闇夜の侵入者

「…………マジで疲れた…………」


 湯船に浸かると、自然と愚痴が零れる。愚痴というか弱音というか。とにかく色々と心労が多い一日だった。


「ひよりんも静も、自分の魅力を理解してないんだよな。耐えるこっちの身にもなってくれよ」


 今でも手にはひよりんの柔らかいあれこれや静の唇の感触が強烈にこびりついている。いくら洗っても消えてくれやしなかった。忘れたいのか忘れたくないのか、自分でもよく分からない。


「…………俺、そのうちおかしくなっちゃうんじゃないか」


 二人の無自覚ボディタッチ攻撃は、確実に、そして順調に俺のライフポイントを削っている。もし俺のライフポイントが尽きた時…………果たして何が起きてしまうのか。結局ビビって何にも出来ないような気もするけど、本能に支配された人間が起こす突飛な事件は毎日のようにワイドショーを騒がせている。自分もそうならないという確証はどこにもなかった。


「はぁ〜…………」


 お風呂のふたに顎を乗せ、ぼーっと天井を眺める。

 無機質な白い天井は見ていても何一つ面白くなかったけど、今の俺には何故だかとても心地よく感じられた。肌色を過剰摂取してしまった眼球が癒やされていくのをひしひしと感じる。そうそう、元来俺はこういう景色の中で生きてきた人間なんだよ。


「…………真冬ちゃんにも迷惑かけちゃったな」


 いつもは振り回されてばかりだけど、今日は真冬ちゃんがいてくれたお陰でかなり助けられた。俺だけでは酔っ払い二人の介護は絶対に不可能だったろう。


 シラフで参加する飲み会のつまらなさは俺も知っている。真冬ちゃんは楽しかったと言っていたけど、本当のところどうだったかは分からない。真冬ちゃんは優しい子だから、気を使ってそう言っただけのようにも思える。


「何か埋め合わせした方がいいよな、やっぱり」


 引っ越してきた時は「とんでもない子に育っちゃったなあ」という印象だった真冬ちゃんだけど、今となっては蒼馬会で一番マトモなんじゃないかとすら思えてくる。たまにベッドに潜り込んでくる時もあるけど、自覚があるだけ二人よりまだマシな気もするし。



 そんな訳はなかった。


 自覚のあるスキンシップと、自覚のないスキンシップ。どちらが困ると言えば、それはやはり前者に決まっていた。


「それじゃあ今埋め合わせして貰おっかな」

「ッ!?」


 ────平和な空間に浮かび上がる不穏な影。


 そんな戦隊モノの悪役めいたキャッチコピーが頭の中に浮かぶ。俺は慌てて湯船から飛び起きると、思いっきり風呂のドアを押さえつけた。


「真冬ちゃん! どうしてうちにいるの!?」


 風呂のドアには文字通り不穏な影が映り込んでいる。俺が知る限り、それは真冬ちゃんのシルエットにそっくりだった。真冬ちゃんは下着姿でベッドに潜り込んでくるから、嫌でも身体のラインは頭に入ってしまう。


「それは勿論合鍵を使ったの」

「HOWは聞いてないから! WHY!?」

「妹が一緒にいるのに理由が必要?」


 ぐい、とドアが向こうから押し込まれ、俺は無我夢中でそれに抵抗する。

 …………全く訳が分からない。どうして真冬ちゃんはこのような犯行に及んでいるんだ!?


「ッ、理由が必要! SAY!」


 焦って何故か英語交じりになってしまう俺。だがそんなことどうでもいい。今は何としても真冬ちゃんの侵攻を止めなければならなかった。


「理由があればいれてくれるの?」

「いれてあげないけど。一応理由だけは聞いておこうと思って」

「何なのそれ。もういい、力づくで入るから」


 ドアの圧力が増し、油断していた俺は一瞬押し込まれそうになる。俺はかかとを浴槽の外側にくっつけ全力で抵抗する。


「ちょっ、待って待って! マジで意味分からないから! どうしてお風呂に入ってくるの!」


 ドアの向こうでは真冬ちゃんが全力で踏ん張っていた。大きな岩を運ばされる囚人のような前傾姿勢で、手のひらだけがくっきりとドアに張り付いている。


 …………普通は逆だと思うんだが。いや、お風呂に無理やり乱入するのに普通も何もないんだけど。

 …………というか。


「真冬ちゃん…………もしかして裸…………?」


 思えば、そのシルエットには服のようなものが一切なかった。見慣れた身体のラインがはっきりと描かれている。


「お兄ちゃん、変なことを聞くんだね。お風呂に入るんだから裸なのは当然じゃない」

「まあそれは確かに…………じゃない! お風呂なら自分の家で入ればいいでしょ! …………あ、もしかして壊れたとか……?」

「? 多分壊れてないと思うけれど…………どうして?」

「ん……?」


 絶望的に会話が噛み合わず、思わず絶句してしまう。


 あれ、これは俺がおかしいこと言ってるのか…………?


 兄妹で一緒にお風呂に入るのって当たり前のことなんだっけ…………?


「…………いやいや、ないない」


 そもそも真冬ちゃんは妹じゃないし。


 そりゃ確かに昔は一緒にお風呂に入ったこともあったけど、今はもうお互い大人。一緒にお風呂に入るとかあっていい訳がないだろ。


「とにかく何があっても一緒には入らないから! うちのお風呂が使いたいなら俺が出た後で使っていいから、とりあえず入ってこようとするのは止めてくれ!」

「どうしても?」

「どうしても」

「私が一生ここを動かないって言ったら?」

「俺も一生ここにいるしかないな」

「…………分かった。お兄ちゃんが風邪引いちゃやだし、とりあえずリビングにいるね」

「服はちゃんと着てね!」

「…………はーい」


 どうやら真冬ちゃんは諦めてくれたようで、ドアがふっと軽くなる。少しの衣擦れ音の後、真冬ちゃんのシルエットはドアから消失した。


「…………今日一番疲れた」


 俺は力なく風呂場に崩れ落ちる。身体はとっくに冷え切っていた。

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