坂下家
第10話
里親さんは、坂下さんという夫婦だった。二人とも、あたしの両親よりひとまわりくらい年上。聡美さんと、浩次さん。聡美さんは少しぽっちゃりとした、エプロンの似合う人で、浩次さんは少し寡黙そう。だけど二人とも、第一印象は「優しそうな人たち」だった。
「私はあなたのこと、本当の娘だと思って接するからね」
そう言ってもらったときは、嬉しかった。これでやっと、普通の家庭の子になれるんだ、普通の子になれるんだ、と思った。
最初の一週間は、まず、家に慣れることだった。家でのルールを細かく説明され、家の中を案内してもらった。あたしの部屋も用意してあった。ナチュラルな色を基調とした可愛らしい部屋で、ベッドと机と小さな本棚が置いてあった。
「狭い部屋でごめんね」
「いえ、とんでもないです」
恐縮して、肩がカチコチになってしまう。
生まれて初めての自分の部屋。
感動で胸がいっぱいだった。
「敬語なんか使わなくていいのよ。親子なんだから」
聡美さんはそう言って、優しく笑った。目じりにできた笑いじわが、素敵な人だった。
その日は聡美さんが焼いてくれたケーキでお茶をし、その後は自分の部屋でゆっくりしていた。夕ご飯ができると「ごはんよ」と呼ばれ、はあい、と返事をすると、あたたかな料理がテーブルに並んでいる。
夢みたいだった。
前の家では、中学生になった頃から食事を作っていた。料理を教わったことなんかなかったから、すべて独学。怪我をしても心配してもらったためしはないし、作った料理を「まずい」とたびたび罵られた。あたしを除いて外食に行かれたり、目の前でコンビニ弁当を食べられた時もあった。四人分の料理が手を付けられずに冷めていく光景は忘れられなかった。
おいしいご飯を食べて、食べ終わったら聡美さんと一緒に洗い物をした。スポンジを握る手を覗き込み、「手、荒れてるのねえ、大丈夫?」と聡美さんは心配してくれ、洗い終わった後は、いい匂いのハンドクリームをつけてくれた。
この家なら、きっと大丈夫。不安は、ホットケーキに乗ったバターみたいに、じわりと溶けた。
今はまだ緊張してしまうけれど、いつか、本当の母娘みたいに甘えられたら。そんな風に想像した。
一週間経つと、やっと念願の学校に行けた。久しぶりに登校したあたしを、友達みんなが心配してくれた。先生たちも事情は知っているから、「つらかったな」とねぎらいの言葉をかけてくれた。
「でも、勉強サボった分は取り返さないとな」
屈託なくそう言われた時、ぽかぽかしていた心の中に、冷たい風がびゅうと吹き込んだ。
サボってたわけじゃ、ないのに……。
二カ月も経てば、授業は大幅に進んでいる。あたしの知らない知識も、みんな知っているのが当たり前。ノートをとってはいたけれど、内容は全く頭に入らない。
やっと来られた学校。なのに、帰る頃には、不安で動機がとまらなかった。自分だけがものすごく置いていかれている。このまま、あたしは、ちゃんと進学して、看護師になれるんだろうか。
沈んだ気持ちで下校した。優しい聡美さんに慰めてもらいたかった。
「ただいま」と玄関の扉をくぐり、とぼとぼ歩く。
「おかえり。学校、どうだった?」
台所で鍋をかきまぜながら、聡美さんがにこやかに訊いてくる。
「授業、全然わからなかった。……二カ月も経ってると、やっぱり、厳しいね」
そう、と冷たい声がした。
え? と思う。素っ気ない感じがしたのは、何かの間違いだよね?だって、聡美さんは優しいはずだもの。
「大丈夫なの?」
顔は笑っているけど、目は笑っていない。
ぎゅっと心臓がこわばった。体温が下がるのに、うっすら汗の出てくる感覚がした。
「わかんない……けど、がんばるよ」
「そうね。がんばって、ちゃんと周りの子に追いついて、普通の子にならなきゃね」
聡美さんの笑顔は、例の穏やかな表情のまま。
不穏だったのは一瞬だけ。きっと大丈夫。強く脈打つ胸元をおさえ、自分に言い聞かせた。
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