第4話

 2021年、あたしは高校生になる。

 高校生になるともう、家のほとんどをあたしがまわしていて、あたしが家事に追われている間、両親はそろってテレビを見ながら笑っていた。まるであたしなんていないみたいに。

 妹は、家でも相変わらずうまくやれる子だった。一応あたしの味方ではあるけれど、父母がいる前で、あからさまにあたしを庇うことはしなくなった。それが処世術だとわかっていたのだろう。あたしの味方なんてしたら、悪戯にあいつらを怒らせることになるから。

 そうして季節が過ぎ、9月。どうしても調べておきたいことがあって、あたしは頭を悩ませる。

 看護師になるためには、看護学部があるところか、看護の専門学校に行く必要がある。家から通える範囲以外に許されないことはわかっている。けれど、あたしの家の近くの大学は、勉強の得意でないあたしにはとても高望みのところだった。

 あたしは自分がどこに行くべきか迷っていた。こんな家、出たい。その気持ちはいつの間にか芽生えて、既になじんだものになっている。だけど、それが可能なのか。可能だとしても、不可能だとしても、あたしは自分がどこに向かって進めばいいのかわからなかった。

 何日も悩んだ。学校のパソコンは無許可には使えない。ただでさえ勉強が苦手で、目をつけられているあたしだ。先生と話をするのは怖い。

 だけど、あたしのスマホには制限があって、検索エンジンが使えない。最低限の連絡ツール以外に実質的に使えない状況だった。

 どうしても、どうしても、情報を手に入れたい。

 あたしは、一歩でもいいから、自力で前に進みたかった。


 9月20日。昼間は猛暑のひどい日の、ようやく涼しくなってきた夜。外はまだ薄く夕焼けの残滓が残っていた。

 買い物に出かけた父さんのスマホが、リビングのテーブルに無造作に置いてあった。

 ごくり、と唾を呑んだ。

 今なら、きっと。

 逡巡しながらも、あたしはそれに、手を伸ばした。

 いけないことだとはわかっていた。でもこうしないと、あたしは前に進めない。震える手で文字を打ち込み、検索をかけた。情報は瞬く間に羅列される。どれから見たらいいのか。焦りと不安と混乱に同時に襲われる。すぐに戻さなきゃ。早く終わらせなきゃ。

「お姉ちゃん?」

 妹が、気付かぬ間に、リビングに顔を出していた。

 まずい。告げ口でもされたら、きっとひどい目に遭う。

 咄嗟に固まってしまったとき、玄関の扉が開いた。

 

 時間が止まったかと思った。

 あたしを凝視する両親と妹。父のスマホをもって、動けないあたし。


「てめえ、何してんだ」

 どすどすと足音が近づいて、スマホがひったくられる。言い訳をする暇もなかった。父さんがあたしの頬を強く張った。ごめんなさい、と言おうとしたらもう一発。

「誰が触っていいって言った!」

 椅子ごとひっくり返される。お腹につま先が入る。痛さと苦しさでえずきそうになる。手の先が、じん、と痺れた。

 妹は、ただ震えていた。

 母は無表情でこちらを見ていた。

 

 それから、どのくらいの時間が経っただろう。ひどい暴力を、ただ嵐が過ぎるのを待つように、待っていた。その時のことはあまり記憶がない。気づけば日が沈み切っている。さかさまの視界の中の窓は、鏡のように、荒れ切った部屋の中を映す。いつの間にか部屋の中に母さんも妹もいなくなっていた。

 ぐったりと横たわるあたしと目が合った。

 父さんが何事かを言い、二階に上がった。

 もう限界だ、と思った瞬間、涙がこぼれた。

 あたしはよろよろと立ち上がり、壁伝いに歩いた。こんなところにこれ以上いては殺される。

 ――逃げなきゃ。

 不意によぎった感情は、自覚したとたんに一気に膨れ上がった。

 足音と息を殺そうとするほどに、耳につく気がした。寒くもないのにがちがちと歯が震えた。

 ちらりと時計を見る。夜の10時。

 あたしはサンダルをつっかけ、扉に手をかけた。

 肌寒い風が、半袖の手足の隙間を、すうっと抜けていった。

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