八章・想い

 竜胆さんが出かけてから七日目の朝。

 昨日の電話で竜胆さんが今日帰ってきてくれることを聞いたからか、私は朝早くから目を覚ました。

 朝食はさっと卵焼きを作ってすぐにすませた。明日からまた二人分作れることにわくわくする。

 私はあまり暑さに強くないので、日が高くならないうちに近所のショッピングモールへ本日の夕食の材料を買いに出かけた。車で五分程度の距離なので歩いてもそこまでかからないのは助かった。

 食品売り場に行くと様々な食材が所狭しと並んでいる。朝一番に畑や市場から送られてきた新鮮なそれらを見ているとどれを買おうか迷ってしまう。

 私は最初に竜胆さんのリクエストである大きなカレイを一匹確保した後、瑞々しい野菜や綺麗な楕円形の鶏卵、いくつかのレトルト食品を購入した。今晩はカレイの煮付けに野菜炒め、卵料理は……何にしようか。竜胆さんが帰る前には決めないと。ただ献立を考えるだけでこんなに心が弾むのは、やっぱり竜胆さんと食事ができるからだろう。

 私は何を作ろうか考えながら、日が強くなってきた帰り道を急いで歩いていった。

 その日の午後は、竜胆さんが帰って来たときに気持ちよくなれるよう家中の掃除に費やした。普段してなかった玄関の掃き掃除に洗面所やお風呂場などの水回り、もちろんよく使うリビングなども忘れない。色々やっていたら時刻はもう午後の五時。しかし竜胆さんが帰って来るまでは少し猶予がある。

 私はちょっと休憩してから……夕菜さんの部屋に再び足を運んだ。


「…………」

 この家の中で唯一違う空間に存在しているかのような、時が止まってしまったかのような部屋。

 生活感も温かみも、消えてしまった部屋。

 そっと椅子を引いて腰掛ける。目の前には夕菜さんが想いを綴ったであろうテーブル。

「…………」

 私はテーブルの上に置かれてる一枚の写真を眺めていた。幸せそうに笑っている二人。……渡さんが言っていた、見ているだけで幸せになれるという言葉が思い出される。確かにこの二人を見ているとそんな気分になれる気がする。

 夕菜さんがどれだけ竜胆さんを好きだったかが伝わってくる日記。

 竜胆さんがどれだけ夕菜さんのことを想っていたかが伝わってくる日記。

 その気持ちに触れて、二人の想いを知って、それでも……それでも私は、自分の想いを伝えようと決めた。


『死んだ女に負けてて悔しくないのですか?』


 昨日渡さんに言われたことが思い出される。

「……悔しいとかじゃ、ないですよ」

 誰に聞かれるでもなく一人呟く。


 そう。悔しいとか、勝ち負けとか、そういうのじゃ、ない。

 私が伝えたいから、伝えるのだ。


 ここに来た頃、竜胆さんに言われたことを思い出す。

『思っているだけでは伝わらない』

 その通りだ。私がどれだけ竜胆さんのことを好きでも、思っているだけでは伝わらない。

 ……この好意を伝えることは、怖いとも思う。

 どのような結果であれ、今の竜胆さんとの距離をきっと変えてしまうから。

 受け入れてもらえるかもしれない。

 受け入れてもらえないかもしれない。

 それでも……ずっと胸に秘めたまま、竜胆さんへの好意を自覚したままこの先も一緒に生活していくよりは、私の気持ちを彼に知ってほしい。

 私は無意識のうちに手にしていた写真立てに目を落とす。

「……私だって、竜胆さんのこと好きなんですから」

 小さく呟いてから写真立てをそっと元に戻した。

 私は新たな決意を胸にして、夕菜さんの部屋を後にした。



 晩御飯を作り終えて、お風呂も沸いて早二十分。時刻は既に二十時半を過ぎている。

 竜胆さんは早くても二十時と言っていたからある程度遅くなることはわかっていたけれど、待っているだけの時間は酷く不安になる。

「大丈夫かな……」

 待っている間、もう何度も見た時計に目を遣ったとき、マンションの共用玄関のではない、家のインターホンが鳴らされた。

 私は慌てて玄関に向かい、廊下と玄関の明かりをつけた。私が玄関に着いたと同時に、カチャリと小さな音がして玄関の鍵が開けられた。

 私はすぐに竜胆さんがその向こうから姿を見せてくれると思っていたのに、中々扉が開かない。

「……竜胆さん?」

『……んとしろって。俺に……ざ……』

 そっと扉に近づくと外からくぐもった声が聞こえてきた。私は扉に備え付けられた小さな覗き窓から外の様子を伺ってみる。そこには背の高い見知らぬ男の人と、その人に抱えられてる誰かの姿が映っていた。

「——!」

 咄嗟に鍵を閉めて扉から離れた。

 誰? あの人は誰? なんでこの家に——

「ひっ!」

 ガチャン! と大きな音がして扉が引っ張られたが今閉めたばかりなので当然開かない。

『……鍵閉まって……。今開け……だが。これ……?』

 また外からくぐもった声が聞こえてくる。

 そこで私は気づいた。閉まっていた鍵を開けられたのだから、鍵など閉めても意味がないということに。

「ど、どうしよう……!」

 呼吸が段々速くなってきて、心拍数もどんどん上がっていくのがわかる。

 なんとかしなきゃいけないと頭でわかっているのに、身体がすくんで動けない。

 竜胆さんに連絡? 警察を呼ぶ? 包丁か何かで撃退する?

 ダメ——どれも間に合わない。

「やだ……やだ……」

 どうしたら……どうすれば……。

 思考がバラバラになってまとまらない。

 怖い。怖い怖い……!

 逃げたいのに足が動かない。

 見たくないのに目が離せない。

「助けて、竜胆さん——!」

 そんな私に追い討ちをかけるように、再びガチャリと鍵が開けられて——



 解錠した扉を引っ張ると、ガチャンという音と共に強い抵抗が篠宮雨水しのみやうすいの手に伝わってきた。

「あれ、鍵閉まってるな。今開けたと思ったんだが。これどっちに捻るタイプだ?」

 脇に体力が尽きた男——竜胆秋夜りんどうしゅうやを抱えたまま、雨水は首を捻った。

「右……」

「右? さっきそっちに回したはずだが」

 秋夜の声に従って、再び鍵を捻る雨水。すると確かに先程感じたのと同じ感触がして、再び鍵が開けられた。

「開けた気がしたんだが……まあいいか」

 よいせ、と掛け声を出して扉を開け、秋夜を抱えたまま中に入る雨水。

 その瞬間——


「いやああああああぁぁぁ!」


 つんざく悲鳴が雨水と秋夜の頭を貫いた。

「うるせぇ……」

「何……?」

 あまりの煩さに思わず顔を顰める雨水。

 秋夜は疲れた身体に鞭打って、何事かと顔を上げた。

 二人の視線の先には悲鳴を上げた本人、舞園優奈まいぞのゆうなが涙を流しながら座り込んでいる。

 その目に浮かぶのは怯えと困惑。

 叫んだことで体力を使ったのか、ぜいぜいと息が途切れてる。

「竜胆、さん……?」

 抱えられていた男性を見て、優奈はそれが自身の待ち望んでいた人であると気づく。

「優奈ちゃん……ただいま……」

 秋夜は力無くも笑って帰還したことを告げた。

「~~~っ!」

 そんな彼の表情を見て、優奈は声に出してならない声をあげてまた泣き出した。

「おい竜胆。帰っただけで叫ばれたり泣かれたりとかされてるけど。お前嫌われてるのか?」

 雨水はからかうようにちゃちゃを入れて、秋夜を支えていた腕を解いた。

「嫌われてるとは思ってなかったんだけどな……優奈ちゃん、一週間も留守にしてごめんね」

 靴を脱いで優奈の前にしゃがみこむ秋夜。

 ハンカチで彼女の涙を拭こうとして——ガシッと抱きつかれた。

「いたたたた……ゆ、優奈ちゃん? どうしたの?」

 普段の彼女からは考えられない行動に困惑する秋夜。声をかけるも返事をせず、ただずっと自身に抱きついて離れない優奈が震えていることに秋夜は気がついた。

「……辛い思いをさせてしまったかな」

 問いかけるもやはり返事はない。しかしその頭が僅かに頷いたのを秋夜は見た。身体中が筋肉痛で悲鳴をあげるがグッと我慢し、そっと彼女を抱き寄せてその背中を撫でてやる。優奈は初めはびっくりした様だったが、すぐに甘えるかの様に身体をすり寄せた。

「…………」

「…………」

「俺帰っていいか?」

 そんな二人の空気をぶち壊すかの如く、雨水が冷ややかに質問を投げかけた。

 その言葉ではっと我に返ったのか、優奈は慌てて秋夜から離れた。秋夜は涙を優しく拭いてあげながら雨水を振り向く。

「り、竜胆、さん……こちらの、方は……」

 誤魔化すように問う優奈。秋夜に涙を拭かれているその顔は、子供扱いされているようで恥ずかしいのと彼の優しさに触れられて嬉しいのとで複雑になっていた。

「前に話したことあったと思うけれど、彼が篠宮雨水。僕の友人。雨水、こちらが舞園優奈ちゃん」

「篠宮雨水だ。竜胆が体力尽きたのと全身筋肉痛でまともに歩けなくなったから連れてきた」

 呆れたかのように溜息を吐きながら、雨水が言う。

「舞園、優奈、です……竜胆さんの、お世話になってます……」

「ああ、竜胆から聞いてるよ」

 少し落ち着いてきたのか、優奈はおずおずとしながらも雨水を見上げた。

 しっかりと手入れされた髭に艶のある黒のオールバック。大人な雰囲気を醸し出すバーテンダー服がよく似合っていた。

「全く……竜胆、女に優しくしてるのは構わないが、まだ立てないのか? 自分の荷物くらい自分で運んでほしいんだが」

「すまないね……書類は僕の部屋に置いておいてくれないかな」

「しょうがねえな。邪魔するぜ」

 雨水はいくつもの書類が入った手提げ袋を片手に上がり込む。その足取りは迷うことなく秋夜の部屋へと向かっていた。

「優奈ちゃん、その、さっきの悲鳴だけど……もしかして雨水のことが怖かった?」

「……だって、竜胆さんが帰ってきたと思ったのに、知らない男の人が鍵開けて入ってきたんですよ。私、どうしたらいいかわからなくなってしまって……」

 優奈は先程の感じた恐怖を思い出したのか、その瞳にはまた涙が溢れ始めていた。

「そう、だよね……本当にごめんね。連絡しておけばよかったね。情けないことにもうほとんど動けなくてね。彼に協力してもらってたんだ」

「怖かった、ですし、寂しかった、ですけど……竜胆さんが無事に帰ってきてくれたのが一番嬉しい、です。おかえりなさい、です」

 優奈はまた秋夜に身体を寄せた。その様子は迷子になっていた子供が親を見つけられたときの行動にどこか似ていた。心から信じている存在に身を寄せることで、安心を得るかのようだった。

「うん……ただいま」

 秋夜はどこか嬉しそうに優奈の頭を撫でながら、もう一度ただいまと言う。

「おい竜胆、他の荷物はどうする?」

 そんな雰囲気を再度壊すが如く、ひょっこりと部屋から顔を出した雨水は秋夜たちに声をかけた。

「……少しは空気読んでくれないかな、雨水」

 秋夜は彼にしては珍しく半眼で雨水を睨んだ。本気で怒ってるわけではないが、気の置けない仲故に見せる表情だ。

「阿呆。空気読んでたら俺がいつまで経っても帰れないだろうが。その様子じゃお前らほっといたらずっとくっついてるだろ」

 雨水に呆れた様に指摘されて、優奈はまた離れようとしたが秋夜が腕に力をこめてそれを許さなかった。秋夜のその行動に優奈は驚きつつもどこか喜びを感じていた。

「……そうかもね。悪かった。荷物は……ごめん、悪いけど一度預けていいかな。明日はまだ疲れが取れてないだろうし、早くても明後日かな。遅くても一週間以内には時間作るよ」

「了解。流石に俺も疲れてるからな……明日は勘弁してほしいわ。んじゃ、今日はもう引き上げるわ」

 くあ……と雨水は大きな欠伸をした。

「お疲れ、雨水」

「お前もな、竜胆。こんだけ手伝ってやったんだから、今度何か奢れよ」

「了解。寿司でもとるよ」

 苦笑した秋夜の言葉を最後まで聞かないまま、雨水はサッと帰って行った。

 後には玄関で身を寄せ合っている二人が取り残された。



 篠宮さんが開けた扉がゆっくりと閉まり、カチャンと無機質な音を立てる。

「……優奈ちゃん、帰ってきて早々こんなこと頼むのも悪いんだけど、鍵閉めお願いできる?」

「わかりました……」

 竜胆さんから離れるのは名残惜しいけれど、いつまでも開けっぱなしにしておく訳にもいかなくて、私はそっと立ち上がった。

 私が鍵を閉めて振り返ると竜胆さんは壁に手をつきながらゆっくりと立ち上がっていた。

「竜胆さん、大丈夫ですか?」

「ああ、うん……大、丈夫……。さっき雨水が言ってたと思うけど、筋肉痛がひどくてね。それに今日は朝食しか食べてないから、お腹減ってて力が出ないんだ」

 ぐぎゅう、と僅かだけど竜胆さんのお腹から空腹を訴える音がした。竜胆さんは辛そうに左手でお腹を抑えている。

「ど、どうしますか。ご飯、先にしますか?」

「……いや、お風呂にしたいな。久々に湯船に浸かりたいや。最近はシャワーしか浴びてなかったから。多分……二十分くらいで上がるけど、お腹空いてたら先にご飯食べてて」

「いえ、待ってます。竜胆さんと一緒に食べたいですから」

 時刻は既に二十一時間近くと普段の夕食より遅くてお腹も確かに空いているけれど、食欲を満たすよりも竜胆さんとの時間を過ごしたかった。

「……うん。わかった。上がったら一緒に食べようか」

 竜胆さんは少しだけ笑ってから脱衣所へと向かった。



「……うん、やっぱり優奈ちゃんの料理は美味しいね」

「そう言ってもらえると、私も作った甲斐があります」

 一週間振りに食べる竜胆さんとの食事。

 作ったもの自体は竜胆さんのリクエストであったカレイの煮付けと、野菜炒めに私が好きなだし巻き卵。そこまで凝ったものではないけれど、美味しいと言ってもらえるのはやはり嬉しかった。

 いつもより食べるペースが遅いのは筋肉痛が原因だろうか? 時々腕が震えている。

「竜胆さん、筋肉痛って言ってましたけど……書類作成以外のこともしていたんですか?」

 いくら竜胆さんが普段動かないと言っても流石に書類仕事でそんな状況になるとは思いづらい。それに前に竜胆さんと遊びに行った際、彼は運動後も結構平気な顔をしていたのを覚えている。

「んー? あぁ……まあ、そうだね。色々運んでたりしてた。その辺は後々話すよ」

「そう、ですか。……あの、篠宮さんでしたっけ。あの人は一体何を……」

 詳しく話してもらえないことが少しだけ気になったけれども、後で話すと言う彼の言葉を信じて私は別のことを聞く。

雨水うすいは仕事柄時間の都合がつけやすくてね、今回のことで色々協力してもらってたんだ。それから彼はトラックを所持してるから、それを借りたりしてた」

「篠宮さんって、お仕事は何を?」

「探偵……いや、情報屋の方が合ってる? とにかく依頼されたことに対して色々調べることが彼の仕事だ」

「えっと……じゃあ今回は何か依頼を?」

「そう。必要な書類一式とか、弁護士事務所の事前調査とか色々。ほんと助かった」

「そうなんですか……」

 なんでだろう。あんなに話したいと思っていたのに、上手く会話が続かない。

「……優奈ちゃんは、本当にもう身体は大丈夫? 無理してたりしない?」

「え……あ、はい。一昨日はごめんなさい」

「謝ることではないよ。誰だって気分が悪い時はあるし。大丈夫ならよかった」

 そう言ってくれる竜胆さんはやんわりと笑った。

「……そうだ。優奈ちゃん、もう『静寂』は読み終えたのかな」

「あ……はい。一昨日読み終えて、竜胆さんと話したいって思ってて……」

 あの後色々あったからすっかり話すタイミングを逸していた。

「どうだった? 僕の周りにはあれを読んでいる人がいなくてね、誰かの感想とか聞いてみたかったんだ」

「えっとですね……」

 私は自分の感想を話し始めた。一度話しだすと止まらなくて、竜胆さんは微笑みながら相槌を打ってくれた。竜胆さんが時々感想を聞かせてくれて、私と同じことを思ってたと分かったときは喜びすら感じた。

 そんな何の変哲もないありふれた会話に幸福を感じながら、私は竜胆さんとしばらく話し合っていた。



「竜胆さん……まだ起きてますか」

 控えめにノックをして彼の返事を待つ。

 私はお風呂から上がって寝巻きに着替えた後、そのまま竜胆さんの部屋に足を運んだ。

「……ん、優奈ちゃん? どうしたの?」

 私が扉を開けて中に入った時、竜胆さんはベッドに腰掛けて今日持ち帰った書類を眺めていた。

「あの、その……」

 どう切り出せばいいか、お風呂に入っている間も悩んでいたが名案は思いつかなかった。今からしたいのはただの私のわがままで、疲れている竜胆さんには迷惑なのは百も承知だけれども、どうしても抑えられなかった。

「……? どうかした? その、僕、そろそろ寝ようと思っててさ。話とかなら明日でもいいかな?」

「竜胆、さん……その、今夜、一緒に寝てもいいですか。竜胆さんと一緒にいたい、です」

 意を決して、私は自分の欲望を彼に伝えた。凄く勇気が要る言葉で、言ったあとは心音が段々と強くなってくるのを自覚した。

「…………」

 竜胆さんは驚いたように何度も瞬きを繰り返す。あまり見たことのない表情だ。

「一緒にいるだけでいいんです……だめ、でしょうか」

「うーん……だめってわけじゃないけど。その……エッチなのは無しなら、いいよ」

「!」

 その言葉を聞いて、ようやく自分が傍から見て恥ずかしいことを言ってることに気がついた。一緒に寝たいとかいたいとか、誘っているような台詞にもとれるじゃないか……!

「いや、その、エッチが目的じゃなくて! その、竜胆さんとなら、ちが、そうじゃなくて……!」

「あはは……優奈ちゃん落ち着いて」

 手にしてた書類を机の上に置いて、竜胆さんが苦笑しながら手招きする。

 私はさっきとは別の理由で速くなった鼓動を感じながら、恐る恐る彼の隣に腰掛ける。ベッドが少しだけ沈み、その分竜胆さんとの距離も近くなる。

「エッチ云々うんぬんは別に茶化したわけじゃないんだよ。ごめんね、変なこと言って」

「わ、私こそ、竜胆さんが疲れてるのに、おかしなこと言って、すみません……」

「……それにしてもどうしたの? 優奈ちゃんが一緒に寝たいなんて言うとは思ってなかったから驚いたよ」

「ごめんなさい……竜胆、さん……髪、撫でてもらってもいいですか」

 私は正直に答えるのが恥ずかしくて誤魔化した。竜胆さんを近くに感じたいから、なんて言ったら彼はどんな顔をするのだろう。

「ん……こんな感じ?」

 竜胆さんは私が誤魔化しても追及せず、そっと私の髪を撫でてくれた。その手つきは本当に優しさが感じられて、いつまでも撫でて欲しいと思ってしまうほどに気持ちいい。

「……さっきも撫でてる時に思ったけど、優奈ちゃんの髪、とてもサラサラしてるよね。ずっと撫でていたくなるよ」

「……! その、この髪はお母さん譲りで、私もこの髪、好きで、お手入れはなるべく欠かさないようにしてるんです」

 私と同じことを考えてくれていたんだと思うととても嬉しくなる。私の勝手な思い込みだとは思うけど、お母さんのことまで褒めてもらえた様な気がして更に嬉しくなった。

「そうなんだ……優奈ちゃんはお母さん似なのかな?」

「た、多分……あまりはっきりとは覚えていないんですけど、髪の長さとか、体型とかはお母さんに似てきたって思います」

「優奈ちゃんが優しいところも、お母さん譲りなのかな?」

「ど、どうでしょう……?」

 流石にそこまではわからない。

 私は一連の会話をしている間ずっと竜胆さんに撫でられ続けた。

「ふぁ……。流石にもう眠いや。優奈ちゃん、ちょっと体勢変えるよ?」

「あ、はい」

 大きな欠伸をした竜胆さんは、横になって微笑みながら手招きする。私はそっと彼の腕の中に身を横たえた。

 竜胆さんが布団をかけてくれて、部屋の電気を消す。

 暗く静かな空間の中、彼の心音がトクントクンと伝わってくる。

 竜胆さんは何も言わずに左手で私を引き寄せて、右手でさっきと同じ様に優しく髪を撫でてくれる。今まで何度か竜胆さんと触れ合った事があるけれど、今夜のはそのどれよりも竜胆さんの温かさを感じられる気がする。

 好きな人の腕の中にいるのに興奮は全然しなくて、とても心地よい安心感が身体中に広がってくる。

「竜胆、さん……」

 もっと近くで、もっと強く彼を感じたくて、一週間分の寂しさを埋めるために私はぎゅっと彼に身を寄せる。撫でてもらってる頭から、押し付けた顔から、抱かれてる背中から、触れ合ってる胸やお腹、足からも彼の温度が伝わってくる。

 しばらくすると段々と髪を撫でてくれていた手の動きが鈍くなってきた。

「……竜胆さん?」

 小声で呼びかけてみるも返事はない。眠ってしまったのか、規則正しい寝息が聞こえてきた。

「……お休みなさい」

 止まってしまった愛撫に名残惜しさを感じながら、全身から伝わる彼の体温を感じながら私は小さく呟いて、ゆっくりと目を閉じた。



 翌朝、私はいつもと違う感覚に違和感を覚えて目が覚めた。

 身体が思うように動かず一瞬慌てたけれどすぐに昨夜自分がとった行動を思い出した。

 精一杯勇気を出して竜胆さんに甘えて、彼と一緒のベッドで眠りについたのだ。

 もぞもぞと動いて竜胆さんを見上げると、彼はまだ夢の中にいる様だった。静かでゆっくりとした寝息が聞こえてくる。熟睡している様なのに私を抱きしめる腕の力は中々強く、いつもより遠慮が無い(寝ているから遠慮も何もないか)。こうして抱かれていると、なんだか抱き枕になったみたい。

「…………」

 私は疲れている竜胆さんを起こしたくなかったのともう少しこの時間を味わいたくて、落ち着く体勢になってからまた目を閉じた。眠ることはなかったけれどとてもいい気分になれた気がした。


 それから約一時間後、竜胆さんが起床した。

 竜胆さんは最初寝ぼけていたけれど、腕の中にいた私を認識したのかすぐに覚醒した。ちょっとだけ驚いて、でもすぐに優しく髪を撫でてくれて、おはようといつもと変わらない口調で挨拶してくれた。

 私は寝たふりをしてもう少し時間稼ぎしたいとも思ったけれどなんとか我慢し、おはようございますと竜胆さんに返した。


 朝食を終え、後片付けも終えて。

 それぞれが一息吐いてしばらくした頃、私は竜胆さんとリビングで向かいあって座っていた。

 彼の手元には昨日持って帰って来たと思われる書類をまとめたクリアファイルが握られている。竜胆さんはなんだか苦悩しているようで、その視線は何度も私と手元の書類を行き来していた。

「……竜胆さん? 大丈夫ですか?」

「うん……優奈ちゃん」

「?」

 竜胆さんは自身を落ち着ける為か一度深呼吸をして、私を呼んだ。

「これから凄く大事な話をするから、ちゃんと聞いてほしい。僕がこの一週間していたことなんだけど、優奈ちゃんにも深く関わってくる話だから」

「……わかりました。聞かせてください」

 私に向けられる視線はいつもより真剣さがあって、思わず息を飲んでしまう。どんなことを竜胆さんがして来たのか、どんなことを言われるのか検討がつかないけれど、一言一句聞き逃すまいと耳を傾けた。

「僕がした事は大きく分けると二つあってね、一つ目は優奈ちゃんの叔父の笹垣鉄也ささがきてつやさんと優奈ちゃんの……法的な親族の関係を解消した」

「……はい?」

 思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。

 まさか叔父の名前が出てくるとは思っていなかった。しかもその関係を解消? 

「簡単に言うと、優奈ちゃんと叔父さんは法律上、書類上完全に赤の他人となったということ、なんだけど……」

 竜胆さんは何枚かの書類を取り出して私に見せてくれる。そこには細かい文字で小難しい表現の言葉が羅列されていたけど、確かに概要は竜胆さんが言った通り私と叔父の関係を解消したということだった。

「その……解消って、どんな影響があるんですか?」

「色々あってまだ全部は僕も把握できていないんだけど、まず叔父さんは優奈ちゃんの保護者としての立場から発生する義務などを全て放棄したこと。養育費の支払いとか役所とかの手続きとか、そう言った全ての義務を彼は果たさなくてよくなった」

「…………」

 もし今の私の顔を表現するなら、『ぽかーんと呆けている』だろうか。義務の放棄、なんてことが考えたことも無い言葉を理解するのに頭が追いついていない。

「優奈ちゃんも彼との関わりが無くなってるから、例えば……叔父さんが死亡した場合に発生したはずの相続権が全て無くなってる。遺産相続は不可能になって、代わりに彼の借金とかも相続義務がない。借金があるかは知らないけどね、あくまで例え話」

「……この話、叔父も知ってるんですか」

「それは勿論。直接彼と話をつけてきたから。一昨日かな、僕が電話で難所がどうとか言ってたの覚えてる?」

「一昨日……」

 渡さんが来た日だ。そうだ、書類作成で難所があるのかと疑問に思った日だ。

 私はそれを思い出して頷いた。

「もちろん一昨日初めて彼と話した訳ではないよ。今から二週間くらい前かな、電話でだけど彼に制度の話を伝えたんだ。優奈ちゃんが今僕の家にいることとかも含めて色々と。それで、彼が優奈ちゃんに関する義務の放棄に同意したから僕が色々書類用意して、一昨日彼にサインしてもらってた」

「……? ということは一昨日の時点で竜胆さんはこっちに戻ってきてたんですか?」

 叔父の家はこの町と山一つ挟んだ向こう側だ。私と竜胆さんが出会った橋や近年造られたトンネルなどを使えば一日とかからずに移動できる距離だ。

「ん? うん」

「……なら帰ってきてくれればよかったのに」

 つい恨む様に言ってしまった。

「あー……本当はそうしようとも思ったんだけどね、その後も色々やってて……」

 竜胆さんが目線を逸らす。彼がこういう仕草をしてる時は何か言いにくいことを話している時だ。何度か見た覚えがある。

「…………」

 じーっと無言で見つめてみる。

「……。まぁ、黙っててもすぐにわかるからネタばらしするけど」

 竜胆さんは観念したように両手を上げて話してくれた。

「叔父さんがサインを書く際、ほとんど条件は出してこなかったんだけど、出された条件の一つに優奈ちゃんの私物を全て僕が引き取ることっていうのがあった」

「私の……?」

「うん。優奈ちゃんがあの家で使ってた物一式。靴とか鞄とか服とか。それらを纏めるのに雨水に協力してもらってた」

「服……もしかして下着とかも……」

「……うん。流石に僕の判断で捨てるわけにもいかなかったし」

「そう、ですか……」

 正直に言うと竜胆さんに下着を見られたというのはちょっと恥ずかしいとは思ったけれど嫌ではなかった。あの叔父によって捨てられる方が遥かに嫌だ。

「……その件は、分かりました。そうすると難所というのは?」

「……あまりいい話ではないけど、知っておくべきかな。簡単に言えばお金の話。彼はサインする代わりにまあまあ高めの金額を要求してきた」

「——!」

 それを聞いた瞬間、心の奥底から怒りが湧いてきた。どこまでふざけた男なのだ!

「僕自身はまぁ、それで優奈ちゃんのことを守れるなら払ってもいいかと思ってたんだけど」

「だめです!」

 つい声を荒げてしまう。

「落ち着いて落ち着いて。そういう金銭のやり取りが発生すると、優奈ちゃんの身柄に関しての人身売買に繋がるから法律違反になるって、弁護士の人達と彼を説得してたの。そこが難所。流石に専門家数人に根拠ありで説明されたら彼も黙ったけどね」

「あんな人に竜胆さんのお金を払っちゃいけないです!」

「払ってないよ。払ってないから、ちょっと落ち着いて」

 つい興奮してしまった私が落ち着くまで、竜胆さんはまるで子供をあやすかの様にどうどうと言いながら宥めてきた。

「すみません、取り乱しました……それで二つ目は……」

 今までの話からなんとなく予想がついたのだけれど、口に出すことはしなかった。竜胆さんの言葉で聞きたかったから。

「僕、竜胆秋夜が優奈ちゃんの保護者になったこと。養子縁組とも違うんだけど、優奈ちゃんが成人するまでのあと一年と少しの間、僕が保護者になって色々手続きをする義務を持っている」

 ……予想通り。叔父という保護者がいなくなった今、私の立場はかなりあやふやな状態だ。竜胆さんもこの手続きをする前からそうなると気づいていただろうし……彼はきっと、自分が私の保護者になる事も計画していたのだろう。

 私は竜胆さんに渡された幾つもの書類に目を通した。知らない用語も多くて読みにくいけれど、色々な権利や責任の所在などが事細かに記載されている。

 普通とか、よくわからないけれど……こんなに沢山の書類、たった一週間で全部終わらせられるとは思えない。きっとまだ手続き途中のものもあるのだと思う。

 だけど……竜胆さんが私の為にここまでしてくれた事が嬉しくて、私はいつの間にか泣いていた。

「ごめん……優奈ちゃんには取り返しのつかないことを、相談もせずにしたのは本当に悪いと思ってる。だけど、優奈ちゃんのこと、その……守りたくて」

 竜胆さんが沈鬱な表情で謝ってくる。

「……謝らないでください。竜胆さんが謝ることなんて、無いです。私、竜胆さんにここまでして貰えることが嬉しいんです。……むしろ謝るのは私の方です」

 私は涙を拭いて竜胆さんの目を見た。

「優奈ちゃんが……? 優奈ちゃんは何も……」

「私……」


 その時、私は覚悟した。

 夕菜さんのことで竜胆さんに怒られることも。

 想いが成就しないとしても、竜胆さんに告白することも。

 その結果がどの様なものになろうとも、受け入れて生きていくことを。


「ごめんなさい、私、勝手に夕菜さんの部屋に入りました」

「夕菜の部屋に……そっか。それは、まぁ、禁止はしてなかったけれど……遠慮はしてほしかったかな」

 竜胆さんは困ったように頬をかきながら目を逸らした。

「それで、夕菜さんがつけていた日記を読んでしまいました……本当にごめんなさい」

「日記……? 夕菜は日記をつけていたの?」

 私は無言で頷いて立ち上がった。自室に戻って預かっていた鍵を手に取り、夕菜さんの部屋の前に立った。

 かかっていた鍵を開けて中に入ると以前と同じ寂しさが変わらず漂っていた。

 竜胆さんも後に続いて入ってくる。その表情はどこか寂しげで辛そうにも見えてしまう。

「これ、です……」

 私はそっと引き出しを引いて橙色のノートを取り出し、それを竜胆さんに渡した。

「…………」

 私は椅子を引いて勧めたけれど竜胆さんは座るのを断り、立ったままそっとページをめくり始めた。


 ぺらり……ぺらり。

 私も竜胆さんも何も言わない。

 ただ紙が擦れる音だけが主のいない空間に消えていく。

 ……どれくらい時間が経っただろうか。

 ぺらり、ぺらりと続いていた音が、止まった。

「優奈ちゃんは……これを最後まで読んだの?」

 悲しみを感じる暗く低い声。

 彼の手元にはきっと、夕菜さんの遺書が書かれたページが開かれているに違いない。

「いえ……最後の部分は、読んでないです」

「……そう」

 竜胆さんは短く呟いてまた黙ってしまった。少しだけ彼は後ろに下がって、そのページを読み始めた。

 ページ数を考えるとそこまで時間はかからないと思う。けれど竜胆さんはさっきよりもずっとずっと長い時間をかけてその文字を読んでいた。

 やがて竜胆さんは静かにノートを閉じた。

「…………」

 彼は何も言わず、ただ目を瞑って何かを堪えているようだった。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「……その……遺書、ですか」

 竜胆さんと一緒に居て会話が無いことは多々あったけれど、この重苦しい沈黙に耐えられなくなって私はついに聞いてしまった。

「…………遺書だね」

 その一言でさらに空気が重くなった。

 竜胆さんはやるせなさそうに首を振った。

「そっか……そっか……」

 一体何に納得したのだろうか。竜胆さんの顔には先程よりもずっと寂しさが浮かんでいた。

 と、その時。ガクンと。

 操り人形の糸が切れてしまったかの様に、急に竜胆さんが膝をついた。

「竜胆さん!?」

 慌てて彼に駆け寄るも手で制されてしまう。

「ごめん……少し、一人にしてくれないかな」

 腕に隠されて表情は見えなかったけれど、僅かに聞こえた声に涙が混じっていることに気がついて。

 私はなるべく音を立てないようにして部屋を出るしかなかった。



 竜胆さんが夕菜さんの部屋から出て来たのはそれから数時間ほど後のことだった。

 がちゃりと無機質な音がして扉が開き、竜胆さんがリビングに入ってきた。

 私は読んでいた沢山の書類から目を上げて彼を見た。まだ少し目元が赤いけれど、その表情は何故か明るく見える。

「竜胆さん……? 大丈夫ですか?」

「ん……うん、大丈夫。なんだかね、凄く久しぶりに……隣に夕菜が居るような気分になってた。懐かしいって言うのかな」

 二人掛けのソファに深々と腰掛ける竜胆さん。彼に手招きされて、私も隣に座った。

「……」

「何年も見てなかったけど、夕菜の書いた字だってすぐにわかったよ。読んでいるだけであの子の声が聞こえてくるようだった」

「……」

「全然覚えてなかった些細な出来事や会話も沢山残されてて……夕菜があの時どんな気持ちだったのかってわかるとなんていうか……温かい感じがした」

 竜胆さんは懐かしみながら言葉を続けていく。

「だからこそ……夕菜がもう居ないっていうのは、とても辛いね」

「竜胆、さん……」

「……夕菜が僕に身体の相談をしたって部分は、優奈ちゃんは読んだのかな?」

「はい……」

 ぐしゃりと潰されたページが頭を過る。

「相談内容っていうのはね……夕菜が高校卒業後でも初潮しょちょうが来てないことだった」

「…………」

 初潮。女性の身体が子供を作る準備ができたことを示す生理現象。

 定期的に排卵し、着床や妊娠しなかった場合は月経として発達した内膜とともに体外に出す現象。

 その為には卵巣の発達が不可欠だと以前授業で習ったのを覚えてる。

「読んだなら知っていると思うけど、夕菜は卵巣癌だった。病院の先生によるともしかしたら小学生くらいの頃には進行が始まっていたかもしれないって言われた。僕は……確かに辛かったし、悲しかった。夕菜といつかは子供を授かりたいって思っていたし。だけどそれはできないって聞いて、酷く落ち込んで——でも、その事を受け入れた」

 竜胆さんはそこで酷く後悔しているような、悲しそうな顔をした。

「夕菜との間に子供ができなくても、夕菜と一緒に幸せになろうって、ずっと一緒に生きていこうって、思ってた。僕にとって……子供は、『幸せの十分条件だったけど必要条件ではなかった』」

「……でも、夕菜さんは、そうじゃなかった」

 私の言葉に竜胆さんは頷いた。

「夕菜の幸せにとって子供は『絶対に必要な存在』だった。夕菜は子供を産めないなら自分は幸せになれないとすら思ってた」

「…………」

「その後の夕菜は……かなり荒れた。受け入れたくなくて、でも現実は変わらなくて……僕は初めて夕菜と喧嘩した。今でも思い出せる。僕は夕菜に言ったんだ。『子供がいなくてもいい。夕菜が隣にいてくれればいい』って。夕菜は泣き叫んだよ。『子供がいなきゃだめなの! しゅう君とあたしの子供が欲しいの!』って。……あまりにも暴れるから、僕は初めて夕菜を叩いた。何倍も殴り返されたけど、殴られたことより叩いてしまったことの方がよっぽど痛かった」

 竜胆さんはその時の事を思い出したのか辛そうに右手を押さえた。

『叩いてしまったことの方がよっぽど痛かった』……その言葉が酷く重くのしかかった。

 竜胆さんだって人間だ。いつだって優しい訳ではないし、感情が昂ってしまうこともあるだろう。

 竜胆さんの懺悔ざんげは続く。

「その後も何度か喧嘩して……やがて夕菜は子供のことについて何も言わなくなった。僕は夕菜が同じように受け入れてくれたのかと思ったんだ……子供を持てなくても、二人で幸せになろうって、夕菜も思ってくれたのかなって……。でも、違った」

 ずん、と竜胆さんの口調が重くなる。

「……遺書にね、書いてあったよ。『しゅう君とあたしの子供がいない未来にいても、あたしは幸せになれない』って。……僕だけじゃ、だめだったのかな……二人だけでも幸せを目指すのは、だめだったのかな」

「竜胆、さん……」

 竜胆さんの目には涙が浮かんで、静かにその頬を伝っていた。

 私は竜胆さんの正面に移動して、その太ももに座って……少しでも僅かでも、その悲しみが薄れるようにとそっと彼を抱きしめた。

 竜胆さんが私にしてくれたみたいに、優しくその頭を撫でる。

 震える肩に何度も漏れる嗚咽おえつ

 竜胆さんの悲しさや悔しさが幾重いくえにも伝わってきて私まで泣きそうになったけれど、ぐっと堪えて我慢する。

 竜胆さんも縋るように私のことを強く抱きしめてきた。痛くて息苦しさも感じたけれど、私は何も言わずに彼のことを撫で続けた。

 私は何度か……何度も竜胆さんの前で泣いたことがあるけれど、竜胆さんが私の前で涙を見せたのは初めてだった。普段強い感情を見せない彼が今、隠そうともせずにその心の内を晒してくれるのを見て、竜胆さんがそれほど夕菜さんの死に心を痛めているんだと思うと、やはり竜胆さんが優しい人なんだと改めて思う。

 夕菜さんへの想いが伝わってくる嘆き。

 その想いの強さをわかっているけれど、私は——

「……竜胆さん」

 そっと彼の名前を呼ぶ。

「ん……ごめん、何、かな」

 竜胆さんは袖で涙を拭って、そっと私から離れようとした。私は腕に力を込めてそれを阻止する。

「優奈、ちゃん?」



「私、竜胆さんのことが好きです」



 言葉は、するりと出てくれた。

 何の飾り気もない、気の利いた言い回しでもない、率直な私の本心。

 それを受けて竜胆さんはあからさまに固まった。予想外のことになると出る癖なのかな、なんて場違いなことを考えながらも私は想いを伝え続ける。

「いつも優しくしてくれて、些細なことにもありがとうって言ってくれて、私の事を思って行動してくれる竜胆さんが大好きです」

 顔を見て言えない自分の弱さがちょっとだけ悔しい。本当は正面から彼に伝えたい。

「竜胆さんとの毎日は本当に穏やかで、楽しくて……生きててよかったって、竜胆さんに会えてよかったって、心から思えました」

 速くなっていく鼓動が、徐々に上がる体温が、そして竜胆さんへの好きって気持ちが、確かに彼に伝わるように私はまた腕に力を込めてぎゅっと思いの限り竜胆さんを抱き締める。

「私は……竜胆さんと一緒に、幸せになりたいです。ずっと竜胆さんの傍にいたいですし、ずっと竜胆さんに傍にいてほしいです。私では……だめですか? 私では夕菜さんの代わりにはなれませんか?」

 どくん、どくんと規則正しい彼の鼓動とどくどくと早鐘を打つ私の鼓動。リズムの違うその二つをずっと全身で感じながら、私は竜胆さんの答えを待った。

「…………」

「…………」

 一分。

 二分。

 彼は何も言わない。

 私も何も言わない。

 静寂な時間だけが過ぎていく。

 やがて……竜胆さんがそっと腕を解いて、私の両肩を掴み、


「優奈ちゃんは……夕菜の代わりにはなれないよ」

 悲しげな顔を浮かべて、言った。


「——っ!」

 グサリと、胸を刺されたような鋭い痛みが全身に走る。あまりの痛さに一瞬呼吸さえも止めてしまったほどだ。思わず涙が滲んでくる。だけど必死に拳をぎゅっと握って我慢した。


 わかっていた。そんなこと、わかっていた。竜胆さんの心は今でも夕菜さんのことで占められていて、私では入れないことくらい。


 どんな結果になっても受け入れるって覚悟した。その思いは変わらない。

 けれど……覚悟してても、竜胆さんの否定の言葉を受け入れることは苦しかった。

「優奈ちゃんは夕菜の代わりには、なれないよ」

 二度も言わなくても分かりますよ。

 そう言おうとしたらけれど、動いたらそれだけで我慢できなくなってしまいそうで。

「僕は一度も優奈ちゃんのことを夕菜の代わりとして見たことは無いよ。夕菜は夕菜で、優奈ちゃんは優奈ちゃんだから。二人とも僕の大切な人で……僕の好きな人だよ」

「…………え?」

 私は顔を上げて彼の顔を見た。

 その拍子に涙が零れて頬を伝う。

「僕も、優奈ちゃんのことが好きだ。色々気配りしてくれて、思いやりを感じられる優しさが好き。ちょっとだけ泣き虫さんだけど、素直に感情を表に出してくれるところが好き」

 求めていた言葉なのに、それを聞いてる自分の耳を疑ってしまう。

 竜胆さんが何度も私のことを好きだと言ってくれるなんて、夢じゃなかろうか。

「優奈ちゃんが来てからさ、毎日が明るくなったと思う。ご飯は美味しいし、色んなことで話せるし……優奈ちゃんが笑ってくれるとね、嬉しいって思うんだ。この子と一緒にいたい、ずっと笑っててほしいって思うようになった」

「私だって……私だって、そうですよ。竜胆さんにずっと笑顔でいてほしいです……! でも……!」

「……夕菜のこと、かな?」

 私は頷いて肯定する。

「……夕菜にね、怒られたんだ」

「……?」

 その時の竜胆さんの表情はなんと表現すればいいのか、わからなかった。

「いつまでも夕菜のことばかりではだめだよって。夕菜のことを忘れて幸せになってって」

「…………」

 自分のことを忘れて幸せになって……それを書いていた時、夕菜さんはどんな気持ちだったのだろう。私は……夕菜さんが竜胆さんのことを思って書いたのだと思う。好きな人が幸せになってほしいと願うのは、きっと自然なことだから。

「優奈ちゃんには悪いけど、僕は夕菜のことは絶対に忘れない。忘れてなんかあげない。だけど……」

 竜胆さんはそっと私を抱き寄せた。

 さっきまでの縋るようなものではない、温かさを感じる抱擁。

「優奈ちゃんと……幸せに、なりたい。優奈ちゃんのことを幸せにしたい。……半端な気持ちだってことは重々承知してるけど、これが僕の本音なんだ」

「私は……」

 私はそっと腕を上げて、竜胆さんと同じくらいの力で彼に抱きついた。告白したときよりずっと弱いけれど、確かに互いの鼓動が感じられる距離。



「……!」

「……もちろん悔しくないかと聞かれたら悔しいって答えます。私だけを見てほしいって気持ちも確かにあります、否定しません。

 だけど——夕菜さんと過ごした時間があるからこそ、今の竜胆さんなんだと思います。

 私は今の竜胆さんが好きなんです。今の竜胆さんに繋がった、夕菜さんとの過去を、思いを……私は忘れてほしくないです。竜胆さんが忘れてしまったら、夕菜さんの残した想いまで死んでしまいます」

「優奈、ちゃん……うん……うん……」

 竜胆さんの声に涙が混じり始めたけれど、私は気づかないふりをして思いの限りを言葉にする。

「夕菜さんのこと、絶対忘れてはだめです……その想いをずっと抱えながら、その上で、私のことを幸せにしてほしいです。ずっと優しくしてほしいし、いっぱい抱きしめてほしいし、沢山愛してほしいです。私も竜胆さんのこと、ずっとずっと愛し続けます。……我儘でしょうか?」

「そんなこと、ないよ……。うん、約束する。僕は夕菜のこと、絶対に忘れない。その上で優奈ちゃんのこと、絶対に幸せにしてみせる」

 竜胆さんは何度も袖で涙を拭って……笑ってくれた。私も好きな人の笑顔を見られて綻んでしまう。

 ……私はそっと竜胆さんに顔を近づけた。

 竜胆さんはちょっとだけ首を傾げて、でもすぐに察してくれて微笑んだ。


 初めて交わした口づけは、やっぱり涙の味がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る