『推し』と朝活

「…………うし、行くか」


 いつもより早い目覚ましを止め、ひよりんに買ってもらったランニングウェアに袖を通す。通気性や吸水性に優れたウェアはとても軽く、インナーの上からだとほとんど重みを感じられない。何だか身体が軽くなったような錯覚に陥って、足取りも自然と軽やかになった。


 ただ…………気になることが一つ。


「…………やっぱり似合わないなあ」


 姿見の前で手を広げてみる。そこには自分では絶対に選ばないであろう、明るい黄色のパーカーに身を包んだ俺が立っていた。じーっと眺めていても違和感は全く消えず、何だか自分が自分じゃないような気さえする。服が違うだけでこうも自己認識が希薄になるなんて。


 薄暗いリビングの中でぼーっと自分じゃないような自分を眺めていると、ポンとスマホが音をたてる。画面を確認すると、ひよりんからルインが来ていた。


『起きてる?』

『起きてます。今降りますね』


 ひよりんとのルインは未だに少し夢見心地だ。『推し』の声優と個人的にやり取り出来るなんて、少し前まで想像もしていなかった。


「…………」


 黄色いパーカーに身を包んだ自分も、これから『推し』と一緒にジョギングするという事実も、今日は何から何まで現実味がない。夜でも朝でもない世界の中で、俺だけがまだ夢の中にいるようだった。



 マンションの前には、既にひよりんが待っていた。真冬ちゃんはまだランニングウェアが用意出来てないらしく、今日はこれがフルメンバー。


「おはよう、蒼馬くん」


 俺に気がついたひよりんが控えめにこちらに手を振る。小走りでひよりんの元まで向かうと、まだ少し夜の冷たさを残した澄んだ空気がすーっと肺の中に入り込んでくる。


「ひよりさん。おはようございます」


 爽やかで少し湿った空気が肌をしっとりと濡らしていく。少し上を見上げれば、白紫の空にはかすかに星が光っていた。普段より少し早く起きるだけで、こんなに幻想的な景色が見られるなんて。


 ひよりんが俺の視線を追うように空を見上げる。


「綺麗よね…………私、びっくりしちゃった。私が眠っている間にも世界はこんなに綺麗なんだなあって」

「そうですね。俺も同じことを考えてました」

「何だかちょっと得した気分よね」

「少なくとも三文以上の価値はありそうです」


 俺たちの他に人の姿は見当たらず、遠くの方で高架を走る車の排気音だけが僅かに響くばかり。まるでこの世界に俺とひよりんしか存在しないんじゃないかという不思議な孤独感が俺を襲う。そして、出来ればそうであって欲しいとさえ思った。今の俺たちを誰かに見られるのは、かなり恥ずかしい。


「…………こう言ってはなんですけど、姉弟みたいですね」


 俺と全く同じ黄色いパーカーに身を包んだひよりんに目を向ける。メーカーも同じだから、正真正銘全く同じパーカーだ。唯一違う部分があるとすれば…………俺は似合ってないがひよりんは似合っているということくらいか。


「あはは…………ごめんね? ペアルックみたいになっちゃって恥ずかしいよね……一緒がいいなあって、あの時は思っちゃったの」


 みたい、ではなく完全にペアルックでしかない。まあそれ自体はあの日から分かっていたことではあるんだが、いざこうして並んでみると想定を上回る恥ずかしさなのは確かだった。


「まあ、そうですね…………でも一致団結感はある気がします。部活みたいで」

「部活かあ。蒼馬くんと一緒の部活だったら楽しかっただろうなあ…………実際は小学校も被ってないけど……」


 俺は二十歳でひよりんは二十六歳。確かにギリギリ被ってない。


 崩れ落ちそうになるひよりんに肩を貸し、何とか支えることに成功する。年齢のことになると本当に防御力ゼロになるなあ、この人は。別に歳なんて関係ないと思うんだけど。確かに俺とは結構離れているけど、一般的に見たらひよりんだってまだまだ若者だ。


「ひよりさんは何か部活やってたんですか?」

「…………バレー部だったわ…………こう見えてもね…………」

「それは、別にどうも見えないですけど」


 こんなに太ってるのに、とか思ってるんだろうか。そもそも全然太ってないんだが、何度言ってもひよりんは俺の言葉をお世辞だと受け取ってしまうんだよな。ここ最近分かってきたことは、意外とひよりんは根っこがネガティブだということだ。年齢しかり、体型しかり。


 それにしても…………バレー部かあ。早速ユニフォーム姿のひよりんを想像してみる。相手が放った鋭いサーブを手首で受け止めるひよりん。リベロがレシーブしたボールを手のひらで優しくトスするひよりん。勢いよく跳躍し、思い切りスパイクするひよりん。どのひよりんも、身体のとある部分が大きく揺れていた。


 何とは言わんが…………ひよりんの同級生男子は体育の時間大変だったんじゃないだろうか。何とは言わんが。


 こんにゃくみたいに脱力したひよりんを何とか立たせて、俺はゆっくりと歩き出す。


「それじゃあ……そろそろ行きましょうか。最初は準備運動がてらウォーキングで」


 一応ジョギングについて色々と調べてきた。いきなりランニングやジョギングから始めると、間接や筋肉を痛める場合があるらしい。ひよりんはどうやらライブを控えているみたいだし(ザニマスだったら最高だ)念には念を入れた方がいいだろう。


「ええ、そうしましょう。よろしくお願いね?」


 ひよりんが俺の横に並ぶ。笑顔を向ける。それだけで、花のような香りがふわっと鼻腔をくすぐった。

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