ワン・モア・ロストタイム
天上ひばり
プロローグ
「ねぇ、薺(なずな)」
彼女の声がした。ぱちぱちと耳の奥で、火花の爆ぜる音がした。彼女の呼び掛けに、あたしは答えることもなくただ黙り込んだ。
「わたしね」彼女が口を開く。その口元が、点滅する街灯の朧げな光で上手く見えない。
放課後、日が落ちてから、あたしたちは公園でひっそりとふたりきりで手持ち花火をしていた。しゅーしゅーと音の鳴る、光り輝く手持ち花火ではなく、なぜだか線香花火に火をつけて、その小さな玉が落ちればまた次の線香花火に火を灯す。まるで命を弄ぶような、粛々とした儀式みたいな行為を、ふたりきりでしていた。
「薺にずっと、言いたかったことがあるの」
彼女の顔をよく見ようとして、目を擦った。瞬きをした瞬間、ぐるりと世界が回転して、彼女とあたしは教室にいた。白いカーテンが揺れて、誰もいない教室。真昼の鈍い光が窓から差し込んで、逆光の中、また彼女の瞳が見えなくなった。彼女は裸足で、ぺたぺたと床を叩くように足を揺らした。
「あたしずっと」
彼女が振り返る。その瞬間また世界は反転する。今度は、誰もいないバスの後部座席に肩を寄せあって座っていた。彼女の長い、茶色い髪が、夕焼けの色を反射してあたしの目を穿つ。彼女の温かい体温だけが、悪夢の中で見る懐かしい現実のような質感であたしの肩に乗っかっていたのだ。
「あなたのことが」
あたしは静かに目を閉じる。次に目を開けると、真っ赤に染まった太陽を背に彼女は立っていた。あたしの目の前に広がっていたのは、見渡す限りの海と、茜に染まった空だけだった。世界の終わり、そう思わせるには十分すぎる景色だ。あたしと彼女は鋭く張り出した崖の上で、海風に煽られる。
岸壁にぶち当たる波の音がうるさくて、彼女の小さな声はかき消されそうに思えた。しかし、静かな微笑を称えたままの彼女の声が、直接あたしの鼓膜に響くような、甘美な色を持ってあたしに問いかける。
「ずっと、嫌いだった」
静かに彼女は言い放つ。それから、にこりと笑う。背筋が凍るような感覚を覚えて、あたしは乾いた喉で唾を飲み込んだ。
「あたしのことがずっと嫌いだった?」
怯えきった瞳でそう聞き返した。すると彼女は視線の先で頷く。うん。ただそれだけを呟いて、彼女は笑う。貼り付けたような笑顔のままで。
「だから、あなたとはここでお別れしなきゃいけないの」
その笑顔にあたしは気が遠くなる。何度も見た悪夢をもう一度見させられているような気分になって、背中を冷や汗がつたう。あたしは首を振った。しかし彼女は静かに微笑むばかりで、取り合ってくれない。
「さよなら、薺」彼女は呟く。その顔は最後まで見えない。見えなかったけれど、泣いているような気がした。わからない。あたしに都合のいい幻覚だったのかもしれない。
やがて、彼女は静かに足を踏み出す。空を歩くかのように優雅で楽しげな足取りで、宙に一歩踏み出した。
その時、あたしはえもいわれぬ不快感と、胸を突き上げるような吐き気を覚えて走り出す。ああ、これじゃ、またあたしは間違えると、ぼんやり頭の中で思考しながら、走る。そして、彼女の手を掴む。掴もうとした。しかし、そのか細く白い手首はあたしの手をすり抜けて、するりと落下した。
ただひたすら。うるさい波の音だけが、やけに近く自分の耳元に木霊した。遅れて心臓のどくどくと、やかましい雑音が耳に響いた。こめかみに燃えるような鮮烈な痛みが走って、あたしは自分の過ちをまた後悔した。耳から心臓が飛び出してきそうなほど、強く、うるさい鼓動。あたしがまだこの世界に生きているという、覆しようのない実証。
見下ろす視界の真ん中には、荒れ狂う波だけが見えていた。やがてその水面に、白い影が浮かび上がるのがわかる。あの子が着ていたワンピースだ。その額縁は、薄汚れた肉体に残る傷跡を、どの瞬間も、痛々しく飾り立てていた。
あたしはきっと、あなたのお腹に浮き上がったいくつもの傷跡や焼印を、決して忘れることはないのだろう。汚い体、と嘲笑するように笑った、あの泣きそうな瞳を忘れられないのだろう。
「×××」
呪詛のような言葉は君の名前。あなたを殺したひとが、可愛いあなたにつけた名前。涼やかに鈴が鳴るような、静かで凛として、繊細で綺麗な音の響き。あたしは君のすべてが、好きで、でも君の、君が持っていた全てを、あたしは受け入れられずに否定した。
「ねぇ、×××。あなたはあたしを嫌いだと言ったけど」
最後にあなたを襲った印が、あなたの罰だと言うならば、あたしの罪の代償は、君のいない世界で生きなければならないなんて、嘘みたいに凄惨な皮肉。
「あたしはあなたのことが、大好きだったよ」
すり抜けた細い腕を思って咽び泣く。終わらない夕暮れみたいな茜の太陽が、焦げ付くほどにあたしを見つめていた。
やがて巨大な太陽の前にきらきらと不自然な光が乱反射した。その光は次第に大きな帯状の線となって、一直線に煌めいた。ガシャガシャガシャと何かの組み立てられるような不思議な音が鳴り響いてあたしは顔を上げた。見ると、太陽を真っ二つに割ったように真ん中を引き裂く白い光が見える。それは失明しそうなほどにまばゆく輝いて、中から錫杖のような凹凸のついた巨大な円環が現れる。ゆっくりと、くるくる回る光り輝く円環の中央に、喪服のような黒いタキシードを着た少年が立っていた。彼はあたしを見下ろして、笑った。
「もう一度あの子に会いたい?」
真っ赤な瞳であたしを眺め、そう嘯いた。彼がパチンと指を鳴らす。その時あたしの頭の中に、これまでのループの記憶が走馬灯のように流れ込んで、巨大な情報の渦となってあたしを飲み込んだ。あたしはこめかみに汗を滲ませながら微かに笑った。ギリギリと、奥歯が震えて軋むのがわかる。
あたしは彼の正体を思い出す。目の前の少年は、神の名の元に命の座を譲り、そして渡す使者だった。彼はあたしにひとつのゲームを与えた。彼女の命の座を取り戻すゲームだ。いつか彼は円環の上で静かに微笑み、あたしにゲームに臨む為の力を与えた。
「どうする薺。帰る、帰らない? それとも諦める、諦めない?」
彼は静かに足を組む。余裕綽々と膝の上で頬杖をついてあたしを見下ろしていた。神の使いだからって、クソ生意気なガキだなとあたしは思う。
「諦めて、たまるか」
あたしは彼を見上げる。額に流れる熱い汗と、血走った眼を眺めて彼はほくそ笑んだ。やがて彼は静かに立ち上がり、左腕を頭上に掲げる。彼は悠然と、一度だけ指を鳴らした。
「次こそは健闘を」
彼は微笑んだ。他人事だと思って傍観する姿勢に腹が立ったが、あたしはまた彼のことを、彼との契約のことを忘れてしまう。
やがて、彼が指を鳴らすと、世界はぐにゃりと円を描くように歪んで、渦に巻き込まれる。見ていた景色が彼の立つ円環の中心に吸い込まれていく。強い風が吹いて、目を瞑った。足場が崩れてあたしは真っ暗な闇の中に落ちる。落ちる。そうして、意識の糸をつう、と後ろから引っ張られるように猛烈な眠気に誘われて、引き戻された。それは全て彼の手中に思えるような、気味の悪い心地だった。見上げる視界の先で少年が微かに笑いながら、光り輝く円環の上であたしを見ていた。
嫌な心地を覚えながら、強引な眠りの中へと堕ちていく。
今度こそはあなたを、助け出してみせる。
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