第4話 妹、図書室で勉強する。


「お兄様にいさま、この問題、教えてくださらない?」


 気がつけば6月も半ば。連日雨がシトシトと降り続く、梅雨時期の到来だった。


 今日も朝から雨が降っていて、窓から見える景色は全て灰色のヴェールがかかっている。


 そんな中、俺の気分も灰色だった。その理由は……妹だ。


「ねぇ、お兄様、この問題、教えてくださらない?」


「それくらい自分でやれ。つーか、『お兄様』ってなんだ。『お兄様』って」


 今日の俺は美羽に『お兄様』呼びされていた。


 妹は最近、動画の定額サービスで色々なアニメやドラマを見ていた気がするが、その影響なのか?


「えー、いいじゃん。優雅な気分にならない? お兄様」


「ならねーから。あんまり大きな声で呼ぶなっ」


 思わず妹を小声で注意する。ここは学校の図書室で、基本、私語は禁止だ。


「えー、今、図書委員のトモちゃんしかいないから大丈夫ー。この問題教えてよ。お兄様ー」


 美羽が身を乗り出しながら、教科書を向けてくる。それを押し留めつつ、俺はため息をついた。


「とにかく、お兄様呼びは恥ずかしすぎるから、おやめあそばせっ」


 気づけば、妹の口調が俺にも移っていた。


 い、いかんいかん。俺は他人に影響されないタイプのはずだぞ。


 そこで大きく頭を振り、これまでの経緯を思い出してみる。


 授業が終わり、雨が強まる前に帰ろうと教室を出た矢先、待ち構えていた妹にこの場所へ連行された。


 大事な用事があるから手伝って……なんて切羽詰まった顔で言うから、信じてついて来てやったのに。まさか、図書室で宿題を手伝わされる羽目になるとは。


「宿題は自分で片づけてこそだ。美羽、頑張れ」


「だって、テスト近いから宿題多いんだもん! 助けてよ、おにーちゃーん!」


 大声を出しながら、手足をバタつかせる。そこには気品の欠片もなかった。


「本性を現したな。お前に優雅なんて言葉、一生似合わないぞ」


「むきーーー!」


 美羽が再び叫んだ直後、俺の背後からクスクスと笑い声がした。


 振り返ると、そこには一人の女生徒が立っていた。リボンの色からして、1年のようだ。


 赤茶色の癖っ毛が特徴的で、シンプルな眼鏡をかけている。


「あー、トモちゃん、ごめんねー。さすがにうるさかったー?」


「ううん。大丈夫。今、他に使ってる人もいないから」


 ひらひらと手を振りながら謝る妹に対し、トモちゃんと呼ばれた女生徒は笑顔だった。


 そうか。この子が美羽の言っていた、友達のトモちゃんなのか。


「……実在したんだな。トモちゃん」


「はい?」


 心の声が口から漏れてしまった。


「な、なんでもない。それより妹が騒いで悪かった」


「いえ、見ての通り人はいませんので。美羽ちゃんのお兄さんですよね。私、一年の村上です」


 そう言って頭を下げてくれる。俺も立ち上がって、その場で自己紹介をした。


 それが済むと、彼女は再び一礼して、図書室の受付カウンターへと戻っていった。


「トモちゃん、いいとこのお嬢様なんだよー。ピアノにヴァイオリンもできるの」


 当の本人が去ったあと、妹がこれまた嘘か本当かわからないことを耳打ちしてきた。


「お嬢様、ねぇ……」


「お兄様、まさかトモちゃんにホレた? 全身に雷落ちたりした?」


「そんなわけあるかっ。いいからお前は宿題をしろ!」


「うぇーい」


 妙なことを言われて、つい声が大きくなる。


 美羽はやる気のない返事をして、今度こそ教科書に向かった。


「そーだ。お兄ちゃん、できたらこの後、ご褒美が欲しいんだけど」


 と思ったら、すぐに顔を上げる。


「何が望みだ」


「ガイフルのスイーツが食べたい」


 ガイフルというのは、これまた通学路沿いにあるファミレスだ。


 お値打ち価格で洋食が食べられると評判だが、中でも特にスイーツに力を入れているらしい。


 妹によると、店内で焼いたケーキや種類豊富なパフェを目当てに、クラスの女子たちもよく利用しているそうだ。


「……一品だけならいいぞ」


「やた」


 脳内で財布の中身と相談して、妹の提案を了承する。


「何を食べようかなー。やっぱりパフェかな。プチケーキアソートも捨てがたい」


「宿題終わらなかったら、当然ご褒美もなしだからな。下校時刻まで、あんま時間ないぞ?」


「わかってますよー。ちぇー」


 妹は明らかな不満顔で言って、シャーペンを握り直した。


 元々頭は良いんだから、頑張れ、妹よ。


    ◇


 やがて、下校時刻になる。


 図書室の鍵を返すという村上と職員室前で別れ、俺と美羽は玄関へと向かう。


「さて、帰るか」


 傘立てから自分の傘を引っ張り出し、ネームを解く。


「実は、お兄ちゃんに報告があります」


「は? なんだよ」


 その時、妹が突然姿勢を正し、神妙な顔つきで俺を見る。今度はなんだ。


「傘なくした!」


「朝、一緒に登校した時は持ってたじゃねーか! しかも折り畳み! なんでなくすんだよ!」


「じゃあ、トモちゃんが傘忘れたって言うから貸したの!」


「じゃあってなんだ! 理由が変わったぞ! さっきまで村上も隣にいたのに、そんな素振り微塵も見せなかったし! 第一、今日は朝から雨なのに傘を忘れるはずがないだろ!」


「実はああ見えて、ドジっ子タイプ!」


 絶対嘘だ。むしろ、めちゃくちゃしっかりしてそうだ。


「いいからー! 相合傘しよ!」


 美羽は言って、俺の手から傘をひったくる。出やがったな。本音が。


「ほーら! 先帰るよー! ずぶ濡れになって、風邪ひくよー?」


 言いながら、ずんずんと雨の中を進んでいく。


「くそぉ、俺の傘なのに! 待てぇ!」


 一瞬だけ躊躇したが、俺も風邪はひきたくない。


 妹との相合い傘なんて恥ずかしいことこの上ないが、背に腹は代えられない。俺は妹と同じ傘に飛び込んだ。


「へへー、いらっしゃいませー」


 それを待っていたように、妹はくっついてくる。


 それこそ、胸が当たるくらいの距離で。


「なあ、もう少し離れないか?」


「なんでー? 狭いんだし、くっつかないと濡れるよ」


「そ、そりゃそうだが」


 言えば言うほど、妹はわざとらしくくっついてきている気がした。


 ここで妙な行動を取れば負けを認めるようなものだし、俺は必死に堪えながら、美羽とともに雨の中を進んだのだった。


 ……いつか一線を越えてしまいそうな自分が怖い。

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