊かな色合いが滲むような、退屈の中に感じるちょっとの、あ、これ何かが変わるかもって感覚。そういうものが、じわりと滲んだ。

「そういうのって?」

くつりと笑って彼女を眺めた。すると彼女は楽しげに小首を傾げて「よそ見とか、そういうの」と言った。

「そんなにあたしが気になるの?」

彼女は得意げに紺の髪ゴムを外した。ふわりと、嗅いだことのないシャンプーの匂いがして、それは別に甘い訳じゃなくて、でも、どんな匂いかと聞かれたら上手く説明できない。なんだか不思議で、あんまり女の子っぽいなって感じじゃない匂い。だから余計に、あたしは居心地が良かった。

「今日は、キャミソール着てないの?」

彼女の問いには答えずに、目を伏せたままあたしは尋ねる。無意識に重い声になってしまったことを反省しながら、でもやっぱり取り繕えずに俯いた。すると、彼女は努めて明るい声で、どうしてそんな束縛激しい彼氏みたいなこと言うの? と言った。

「洗濯間に合わなかったの」

それじゃ理由にならない? 笑いながらあたしの顔を覗き込む。覗き込まれても見えるのはルーズリーフとその上に大きく描かれた×印だけだったけれど、あたしを励まそうとしてくれているのが見て取れた。

「それとも、こんな身体晒すなって、薺も思う?」

「それは思わない」

あたしは断言した。すると彼女は少しだけ驚いた様子でこっちを見た。

「君は変な子だね」独り言のように、彼女は囁く。

「きっと、この世の大抵の事は、……んー、要は大多数にとって当然じゃないことは、できるだけ口を噤んで、まるでそれ自体が禁忌みたいに、最初から存在しなかったみたいに扱って、世界から消してしまいたいんだと思うの」

その方が都合がいいから、と言いながら、魔法のステッキを振るみたいに人差し指を振った。

「例えばあたしとか、ね」

本気とも冗談ともつかない笑顔に、あたしはただ笑って誤魔化すだけでなにも答えられなくなる。なのに彼女はこんなあたしの不貞を叱ったりもしなかった。

「そして、そんな薺は秘することを好まないひと」

声を漏らして笑ったあと、彼女は続ける。

「あなたは多分、自分の人生とか他人の人生とかを覆してしまいかねない秘密を、墓場まで持っていくことの出来ない正直なひと。ここが日本っていう宗教の浸透してない国じゃなかったら、真っ先に教会の懺悔室に引き篭って泣き喚いてしまうようなひと。でも、あたしはそんな薺のことが嫌いじゃない。ていうか、結構好きよ」

淡々と表情を変えずに言ってのけた彼女を見やる。汚れたあたしの体操着を畳みながら、しゃんと背筋を伸ばして手を動かしていた。

「褒められてる気がまるでしないんだけど、それはお礼を言っていいの?」

「もちろん」

「それじゃあ、ありがとう」

それじゃあ、ってなによ。と彼女が返す。あたしはぼんやり思う。あたしが秘密を墓場まで持っていけない馬鹿正直な人間なら、君は秘密を墓場まで持っていける寡黙な賢者だと。でもそう言ったら怒られる気がして口を噤んだ。

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