おはよう蒼馬とおやすみ静

「へえ、それじゃあ子供の頃は腕白っ子だったんですね」

「そうなの。男子と一緒に外で泥遊びとかして、親に怒られたりしてたのよ?」

「意外です。俺が知るひよりさんは、何というか女性らしい印象だったので」


 スタートしてからは既に三十分ほどが経過していた。大体五キロメートルになるよう事前にコースを調べてきたんだが、今は丁度半分に差し掛かった所だ。


 準備運動としてはとっくに十分な距離ではあったけど、俺たちはまだゆったりまったりと歩いていた。話すのが楽しくてジョギングする気にならなかったんだ。ひよりんは恐らく俺に合わせてくれているんだと思う。


「勿論今はそんなことしないのよ? あ、でもライブ中は結構童心に返っているのかも。生放送とライブでキャラが違うって言われるの、私」

「あ、それは俺も思ってました。俺は今はこうやって普段のひよりさんを知ってますけど、ひよりさんが引っ越してくる前も、やっぱりライブ中のひよりさんはかっこいいなって思ってましたもん」

「そうだったんだ。じゃあ蒼馬くんはライブ中の私のファンってことかな?」

「いや、全部ですね。どんなひよりさんも『推し』なので」


 普段より普通に話せているのは、恐らくこのペアルックのせいか。大事の前の小事というか、大きな恥ずかしさで心が麻痺しているような気がする。折角選んでくれたのにこの言い草はないかもしれないが、まさに災い転じて福と成すだ。


「じゃあ…………『支倉ひより』も……推してくれる……?」

「えっ?」

「あ、あははは! ごめんなんでもないの! ほら、そろそろ走りましょ!?」


 言うや否や、ひよりんが駆け出す。


 小さくなっていく背中を俺は慌てて追いかける。クッションの効いたランニングシューズはまるで羽毛のように軽くて、まるで雲の上を歩いているみたいだった。それが楽しくて、俺はひよりんがボソッと呟いた言葉が何だったのか、聞き返すことを忘れてしまった。



 十五分ほどジョギングをし、俺たちはマンションまで戻ってきた。


「あっつ…………」

「ふぅ……ふぅ……あついねー」


 ひよりんがパーカーのジップを下げ、パタパタと胸の辺りを扇いでいる。あんなにぎゅうぎゅうになっていたらそりゃ暑いだろうな。


 というか普通にエロすぎんだろ。俺は当然視線を逸らした。


「はぁ、はぁ…………なんか…………あれですね。ひよりさん、あんまり息上がってないですね」


 俺が膝に手をついて肩で息をしているのに対し、ひよりんは多少呼吸は大きいものの特に辛そうにしている様子はない。俺の方が若いのに、なんだか恥ずかしい。


「ふふ、声優って意外と体力仕事なのよ? ランニングが日課だったり、ジムに通ってる子も多いんだから」

「そう、だったんですね…………確かにライブとか、凄い動きますもんね」


 早朝のしっとりとした空気が汗を急速に冷やしていく。大急ぎで呼吸を繰り返していた肺も、シンと澄んだ空気を取り込んで落ち着きを取り戻してきた。


「そうなの。ザニマスのファーストライブ、本当にレッスンが大変だったのを覚えてるわ。それまでは歌って踊るなんて経験はなかったから」


 考えてみれば当たり前のことではあった。俺があの日ライブ会場で目の当たりにした輝きは決してあの瞬間だけの刹那的なものではなく、彼女たちの血の滲む努力の結晶なんだ。一体どれだけの練習をすればあんなに輝けるのか…………想像する事すら失礼な気がした。


「何と言うか…………ありがとうございます」

「お礼? どうして?」

「ひよりさんが頑張ってくれたお陰で、俺はひよりさんに出会えましたから。勿論俺はただの名も無き一人のファンでしかないんですが…………それでも『八住ひより』という存在に出会えて本当に感謝してるんです」


 人が『推し』に出会った時…………そこにあるのは圧倒的な『感謝』の念。あの時ステージの上でまばゆい輝きを放っていたひよりんの姿は、今でも俺に勇気をくれるんだ。


「あはは…………そこまで真っすぐ言われると、何だか照れちゃうね。でも…………ありがとう。蒼馬くんにそう言って貰えて、本当に嬉しいよ」


 そう言って、ひよりんは俺に笑顔を向けてくれる。薄っすらとピンク色に上気した頬や、そこにキラリと光る汗。おでこに張り付いた髪の一本一本まで、全てが尊かった。


 …………本当に、夢のようだ。『推し』が傍にいる生活っていうのは。他のどんなことでも摂取出来ない栄養素がここにはある。


「…………ぬ?」


 マンションの玄関から間の抜けた声が聞こえてくる。目を向ければ、ラフな格好の静が目の下にクマを作りながらとぼとぼとこちらに歩いてきていた。


「うひゃ~、ホントにやってるよ…………え、ていうかめっちゃペアルックじゃん」

「うっ……それは言うな」

「やっぱりおかしいかな……?」

「そだねえ、めっちゃ目立ってると思うなあ」


 静は目をごしごしと擦りながらすぐ傍までやってくる。


「うわあ、めっちゃ汗かいてるし。朝からお疲れ様だよ……」


 寝不足で頭があんまり回ってないんだろう、ここまでローテンションな静は中々珍しい。


「静は今まで配信してたのか?」

「配信とか、あと動画の編集とかね…………ふあぁ……ねっむ。じゃあ私は行くねえ」


 口に手を当てながら、静は俺たちを追い越して歩いていく。行先は恐らく近くのコンビニだろう。静の生態をマスターしている俺の予想では、恐らくスパゲティか何かを食べてから寝る気だ。めちゃくちゃ太りそうな生活だが、太らない体質の静の前では大盛スパゲティも精進料理に等しい。


「…………静! おやすみ!」

「ほぁ~い」


 もう一人の『推し』の背中に声を掛け、俺たちはマンションに帰った。

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