七章・過去

 気づいたら確かめずにはいられなかった。

 私は悪いことをしていると思いながらも、夕菜さんの部屋の前に立ち震える手で橙色の鍵を鍵穴に差し込んだ。すっと抵抗なく入った鍵は小さく捻るだけでその錠を解いた。

 私は恐る恐るその扉を開ける。私の部屋のカーテンと同じものが使われているのか遮光性がかなり高く、部屋は真っ暗で何も見えない。手探りでスイッチを見つけて明かりをつけると、可愛らしい雰囲気の部屋が目に入ってきた。

 まず印象的だったのは色だ。

 カーペットも壁紙も薄い橙色が使われている。テーブルの上に置かれたシャープペンシルや写真立て、小さなクッションなども大体が橙色を基調としたデザインをしていた。

 次に気づいたのはあまり物が置かれていないということだった。テーブルの上には幾つが可愛らしい小物があるけれど他にはほとんど何もない。夕菜さんは本はあまり読まなかったのか、この家であちこちにある本棚がこの部屋には無かった。

 こんなにも明るい色で彩られているのに、寂寥感が漂っているのはやはりこの部屋の主が二度と帰って来ないからだろう。可愛らしいシャープペンも、柔らかそうなクッションも、二度と持ち主に使ってもらえない。

 そんな現実が。

 悲しくなるほどの現実が感じられて。

 私は酷く心が苦しくなった。

 ふと写真立ての中で笑っている人物に目がいった。そこにはどこかの遊園地らしき観覧車を背景に、二人の男女が並んで写っていた。男の人はすぐ分かる。今よりも少し若い竜胆さんだ。そして隣で楽しそうに笑っているショートヘアの少女——

「この人が、夕菜さん……?」

 竜胆さんに寄り添って、無邪気にピースしている少女。そこには自殺しそうな雰囲気など微塵も無くて、幸せすら感じる一枚だ。

 私は写真を良く見ようとテーブルに近付いた。空気の循環がほとんどないからか埃はまるで存在しない。買ったばかりに見紛う写真立てをそっと手に取ってしばらく眺めた後、私は何となく裏側を見てみた。

『20xx/8/3 〇〇遊園地でしゅう君と♡』

 少し丸みのある字で撮られた日付と場所が書かれていた。

「しゅう君……」

 以前聞いた竜胆さんの愛称。秋夜だからしゅう君、なのだろう。

 書かれている日付は今から九年前。計算すると竜胆さんが高校二年生の時のものと分かる。

「こんなに幸せそうなのに、どうして……?」

 どうして自殺なんてしてしまったのだろう。

 何が彼女を駆り立てたのだろう。

 確か夕菜さんが亡くなったのは七年前の五月。高校を卒業してからまもなくの事だ。この写真が撮られてから一年以上後のことだけど、その間に一体何があったというのだろう。

「……? ここ、少し開いてる……」

 遠目からでは気づかなかったけれどテーブルの傍にある木製のキャビネットの上から一段目。ほんの少しだけだけど、しっかりと締められていない箇所があった。

 私はそっと手を伸ばし——心の中で謝りながらその引き出しを引いた。

 チャリ、と小さな金属音が聞こえてきた。

 中には一冊の橙色のノートと小さなロケットペンダントが入っていた。

 ロケットペンダントの方は見覚えがある。竜胆さんがいつも首にかけているのと同じ大きさとデザインだったから。

 手に取って開けてみるとテーブルの上の写真より少し髪が伸びている二人が写っていた。この写真でもやはり二人は幸せそうに笑っている。

「…………」

 会ったことも話したことも無い人なのに、彼女が二度と笑うことが無いのだと思うと涙が滲んできた。そっとロケットペンダントを元の位置に戻して、私はノートをそっと手に取った。長く使われていたのかノートは結構ボロボロだった。

 めくって見る写真裏に書かれていた字と同じ丸みのある字で幾つもの文章が綴られていた。

『20xx/4/3 今日は高校の入学式! 

 中学からの友達も多いけど知らない人もいっぱい。でもそれって沢山友達作れるチャンスだよねー。せっかくの高校生生活、楽しいものにする為にいっぱい友達作っていっぱい遊ぶ! 

 あと生徒手帳の写真が似合ってないと言ってきた陽菜にはおしおきしておいた。全く! ( *`ω´)』

「……これ、日記だ」

 表紙には何も書いていないし日付も飛び飛びになってたりするけれど、紛れもない夕菜さんの日記。時々顔文字が使われているのは彼女の趣味なのだろうか。その時の夕菜さんの表情がなんとなく脳裏に浮かんできて、読んでて楽しくなってしまう。

 その後も高校での生活が面白おかしく綴られていた。化学の先生の授業がつまらないとか、同じクラスの渡ゆめという子が五月の全国テストで13位を取って学校を震撼しんかんさせたとか。

 人の日記を盗み見るなんて良くないとわかっているのに、夕菜さんの書いた思いから目を話せない。そしてページをめくっていくと見知った名前が登場した。

『20xx/6/2 放課後が大雨。

 傘を持っていくことを散々言われてたのに忘れて、あたしはブルーな気分だった。よよよ……(TT)

 ため息吐きながら教室に戻ると竜胆君が難しそーな本を読んでいた。あまり話した事が無い彼。ゆめちゃんのせい(?)で目立ってないけれど彼も結構頭いいんだよね。

 そんな竜胆君が何読んでるのか気になって、あたしは彼に聞いてみた。種の起源って言うダーウィンが書いたものらしい。ダーウィンはあたしも聞いたことあったからわかった。えっへん! ( ̄^ ̄)

 その後なんやかんやで竜胆君の傘に入れてもらえることになって、あたしはやまゆり院に帰宅した。竜胆君はあたしが孤児院の人間だってことに最初だけ驚いたようだったけど予想よりはリアクション薄かった。

 なんか達観してる感じー。でも露骨に距離置かれたりするよりはよっぽどマシ。

 今まで何となく話しかけにくい雰囲気だと思ってたけど、話してみると案外楽しい人かも。他の子と違ってなんか大人な雰囲気だからかな? 明日はお礼もかねてもう一度話してみよう』

 先日竜胆さんから聞いた、竜胆さんと夕菜さんの馴れ初めの日の事が書かれていた。

 なんやかんやって何があったのかちょっと気になるけど。

 その後も文章を追っていくと時々竜胆さんの名前が出てくるようになった。クラスの人との交流も多く書かれているけれど、竜胆さんのことについては……なんだか浮かれているような雰囲気がある。普段は十行ほど書いているのだけど彼が出てくる時はその倍近く書き記している。

「あ……」

 また暫くめくっていくと、今度は夏休み期間の事が書かれていて、その最後の方に——告白した日のことが書かれていた。

『20xx/8/27 今日あたしの人生で初めて告白した。相手は竜胆君。

 夏休みの間何度か一緒に遊んで仲良くなって、気がつけば毎日彼のことばかり考えるようになって。恋だなーって自覚した。

 竜胆君は最初面白いくらい固まったのがなんか可愛かった(*´꒳`*)。あたしの言ったことを理解するのに30秒くらいかかってた気がする。その後ほんの少し首を傾げて、長い指で自分のこと指差して、「僕?」って短く聞いてきたから「そうだよ」って言ってあげた。そしたらまた固まった。

 告白した後に静かになられるとほんと心臓に悪い。もうすっごく緊張した。人生で一番緊張したかも。

 あまりにも固まって動かなかったから、思いっきりキスしてあげた。彼が逃げないようにがっちり抱きついて、ずっと目を見て、あたしの想いを受け取れー! って感じで、息苦しくなるくらい長くて深いやつ。

 流石の彼でも照れることはあるみたい。キスが終わったとき相当赤くなってた。

 その後もちょっと考えていたみたいだけど、「僕でいいのなら、よろしくお願いします」って言ってくれた。

 竜胆君でいいじゃなくて、竜胆君がいいんだよ。全く( *`ω´)。

 恋人ができたのは初めてだけど、ちゃんと上手く付き合っていけるかな? ちょっと不安だけど、すっごく楽しみ! だって竜胆君とあたしだもん、絶対幸せになれるって!』

「…………」

 私は嬉しそうに書かれたその文を何度も何度も読み返した。特に最後に書かれた一文——絶対幸せになれる。

 この日記を書いている時、夕菜さんは心の底からそう信じていたんだと思う。きっとOKを貰えた時は舞い上がっていただろう。

 恋だと自覚して、告白して、恋人同士になる。それはとっても素敵で、羨ましいくらいに素敵な出来事で。

 なのに私は……彼女の結末を知っているから余計に、その幸せという文字を見ると悲しみが溢れてきて、どうしても泣かずにはいられなかった。


 その後の日記も読んでいくとやはりというか、竜胆さんの事が中心に記されていた。どこに行った、どんな話をした、どんなことを思ったか。読んでいるだけでその時の二人のことが目に浮かぶくらい沢山の出来事が書かれていた。

 ……流石に初めてのエッチを数ページにわたって書かれた部分は読まないようにしたけれど。その後も何度かそういうシーンが書かれてて困った(勝手に読んでいる私が言えた義理ではないが)。

「……?」

 しかし、日付を進めても夕菜さんが幸せそうなことしか書かれていない。例えば、

『20xx/2/28 今日はとっても嬉しい日! しゅう君が大学に合格したの! 九重科学大学って名前の今年度にできたばかりでとっても新しくて綺麗なところ。やっぱりしゅう君頭いいからね、絶対受かるってあたしはわかってたもん( ◠‿◠ )

 おめでとうしゅう君!』

 とか、

『20xx/3/7 今日も素敵なことが起きた。なんと前に買った宝くじが当選したの! それも7000万円!(゚ω゚) 凄い金額で唖然としちゃった。しゅう君のお父様たちに頼んで色々手続きして貰って、お家を買うことにした。新しい家でしゅう君と沢山子供作って、いっぱい愛するの! 

 忙しくなりそう! だって引っ越しの準備とかしゅう君の大学の手続きとかやることたくさんあるもん。でもすっごく楽しみ! だってしゅう君と一緒に暮らせるんだもん(≧∀≦)』

 とか。

 竜胆さんが若いのにこの家を購入できたのはそういう理由だったんだ。

 そんな納得をしながらページをめくって……その感触が今までのとは違うことに気がついた。

「……? ひっ!」

 ぐしゃり、とページが潰されていた。多分力任せに握ったのだろう、何枚ものページがぐしゃぐしゃにされて破れて皺だらけになっていた。

 そっと皺を伸ばしてみるが何も書かれた形跡はない。

 何枚もめくって……ようやく文章が現れてくれた。

『ウソだ。そんなの信じたくない』

「……?」

 初めに書かれていたのはそんな短い言葉。

 今まで見ていた字と同じ、丸みのある可愛らしい字なのに全然雰囲気が違う。

 淡々としててどこか薄寒く感じるほどの一文。

 しかし続きを読んでいくと——その理由が書いてあった。

『この前田島病院に行った。しゅう君にあたしの身体のことを相談したからだ。それで検査を受けて、今日結果を聞かされた。早期卵巣不全そうきらんそうふぜんと言われた。それも深刻化してる卵巣癌らんそうがんによるものだって。あたし先生に聞いたの。「子供は?」って。先生はすぐに首を横に振って、子供を持つことは絶望的だろうと、言った』

「——!」

 卵巣不全。そして卵巣癌……!

 どちらも目を背けたくなるような単語。

 これを書いている時夕菜さんはまだ私と同じ18歳のはず。詳しくはわからないけれど、その年で癌を発症してるとなると相当早いはずだ。

 竜胆さんと暮らせるようになって、欲しいと何度も書いていた子供を育てる環境が整って、何もかもがこれからという時に。

 そんな時に癌だと、子供を持てないと宣告なんてされたら。

 その時の夕菜さんがどんな思いを抱いたのか、私には想像すらつかない。

「これが、きっかけ……?」

 それまでの日記で夕菜さんが竜胆さんと子供について話しているというのは何度か書かれていた。名前や性別、何人欲しいとか書いている日は、その……どうやらエッチした日らしいけれど、彼女が竜胆さんとの子供を望んでいたのは間違いない。

 テーブルの上には『子供の名前図鑑 ~その漢字の意味、大丈夫? ~』という題の本があって、いくつか付箋も貼られていた。

 そんな夕菜さんが。子供を欲しがっていた彼女が。

 子供を持てない現実に絶望して命を絶ってしまうというのは、十分考えられそうなことだった。


『あたしはしゅう君との子供が欲しかったのに……しゅう君は違うの? 

 しゅう君はあたしとの子供が欲しく無いの? 

 しゅう君の幸せって何? 

 こんなに一緒に過ごしてきたのに、今までで一番しゅう君がわからないよ』


 その次のページに書かれているのは夕菜さんの無念だった。

 後半の方は所々滲んでいる。きっと泣きながら綴った文章なのだろう。

『幸せって何?』

「幸せ……」

 その一言が、本来とてもいい印象のその言葉が、酷く重く心にのしかかった。

 やるせないとすら思ってしまう。

 その後はもう日記とは言えない、夕菜さんの叫びが思いのままに残されていた。

 めくってもめくっても、書かれているのは拒絶や怒り、恨み言に嘆き。どのページも僅かだが涙の跡があちこちにある。

 そして——


『しゅう君へ』


「——っ!」

 バタン!

 最後のページの最初の一文を見て、私は咄嗟に日記を閉じた。

 嫌な汗が、手の震えが、荒い呼吸が止まらない。もう夏だというのに全身に鳥肌が立って寒気すら覚えた。


 

 。 


 そう直感が告げていた。

 嫌な予感が胸を過った。

 夕菜さんの嘆きと絶望、そして自殺という結末。

 彼女の想いを綴った日記の最後に書かれている竜胆さん宛の文章。

 ……読んでいなくてもわかる。夕菜さんの、遺書だ。



 その後のことはほとんど覚えていない。

 夕菜さんの部屋に入ったことや日記を読んでしまったことに対する罪悪感が止まらなくて。

 酷く気分がすぐれなくて、食欲もお風呂に入る気力も湧かず。

 私は竜胆さんとの話をそこそこに打ち切ってしまい、一人ベッドに倒れ込んだ。



 ピンポーン……

 次の日の朝。あまり鳴ることのないインターホンが鳴った。

 ピンポーン……

 私はその音で目が覚めたけれど起き上がることすら気怠くて、また眠ろうとしたが、

 ピンポーン……

 インターホンは鳴り止まない。この部屋は防音性が優れているのに、ずっと聞こえてくる。

 不思議に思って部屋の入り口を見ると扉が開け放たれていた。きっと昨日閉め忘れたのだろう。

「……誰だろう」

 頭痛すら感じるのを我慢して、私はなんとかモニターまで体を引きずって……

「渡、さん……?」

 マンションの共用玄関でずっとインターホンを鳴らし続ける、わたりさんの姿を見たのだった。


「昨晩遅く、竜胆君から依頼が有りました。貴女の様子が心配だから見に行ってくれないかと」

 ドアを開けるのも気怠かったのだが、インターホン越しにそのような事を言われたので無視出来なかった。

 リビングで私の向かいに座った渡さんは私の事をまっすぐ見ながら経緯を話してくれた。

「昨夜の十時半頃、店に電話がかかってきました。非常識な時間帯だったので最初は無視してましたが、いつまでも鳴り止まないので出てみたら竜胆君で、開口一番、貴女の様子を見てもらえないかと頼み込んできました」

「竜胆さんが……」

「酷く体調が悪そうだということで。その時彼からある程度ですが、貴女と竜胆君の関係を聞いてあります。もしも病院とかに行くのであれば連れて行きますが、舞園さん。貴女の不調は肉体的な何かが原因ですか?」

「…………いいえ」

 訊ねてくる渡さんの目つきはかなり鋭い。本人にその気はないだろうけど、睨まれてるように感じてちょっと怖かった。

 私は彼女の視線から逃げるように目を逸らして、小さな声で答えた。

「そうすると精神的な何かということですか?」

「…………はい」

「そうですか。舞園さんが話したくないなら聞く気はありません。私がいることが嫌ならそう言ってもらえればすぐに帰ります。どうしますか」

「なんて言えばいいのか、自分でも整理がついてなくて……」

「話す気はあると?」

「……わからない、です。どうすればいいのか、なんて言えばいいのか……」

 本当にわからない。今も頭の中はぐちゃぐちゃにかき混ぜられてるみたいで全然思考がまとまらない。正直渡さんと何を話しているのか、自分でもあまり理解出来ていない。

 と、その時、ぐぎゅぅ……と間抜けな音がお腹から響いた。

 そう言えば最後にご飯食べたのが昨日の朝だ。昼は本を読んでいたし、夕飯は食欲が無くて抜いたのだ。おかげで全然力が入らない。

 渡さんはその音を聞いて、すっと立ち上がった。

「おかゆとかなら食べられそうですか?」

「あ……えっと、はい……」

「では私が作りますから、少々休んでてください」

 渡さんはそう言うとさっとキッチンへと向かって行った。私はお礼すら言えなかった自分がちょっと恥ずかしくなった。


 渡さんが作ってくれた卵粥たまごがゆは空腹だった私にはとても美味しく感じられた。あまり多くは食べられなかったけれど、お腹が満たされたからか先ほどよりは気分が落ち着いてきた。

 私が食べている間、気を遣ってくれたのか渡さんは本棚を眺めたりソファに座って雑誌をめくったりしながら私の視界に入らないようにしていた。彼女がたてる僅かな音が何故だか酷く心地良い。

「気分はどうですか」

 私が食べ終えて数分後。大分落ち着いてきた時に渡さんは聞いてきた。

「さっきよりは、良くなりました。美味しかったです、ありがとうございます」

「それはよかったです」

 パタンと読んでいた雑誌を閉じて、渡さんが立ち上がる。

「……渡さん。あの……」

 私は彼女に呼びかける。渡さんならきっと知っていると思って、思い切って聞いてみることにした。

「なんでしょう」

「渡さんは、その……夕菜さんのこと、ご存じ、ですか」

「夕菜……あぁ、舞園さんも『ゆうな』という名前でしたか。失礼。舞園さんの言う『ゆうな』とは畳野夕菜さんのことですか?」

「そう、です。その、夕菜さんのこと……少しでもいいので、教えてもらえないでしょうか」

「私より竜胆君の方が知ってると思いますが。それとも彼以外の視点からの彼女を知りたいのですか?」

 私は渡さんの目を見て頷いた。

「私は彼女と三年間を共に過ごしましたが、あまり多くは関わっていません。側から見ていただけの、単なる印象の話になるかもしれませんよ?」

「それでも……知りたい、です」

「わかりました。飲み物を用意しますので、少しお待ちください」

 渡さんはキッチンへ向かう際に私の皿を下げてくれた。何から何までさせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 やがて渡さんは二つのホットココアを持ってきてくれて、私の正面に腰掛けた。



「彼女のことは夕菜と呼んでいたのですが、紛らわしいので今は畳野さんと呼びます。私から見た畳野さんはいつも楽しそうに日々を過ごしていました。彼女は誰とでも仲良くしてたのですが、それは人との距離を考えてからとるようにしていたからだと思います」

「考えてから、距離をとる……?」

「そうです。仲が良いというのは、無条件で親しく接するのではなく、適切な心の距離がわかっているから築ける関係なのです。例えばですが」

 そう言って渡さんは不意に私に向かって手を伸ばしてきた。届かないとわかっていたのに私は思わず身体を背けてしまう。

「あ……」

「この様に、よく知らない相手から急に接近されれば大体の人は身を守るために逃げたり、警戒したりするでしょう。もし今手を伸ばしてきたのが竜胆君だったら、舞園さんはどうしてましたか?」

「竜胆さん、だったら……」

 ……多分何も警戒せずに、受け入れていたと思う。少し前、竜胆さんが九重さんとダーツで勝負してた際に急に竜胆さんに、その……抱っこされたのを思い出した。竜胆さんが凄く近くまできて、何も言わずに腕を回してきたのに全然嫌だとかは思わなくて……。なんだか思い出したら恥ずかしくなってきた。

「少なくとも私とは違う反応を舞園さんはしたと思います。舞園さんと私との距離、舞園さんと竜胆君との距離、これらは別のものでしょう。同じ事象でも不快と思ったり嬉しいと思ったりする。畳野さんはそういった、『相手が不快と思わない距離』をごく自然にとることが誰に対しても出来る人でした」

「……ちょっと羨ましいです。私は、人との接し方、全然わからないですから」

「私もよくはわかりません。ある程度才能もあったと思いますが、畳野さんはよく人を見ている人でしたよ」

 そこで渡さんは一息ついて、ココアを優雅に口にした。動作のひとつひとつにも彼女の凛とした雰囲気が現れていて、私は目を奪われていた。

「渡さんは……竜胆さんと夕菜さんのこと、どのくらいご存じなのでしょうか」

「正確な時期は覚えていませんが、一年生の頃から交際していたのは知ってます。畳野さんが色んな人に惚気てましたから」

「あはは……」

 確かに日記を見てると夕菜さんは結構おしゃべりな人という感じがあった。

「少なくとも彼らが喧嘩しているところを私は目撃したことがありません。畳野さんは竜胆君への好意を隠さずに曝け出していましたし、竜胆君もそれを微笑みながら受け止めていました。見てるだけで幸せになれるカップルだと、校内でも結構人気がありましたよ」

「そうなんですね……」

 見たことはないけれど、容易に想像できてしまう。笑いながら竜胆さんに身を寄せてる夕菜さんと、それを優しく受け止めている竜胆さん。自分たちだけでなくて周りまで幸せにしてしまうなんて、とてもお似合いの二人だったのだろう。

「私が話せるのはそのくらいでしょうか。参考になりましたか?」

「はい、とっても。ありがとうございます」

 竜胆さんとも夕菜さんの日記とも違う、第三者からの視点で見ても、彼らはとても幸せな時間を過ごしていたとわかった。だからこそ私は、その時間が長く続かなかったことが悲しくて仕方ない。

「……舞園さん。私から一つだけ、不躾な質問をしたいのですが、よろしいですか」

「……? なんでしょう?」

 今まで淀みなく話していた渡さんが珍しく一瞬言い淀んだ気がした。


「畳野さん——畳野夕菜さんは、いまどこにいますか?」

「!」


「私が大学や院に行っている間は知らないですが、竜胆君は高校卒業後も度々来店してくれました。多ければ月に四回くらいは。しかし畳野さんは一度も見た覚えがありません。最初は畳野さんが本に興味がないからついてこないだけかと思ってましたが」

 そこで渡さんは一度言葉を区切り、ぐるっとリビングを見渡した。

「……畳野さんがここで暮らしている気配が感じられません。先程畳野さんのネームプレートがかかっている部屋がありましたけど、食器や靴などから考えるとどうも違和感があります。入院でもしているのですか?」

「夕菜、さんは……」

 続く一言がどうしても言えなかった。言おうとして、何度も口にしようとしてその度に胸が苦しくなってしまって。

「夕菜、さんは……夕菜さんは……」

「……舞園さん? 何故泣いているのですか?」

 渡さんにそう言われて、私は我慢が出来ずに泣き出してしまった。

 泣いてるところなんて見せたくないのにどうしても涙が止まらない。

「夕菜さんは——七年前に自殺してしまったんです……私、勝手に夕菜さんの部屋に入って、彼女がつけてた日記を勝手に読んで……それで……」

 さっきまで全然言えなかったのに、一度言い出したらもう止まらなかった。私は自分が昨日したことを嗚咽混じりにも渡さんに説明した。

 渡さんはただ黙って私はの言葉を聞き続けた。渡さんに何か聞かれてもぐちゃぐちゃになった頭ではまともに答えられなかったと思うから、その沈黙はありがたかった。


「……そうですか」

 数分後。私が全部話し終えた時、渡さんは短く頷いた。

「もしかしたらそういうこともあるかもとは考えましたが、本当に亡くなられてるとは。舞園さんが体調不良になったのは、畳野さんの想いに触れてしまったからですか?」

 私は黙って頷いた。夕菜さんの竜胆さんへの想い、描いていた幸せな未来が潰えたことへの拒絶、様々な夕菜さんの想いがその死によって消えてしまったことが悲しくて仕方がなかった。

「竜胆さんは……きっと今でも、夕菜さんのこと、大切に思ってて。だからこそその死に囚われてるようなんです。竜胆さん、よくロケットペンダントを触ってますし、どこか見てると思うと夕菜さんの部屋の方を向いているんです」

「確かに彼は情が深いですからね。あまりはっきりとではないですが、畳野さんを大切にしている雰囲気はありました」

「そう、ですよね……」

「舞園さん。気休めにならないとは思いますが、一応言っておきます。あまり畳野さんの想いに同調しない方がいいですよ。畳野さんは畳野さんで、舞園さんとは違うのですから」

「…………」

「それに、舞園さん自身の想いもあるでしょう」

「私の、想い……?」

「貴女自身の、竜胆君に対する想いです。

 舞園さんも竜胆君のことを少なからず想っているのでしょう?」

 貴女の態度を見ていればわかりますと言いながら、渡さんはまたココアを飲む。

「それ、は……そう、です。私だって、竜胆さんのこと好きです。最初は怖かったですけど、行き場のない私を助けてくれて……優しくて頼りになって……好きにならないわけ、ないじゃないですか」

 竜胆さんへの想い、好意。それは先日自覚したばかりのことだ。

 だけど今は夕菜さんのことを知ってしまって、その想いをどうすればいいのかわからなかった。

「舞園さんから見て竜胆君が畳野さんの死に囚われてる、傷ついている様に見えるのなら——貴女が彼に寄り添って、その心を癒やしてあげればいいのでは」

「癒やして……」

「言っておきますが、竜胆君は他人同士の感情については結構敏感に感じ取って配慮できますが、彼自身に向けられた感情についてはかなり鈍感ですよ。畳野さんの時もそうでした。畳野さんが側から見てもわかる好意を向けているのにいつもと変わらない態度をとっていましたし、それに焦れて畳野さんが告白したと本人が言ってました」

「でも……今でも夕菜さんのことを想っているのに、私が好意を伝えても迷惑じゃないでしょうか」

 もしも私が好きだと言えたとして、それを竜胆さんはどう受け取るのだろう。

 仮に夕菜さんのことを理由に断られてしまったら……考えたくない。

「迷惑だからと遠慮して、舞園さんの想いを殺すのですか? 悪く言ってしまえば——『死んだ女に負けてて悔しくないのですか?』」

「——!」

 一瞬、渡さんの雰囲気がガラリと変わって。

 その時に紡がれた言葉は寒気や怖気すら感じるものだった。

「彼に振り向いて欲しいなら、愛して欲しいなら、ちゃんと想いを伝えなければだめですよ。言葉でも、文字でも……方法は問いません。舞園優奈という女性の想いを、竜胆秋夜に伝えなさい」

 私から言えることは以上です。

 そんな事務的な口調で話を締めて、渡さんは残っていたココアを飲み干した。


 その後。私は一人で考えたいこと、体調のことはもう大丈夫だということを渡さんに伝え、彼女には帰ってもらった。

 渡さんは何かあったら連絡して下さいと、丁寧な字で連絡先を残していった。

 その残されたメモを見つめながら、私は自分の思いと夕菜さんのことについてずっと考えていた。



 その日の夜。

「優奈ちゃん、体調はどう? まだ辛い感じ?」

 開口一番の言葉は私に対する気遣いだった。あまり覚えていないけれど昨日はかなり失礼なことを言ってしまったのに、竜胆さんはそんなことおくびにも出さないでいる。

「もう大丈夫です。昨日は、その……あたってしまってごめんなさい。それから渡さんのこと、ありがとうございます。ご飯作ってもらったり、話を聞いてもらえたりでとても助かりました」

「そっか……それはよかった。今度お礼しに行かないとね。何がいいかな……」

 電話の向こうでホッとした雰囲気があった。

 心配をかけてしまって申し訳ない気持ちと、心配してもらえたことが嬉しい気持ち。その二つが心の中で混ざり合ってちょっと複雑な気分だった。

「竜胆さんは……なんだか疲れてるように聞こえますけど、大丈夫ですか?」

 声がいつもよりも力が無い感じだ。こころなし大きく息を吸うことが多くなってる。

「うん? あぁ……まぁ、疲れてるかな。でも今回の予定の中で一番の難所だった部分が予想よりはスムーズに終わったからね。落ち着いたらどっと疲れが押し寄せて来た感じ」

「難所?」

 書類作成に難所があるのだろうか。そういった事には関わったことがないので上手く想像ができなかった。なんだろう。偉い人にハンコを押してもらうとかかな。

「こっちの話だから、優奈ちゃんは気にしなくてもいいよ。それと……早くても二十時とかになると思うけど、明日中に色々纏めて帰る予定だから」

「! 本当ですか!?」

「うん。荷物が予想より少なかったこともあってね。雨水の力も借りればなんとかなりそうだから、頑張るよ」

 荷物? 予想より少ない?

 一体何のことだろうと思ったけれど口にはしなかった。

「……ホテルの料理もいいんだけどさ、僕には優奈ちゃんの作ってくれるご飯の方が合ってる気がしてね。久しぶりに食べたいから、晩御飯作っててもらえるかな?」

「それは勿論。何かリクエストとかありますか?」

「リクエストか……そうだな。前に食べた魚の煮付け。カレイだっけ、あれがいいんだけど頼めるかな」

「わかりました。明日買って来ますね」

「うん、お願い。無かったら何か優奈ちゃんの好きなものでいいから。あとお風呂の準備もお願いしたい」

 そんな何気ない会話なのに竜胆さんと話せることが嬉しくて、つい顔が綻んでしまう。

「竜胆さん、あの……上手く言えないですけど、その……明日も頑張ってください」

「……。あぁ、頑張る。明日に備えて今日はもう寝るね。お休み、優奈ちゃん」

「あ、はい。お休みなさい」

 就寝の挨拶を交わした後、通話はプツッと切れた。

 竜胆さんとの会話が終わってしまったけれど彼が明日帰って来てくれると聞いたから寂しさはない。竜胆さんは言ったことは必ず実行してくれる人だから。

「……明日、か」

 私は小さく呟いてから部屋に向かった。

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