六章・自覚

「優奈ちゃん、ちょっと話があるから後で僕の部屋に来てくれる?」

 竜胆さんと暮らし始めて早一月半。段々暑さが感じられる日が多くなってきたある夜のこと。

 私は夕食の片付けをしている時に竜胆さんに呼び止められた。

「話、ですか……? わかりました。お皿洗い終わったら行きます」

「うん、よろしく」

 竜胆さんは静かにリビングから出ていく。

 話ってなんだろう。ここ最近、竜胆さんが誰かと頻繁に連絡をとっていることに関係あるのだろうか。近頃の竜胆さんはあまり本を読んでおらず、パソコンの前で色々操作してたり電話をしていることが多い。流石に内容を聞くのは憚られるからしてないけれど、携帯電話を片手に長時間話している姿を見かける頻度は高くなっていた。

 私は気になりつつも、まずは目の前の皿洗いに取り組んだ。


「竜胆さん? お話ってなんでしょうか」

 開け放たれているドアを一応ノックして、私は竜胆さんの部屋に入る。私が来た頃とは違ってちゃんと片付いておりすっきりしている部屋の中で、竜胆さんはいつもの椅子に座っていた。

「ごめん、もう少し時間かかるしれないから、座って待っててもらえるかな」

 竜胆さんは机の上で何か書類を整理していた。

「あ、はい……」

 竜胆さんの部屋には彼が普段使う椅子以外座るものがない。だから私は彼のベッドに腰掛けた。最初は抵抗があったけれど、竜胆さんは私に乱暴な事はしないって信じられるようになってからは自然とそこに腰掛けられるようになった。

 私の部屋のものと同じように少しだけ沈む柔らかいベッド。竜胆さんの匂いがちょっとだけだけど感じられて、密かに顔が赤くなる自分を自覚する。

「……うん。これで大丈夫かな。ごめんね、呼んでおきながら待たせちゃって」

「あ、いえ、全然……」

 書類整理が終わったらしく、私の方を向く竜胆さん。手にしているクリアファイルは何十枚と紙が入っているらしく、結構分厚くなっていた。

「それで、お話というのは……」

「端的に言うと、僕、明日の朝から暫く家を空けるよって話」

「え……?」

 それは一体なぜ?

 そう問おうとしたが思考が固まってしまって口が動かなかった。

「えっとね、色々出さなくてはいけない書類とかがあってさ。遠くに行く必要もあって。一々帰るよりも宿泊とかして一気に片付けてしまう方が効率がよさそうなんだ」

 竜胆さんは手にしたクリアファイルを見せてくる。色合いのせいで文字は読めなかったけれど。

「郵送とかでは、ダメなんですか?」

「ここにある書類が全てではなくてね。まだ先方に用意して貰ってる最中のものとかもあってさ……結構時間がかかりそうなんだ」

「そう、なんですか……」

「多分……最低でも一週間は戻らないと思うから、優奈ちゃんにこれ渡しておこうと思って。手を出してもらえる?」

 そう言って竜胆さんは私の手に、鍵束をそっと置いた。金属の冷たさと重さが伝わってくる。

「これ……」

「この家の鍵」

「それは見ればわかりますけど……私なんかに預けていいんですか?」

「優奈ちゃんだから預けるんだよ。優奈ちゃんはあまり外に出る用事はないと思うけれど、何かあった時に出られない状況っていうのは困るでしょ? 例えばトイレが急に壊れて使えなくなったとか」

「それは、そうですけど……」

 私だから預ける。

 それは信用してもらえてると思っていいのだろうか。

「今日色々買ったから大丈夫だと思うんだけど、念のためにね。お金もこの財布に入れておくから、何か必要になったら遠慮なく使って」

 そう言って竜胆さんは薄い黒革の財布を渡してくる。どちらも小さいものなのに、私にはひどく重く感じられる。

「明日は……何時頃出かけるのですか?」

「えっと……六時前には出る予定。結構遠くまで行くから早めに出るつもり」

「早い、ですね……ご飯は、どうしますか?」

「道中で何か買って行こうかと思ってる。流石に優奈ちゃんをそんな早くから起こすのも悪いし」

「……竜胆さんがよければ、おにぎりでも作っておきますよ。温めるだけで大丈夫なように」

「いいのかい? それならお願いしたいな」

「わかりました……」

「……優奈ちゃん、さっきからあまり元気がないように見えるけれどどこか調子悪い?」

「そんな、ことは……」

 ない、と言い切りたいけれど言い切れない。でも、調子が悪いのではなくて……。

「こんなこと言っても、どうしようもないですけど……私、竜胆さんがこの家にいてくれないことが、ちょっと、不安、で……」

 この家に来てから今まで、ほとんど竜胆さんは一緒にいてくれた。たまに出かける日があったけれど、どんなに遅くなっても夜には帰って来てくれて、一緒にご飯を食べてくれた。

 なのに今度は最低でも一週間ときた。

 たったの一週間。たったの七日。

 寝て起きてを繰り返して七回過ぎれば終わるのに、どうしても長く思えてしまう。

 ……前は竜胆さんがいる事に不安を抱いていたのに、今は竜胆さんがいなくなる事が不安でしょうがない。竜胆さんとの生活はとても心地よくて、安心できて……そこに居てくれるのが当たり前になっていた。

「ごめんね、急な話で。もう少し時間調整できればよかったんだけど、僕だけの都合ではなくてね……」

「わがままだって、わかってるんですけど……不安なのは、本当で……」

「そっか……うーん……じゃあこういうのはどうかな? 毎晩必ず、決まった時刻に電話で少しだけ話すんだ。今日は何食べたとかどんな本を読んだとか、そんな他愛ないことでいいからさ、お互いのその日を連絡しあおうか」

「……いいんですか? 作業の邪魔になってしまうんじゃ……」

「前に言っただろう? 迷惑かけてもいいって。僕の都合とはいえ優奈ちゃんを不安にさせてしまってるし、これくらいなんともないからさ」

 そう言ってもらえるのはとてもとても嬉しくて。私はほんの少しだけ不安が晴れたような気がした。

「そうだな……ちょっと遅いけれど、夜の十時。その時刻になったら僕からこの家に電話かけるから、そこで話そうか」

「電話……」

「ちょっと鳴らしてみるね」

 竜胆さんが自分の携帯電話を操作してから数秒後、家の電話機が鳴り始めた。二人で電話機の前まで行くと、11桁の数字が画面に表示されていた。

「後で紙に書いておくけれど、これが僕の携帯の番号。ここに表示されるから、それで判断してほしいな」

「…………」

 私は受話器を手に取って、そっと耳に当ててみる。

 竜胆さんが少し笑ってから私から離れて、そして——

「もしもし、聞こえるかな優奈ちゃん」

 当たり前だけれど耳元から竜胆さんの声が聞こえきた。

「聞こえます……竜胆さんは聞こえてますか?」

「うん、しっかりと聞こえてるよ。……明日から暫く会えないけれど、この家のこと、任せるからね」

「は、はい……!」

 家の中で、しかも互いに見えてて聞こえているのに電話で話す私たち。

 おかしなことをしてると自覚はあるけれど、私はそれが無性に嬉しかった。


 次の日。出来ることなら見送りしたいと思って早起きしたのに、竜胆さんは既に出かけていた。

 冷蔵庫を開けると昨夜作ったおにぎりが四つ、無くなっている。そしてテーブルには小さな書き置きがあった。二つ折りにされてるそれを手に取って読んでみる。

『おにぎり美味しかった。ありがとう。

 家のことは任せた。何かあったら遠慮せず必ず電話すること。

 行ってきます』

 たった三行の短い書き置き。

 ほんの数秒で読み終えてしまう僅かな文字列。

 なのに心がどこか浮ついてしまうのは何故なのだろう。

 電話機に目をやると昨日はなかった黄色の付箋が取り付けられている。どうやら電話の掛け方のようだ。竜胆さんの電話番号も丁寧な字で書いてある。

「……。いってらっしゃい」

 聞こえるはず無いとわかっていたけれど、私は見送りの言葉を口にした。竜胆さんが無事に帰ってきますようにと願いながら。


「うーん……何しようかな」

 ただでさえ静かなこの家の中。竜胆さんが出かけてからさらに静かになってしまった気がする。

 何となく本を一冊読んでみたけれど、それも一時間ほどで終えてしまった。まだまだ読んでない本はたくさんあるのだけれど、なんとなく今は読書の気分ではなかった。

 とりあえず掃除機をかけてみる。心なし綺麗になった気がする。時計を見てみるとまだ一時間も経ってなかった。お昼にするにも早い時間だし……。

 最近してなかった本の整理をしてみようかな。竜胆さんは結構前後とか気にせずに手にとって読むから、連番が崩れて一部がどこかに行ってるし。探したりしていれば時間も過ぎるだろう。


 ……予想以上にあっさり終わってしまった。いやいいのだけれども。

 整理を始めて二時間ほど。棚には揃えられた書物達が鎮座し、床に置かれていた本は全てあるべき場所に戻っていた。いくつか見つからない本があったのが気がかりだが、また後で探すとしよう。

 時刻は正午を三十分ほど過ぎた頃。丁度いいのでお昼ご飯を作ることにした。

 冷蔵庫を開けると卵が目についた。賞味期限が近いので食べてしまおう。

 そう思って卵を四つ取り出して——

「……そっか。作るのは私の分だけか」

 いつものように二人分作ろうとしてしまい、少しだけ寂しくなった。

 さっと作った目玉焼きは美味しいけれどどこか物足りない。

 ……ほんの一月くらい前までは、一人での食事が当たり前だったのに、今ではひどく寂しく思う。

「一週間、か……」

 竜胆さんが帰ってきてくれるまで、この感覚を我慢しないといけない。これからの生活を思うと胸が締めつけられるかのように苦しかった。


 昼食後。私は少しだけ短編集を読んでから寂しさから逃げるようにして昼寝をした。夢の中でならいくらでも竜胆さんが側にいてくれるから。そんな子供染みたことを考えながら貪った惰眠はどこか甘美でさえあった。


 その夜。時刻は午後十時二分前。

 私はずっと電話の前で竜胆さんからの連絡を待っていた。

 何もせずに何かを待っている時間というのはどうしてこうも長いのだろう。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうのに。本当に同じ長さの一秒が流れているのだろうか。実は時空が歪んで一秒の長さが変わっていないだろうか。

 そんな妄想すら頭に浮かんできた時に、目の前の電話が鳴り始めた。

「!」

 私はすぐに受話器を取って通話ボタンを押す。

「も、もしもし!」

「こんばんは、優奈ちゃん。ちゃんと聞こえてるかな」

 受話器から聞こえてくるのはいつもと変わらない竜胆さんの声。落ち着いてて優しさを感じる声。

「聞こえます。竜胆さんは聞こえてますか?」

「うん、聞こえてるよ。優奈ちゃん、朝ご飯用意してくれてありがとうね。とても美味しかったよ」

 そんな何気ないことにもお礼を言ってくれる彼の声を聞いていると段々自分が落ち着いてくるのがわかった。

「いえ……竜胆さん、今日はどんなことをされたのですか?」

「今日は弁護士の人に挨拶しに行って、作った書類の不備とか指摘してもらってたよ。しっかり作ったつもりだったんだけど幾つか修正されてね、少し落ち込んでた」

 電話の向こうで竜胆さんが溜息を吐いたのがわかった。

「弁護士? 竜胆さん、裁判に呼ばれてたりするんですか?」

「いやいや。流石にまだお世話になったことはないよ。あの人たちは法律の相談とかそれに関する書類作成の助言とか、裁判以外にも色々やっててね。今日はそのことで話を聞きに行ってたんだ」

「そうだったんですね……よかった」

 私が聞くとすぐに否定の言葉が返ってきたのでほっとする。なんとなくだけど、肩を小さくすくめた竜胆さんの姿が思い浮かんだ。

「優奈ちゃんの方は今日はどんな一日を過ごしたの?」

「今日は家の掃除をして……少しだけお昼寝してました。いまいち覚えてないですけど、空を飛ぶような夢を見てました」

「昼寝かー。最近してないな。僕も帰ったら久しぶりにしてみようかな」

「なら、お布団干しておきますね。干したばかりの布団で寝るの、きっと気持ちいいですよ」

「それは楽しみだな。ふぁ……失礼」

 竜胆さんが欠伸をしたらしい。気の抜けた声が向こうから聞こえてきた。

「竜胆さんお疲れですか?」

「ん……そうかも。ずっと書類と向き合ってるなんて久しぶりだったから」

「……じゃあ今日はもう休んでください。まだやる事たくさんあるのでしょうし」

 本当はもっと話していたかった。

 竜胆さんの声を聞いていたかった。

 けれど彼にもやる事はたくさんあって、その邪魔になるのは嫌だった。

「……いや、もう少し話していたいかな。いいかな、優奈ちゃん」

「……いいんですか?」

 話していたいと言われたとき、少しだけ自分が喜んだのを自覚した。

「もちろん。そうだな……優奈ちゃんってさ、寝ている時夢を見ているらしいけどどんな感じなの? 僕はさ、全然見たことないから教えてほしいな」

「えっとですね……」

 それからしばらく、私は今日見た夢を始めとしたいくつかの印象的な夢のことを竜胆さんに話していた。不可思議な夢、暗い夢、不安になる夢、もう一度見たいと思うのに詳細が思い出せない夢……。色んな記憶を思い出してその時のことを竜胆さんに話した。

「そういう不思議な景色が見られるんだね……いつか見てみたいな。ん……もうこんな時間か。楽しいとあっという間だね」

 竜胆さんに言われて時計を見ると、もう三十分も話していたことに気がついた。

「名残惜しいけどそろそろ終わろうか……お休み、優奈ちゃん。また明日ね」

「はい、お休みなさい。また明日」

 数秒後、通話が切れた音がしてスピーカーからはツーツーと無機質な音が聞こえるだけになっていた。

「…………」

 得も言われぬ寂寥感が漠然と胸中に広がる。竜胆さんがいないだけで家が広いことが何故か怖くなる。

 ……もう寝てしまおう。普段より早い時刻だけれど今から何かをする気は起きなかった。私は自室に向かう途中で——ふと竜胆さんの部屋のドアが目に止まった。普段彼が使っている部屋。今夜から暫く、主は帰ってこない。

「…………」

 この時私が何を考えていたのかは、後になってもよく思い出せない。

 けれど翌日竜胆さんの部屋で目を覚ましたということは、何かよからぬことを考えていたのかもしれない。


 翌日は酷い土砂降りの雨音で目が覚めた。

 外を眺めると灰色の雲が空を覆っており、朝なのに一瞬夜と勘違いするくらいに暗かった。窓を閉め切ってても微かに聴こえてくるくらいの大雨の音。風も強いのか時々窓がガタガタと揺れた。

「竜胆さん、大丈夫かな……」

 ここにいない彼のことが心配だ。昨日は疲れている様だったし体を冷やして風邪とか引かなければいいのだが。

 今日は洗濯は出来なさそうだし、買い物する予定もない。大人しく本でも読んでいよう。

「あれ……あ、そうか。私、竜胆さんのベッドで……」

 部屋の間取りがいつもと違うことにようやく気づいた。まだ頭が起きてないのかも。覚醒しきってない頭で竜胆さんの部屋を見渡してみる。何度も掃除しに入ったし、この部屋にあるものは大体把握しているけれど、それでも見ていて楽しいと思う。

 竜胆さんは自室にはあまり漫画や文庫を置いていない。そのほとんどは学術書や科学雑誌で、科学的好奇心を満たすのが好きなのかなと前に思ったことがある。

 なんとなく近づいてそのラインナップを眺めてみる。

 数学、宇宙、化学、物理、生物——ほとんどが理系のものだ。中でも生物はかなり多く、半分くらいを占めている。

「あれ、これは……ノート?」

 よく見ると棚の一角に何色ものノートが並べられていた。失礼して一冊手にしてみると、丁寧な時で数Cと書かれていた。ぱらりとめくって見ると沢山の記号を使った数式が何行もびっしりと書かれていた。

 見覚えのある記号もあればまだ習っていない範囲のものなのか意味さえ知らない記号もある。竜胆さんはあまり丁寧にノートを書くタイプではないらしく、式が斜めになっていたり別の式で上書きしていたりした。

 他のノートもやはり高校時代のものと思しきもので、先生の豆知識らしき文言や参考書からの引用らしき文まで様々なことが書かれていた。

「学校、か……」

 竜胆さんの家に来て早一月半。その間私はずっと無断欠席してる状態だ。流石にあの叔父にも連絡はいっているだろうけど、あの人が私なんかの為に何かするとは思えなかった。

 勉強することは楽しかったけど、勉強する環境は辛かった。私にとって学校は辛い場所で面白くない場所だったけど、竜胆さんにとってはどんな場所だったのだろう?

「今日の電話で聞いてみようかな」

 段々嫌な方に行きそうになってた頭を振って、私は気分を切り替えるために勝手に竜胆さんの生徒時代を思い浮かべてみた。

 どんな感じの生徒だったのかな……今と同じくらい優しくて、静かな人だったのかな。 

 あまり多くは思いつかないけれど、こんな感じかなぁと妄想してみる。そんな無意味で何の特にもならないけれどとても楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。


 その日の夜。

 私は竜胆さんとの電話で彼の高校時代のことを話していた。

「高校生の頃の僕か……うーん。思い返してみると初めの頃は今より無口だったような気がするな」

「そうなんですか?」

「うん。あまり周囲に興味を持てなくてね。話しかけられれば対応してたけど、自分からは全然。気分によっては話さない日もあったし」

「……何かあったんですか?」

「あまり明るい話じゃないけど、それでも聞きたい?」

 竜胆さんが警告してくれる。その口調は前にも聞いた覚えがある。確か——夕菜さんの死についての話。

 それでも……

「聞きたい、です。竜胆さんのこと、知りたいですから」

「……そっか。優奈ちゃんが家に来た日だっけな。僕が今までに三人、自殺で知人を亡くしてるって話したと思うのだけど覚えてる?」

「……覚えてます」

「その内の二人はね、僕が中学校を卒業する前に死んでしまったんだ。男の子と女の子。あの子たちは付き合ってたんだけど、男の子の方だったかな、ある高校の受験に合格出来なくてね。中三の二月頃はそのことで人目も憚らずに言い争いしてたのを覚えてる」

「受験失敗、ですか……」

「うん。きっかけはそれだと思う。三月頃に彼らが学校に来ない日があって、友人と一緒に彼の家を訪ねたんだ。そしたら家の鍵は開いてるし物音はしないしで奇妙な感じでね。部屋に入ったらそこに二人が並んで首を吊って亡くなってた」

「……!」

 扉を開けたら知人の首吊り死体がある。

 それはどんな気分なのだろう。

「匂いや見た目が中々に酷くてね……。その後はゴタゴタがありつつ僕は高校に進学したけど、その出来事が少し尾を引いてね、あまり明るく振る舞えなかった」

「そう、なんですか……。初めの頃はって言ってましたけど、その後は何かあったんですか?」

「んーと。夕菜と初めてまともに話したのが六月くらいだったかな。確か僕は放課後ずっと本読んでて……その日は夕方頃から今日みたいな酷い土砂降りになってね。傘を持ってきてなかった彼女がすごすごと教室に戻ってきて、僕に話しかけてくれたんだ」

「夕菜さんが……」

「何読んでるのー、とかそんな感じ。その後ちょっと雑談して、傘を持ってた僕が彼女を送ることにしたんだ。相合傘って言うんだっけ、あれ相手が濡れないようにするの大変なんだよね。で、夕菜の案内で家に行ったら孤児院でさ、流石に驚いたな」

「孤児院って……身寄りのない子が行く、あの?」

「うん。今まで一度もそんな話聞いたことなかったし、夕菜もそんな気配を微塵も感じさせない明るさだったから、本当に驚いた。あの日のことは鮮明に思い出せる」

 びっくりしたなーと電話の向こうで小さく呟く竜胆さん。

「それから段々話すようになって、夏に夕菜から告白されて……ずっと付き合ってた。僕の高校時代の一大イベントはやっぱりそこら辺かな。夕菜と会って、付き合い始めた一年生の頃」

「そうなんですね……」

 初めて聞いた、竜胆さんの過去。

 暗い出来事もあったけど、それでも竜胆さんから夕菜さんの事を聞いていると、やはり彼女は竜胆さんの中で大きな存在だったんだと実感する。

「……夜も遅くなってきたし、そろそろ今日は終わろうかな。優奈ちゃん、悪いけど続きはまた今度でいいかな」

「えっ、あっ、はい」

 時計を見るともう三十分は話していた。

 私は竜胆さんにお休みを伝えて。

 竜胆さんも私にお休みと言ってくれて。

 その日の電話は、そこでお終いになった。

 私は竜胆さんが話してくれた彼の過去について思いを馳せた。

 自殺してしまった友人。

 夕菜さんとの出会い。

 暗い話題も出たけれど、それらを含めて新たに知ることのできた彼の過去は、聞けてよかったと思う。

「お休みなさい」

 私はもう一度小さく呟いてから部屋に戻って眠りについた。


 竜胆さんが出かけてから三日目の朝。

 昨日の雨は夜のうちに止んだらしく、すっきりと澄み渡る青空が広がっていた。

 今日も特にやる事がなかった私は、前に買ってもらった手帳をめくっていた。そこには手帳を買った日から今日までの約一月の間に私が書き込んだ、様々な事柄が羅列されていた。

 古本屋『邂逅』に行ったこと。

 愉快な店員さんたちのいる店でバッグを買ってもらったこと。

 竜胆さんと散歩して、その日はカレーを作ったこと。

 眺めていくとほんのすこし前のことなのになんだか懐かしく感じてしまう。

 今日は竜胆さんとどこを掃除したとか、今日は竜胆さんに言われてスパゲッティを作ったとか、なんの変哲もない出来事が幾つも幾つも書かれている。

「えっと……『今日は目玉焼きを作った。なんだかいつもより竜胆さんが静かだった気がする。美味しくなかったのかと思って聞こうとしたら美味しいと言ってもらえた。前も思ったがもしかして塩気のある食べ物が好みなのかな』」

 なんとなく目に止まった一文を読み上げてみた。そういえば少し前に味噌の分量を間違えて少ししょっぱい味噌汁になった時も、いつもより味わってる感じがしてたような? 今日の電話で聞いてみようかな。

 その後もペラペラとページをめくって、過去の自分の想いに触れていく。

「…………」

 こうして見返すと記述のほとんどは竜胆さんに関わるものだ。なんとなく気になった彼の仕草や言葉まで書かれてる。見るまで忘れてたくらいの些細なことなのに、その時の私は残したいと思ったのだろう。

「これは……」

 次にふと目についたページは、初めて竜胆さんとデートした日の前日の夜に書いたものだ。どんな服を着ようか、どのような場所に連れて行ってもらえるのかなどが書かれてて、期待や不安が伝わってきた。

 続くページには当然デート当日の事が書かれてる。色んなゲームをしたこと、九重さんに会ったこと、竜胆さんにそっと抱かれたこと。読んでいるだけで当時の感覚まで思い出されるような気がした。

「…………」

 こうして時間を空けてから見てみると、当時とは違った目線で自分の想いに触れられる気がする。

 そして——書かれた沢山の想い、彼への気持ちは触れれば触れるほどに強くなっていく。

「好き……なのかな、私」

 ぽつりと、口に出してみた。

 その瞬間、僅かに胸がときめいた気がする。

 竜胆さんに出会ってから今までの出来事が次々に胸の内を過ぎる。

「舞園優奈は、竜胆秋夜が……好き」

 好きという言葉がストンと腑に落ちた。

 今まで薄々自覚していたけれど、こうして言葉に出してみるとその思いが一層強くなる。

 竜胆さんの手の温かさ。落ち着いた声。優しい目つき。その全てが愛おしい。

「好き……竜胆さんのことが、好き……!」

 思い浮かべる度、言葉にする度に愛しさが溢れてくる。

 早く会いたい。側にいてほしい。私の事を好きだと言ってほしい。

 すぐにでも声が聞きたくて電話してしまいそうになるけれど、極僅かに残った理性が竜胆さんの邪魔をしてはいけないとその行動を停止させた。

 彼への好意を自覚してから竜胆さんとの電話の時間まで、私はずっと悶々とした気持ちで過ごしていた。


 プルルル、と呼び出し音が鳴った時、私はすぐに受話器を取り上げた。

「も、もしもし!」

「やぁ優奈ちゃん、こんばんは。随分と声が弾んでいるけれど、何かいいことでもあったのかな」

 昨日と変わらず約束の時間に電話をかけてくれた竜胆さんの声が、好きだと自覚した彼の声が聞こえてきた。ずっとずっと電話したいのを我慢して待っていたのだ。少しくらい弾んでしまうのも仕方ないだろう。でもそんなことを彼に言うこともできず、私はちょっと迷って……目についた本の事を話題にした。

「今日は、その……読んでて楽しい本を見つけまして」

「そうなの? それはよかったね。家にあるやつ?」

「そうですよ。リビングの棚の下の方に仕舞われてました。『七夜ななよの夢』って題の短編集です」

「そんな本買ったっけ……?」

 竜胆さんは不思議そうに聞いてくる。確かに竜胆さんくらい沢山購入してると昔買ったものとかは忘れてそうだ。実際掃除中に何冊か同じ本が買われているのを目撃している。

「短編集……? うーん。思い出せないや。どんな話?」

「一つの学園が舞台で、そこに通う色んな男女の恋愛が丁寧に描かれてるんです。素敵な恋が沢山あるんですよ」

「そうなんだ。帰ったら読んでみようかな……そういえば優奈ちゃんは恋愛小説読むんだっけ。だったら『静寂せいじゃく』って全五巻のものがあったはずだから読んでみるといいよ」

「せいじゃく……?」

「えっと、静かに寂しいで静寂。僕が高校生の頃に買ったやつなんだけど」

 竜胆さんから本をお薦めされたのは久しぶりで、なんだか懐かしく感じる。前に教えてもらったのはこの家に来た頃だったからかれこれ一ヶ月近く前になる。私はすぐに本の題をメモして、明日探してみようと決意した。

 その後も竜胆さんにいくつかお薦めの本の題を聞いて、読んでみる候補にその名前を書き連ねた。

「ごめんね、今日は結構疲れててね。早いけどそろそろ寝ようかなって思う……明日も優奈ちゃんにいい事があるといいね」

「竜胆さんにも。お休みなさい」

「お休み……」

 竜胆さんとの時間が終わってしまったことがひどく寂しく感じるのは、やはり自分の想いを自覚したからだろうか。

 当たり障りのない、数日もすれば忘れてしまいそうな会話。それでも竜胆さんとの大切な時間だ。私は今日の電話の内容を書き綴った。いつかの私が今日の事を思い出せるように。


 竜胆さんが出発してから四日目。

 私は昨夜教えてもらった本を探し当て、一日中それを読んでいた。

 意中の男性に勇気を出して告白するも叶わず、傷心状態となった1人の女性・さち。そんな彼女に恋をした男性・幹人みきとが、なんとか彼女に笑ってもらいたいと色々なことをするストーリーだった。

 さちは最初幹人には見向きもしないで悲嘆に暮れるばかりだったが、何度も自分に関わろうとする幹人にやがて興味を持ち始める。幹人は段々と自分に目を向けてくれるようになったさちのことをますます好きになり、更に意気込んで彼女の心を癒そうとする。時にはやりすぎて距離を空けられたり、思いがけず急接近したりで読んでいるこちらが焦ったくなってくるほどだ。

「……気のせい、かな。なんだかこの女の人、竜胆さんに似ている気がする」

 竜胆さんが女らしいって意味じゃなくて。

 失恋の辛さから周りに興味を示さないところ、私がこの家に来た頃の竜胆さんの行動によく似ていると思う。竜胆さんはこの人ほど無関心ってわけではなかったけれど、すぐに関心がなくなってしまうような動作はよくしていた。

「傷心、か……」

 恋人である夕菜さんが自殺して居なくなった。二度と会うことも話すこともできない。その事実はどれほどの傷を竜胆さんに負わせたのだろう。

 私は両親の死にしか触れたことがないけれど、幼心にそのことがとても悲しいものと感じていた。悲しくて苦しくて、どれだけ泣いても呼んでも会えなくて。世界の何もかもが色褪せてしまったような毎日を送っていた気がする。

「……私は竜胆さんに、何ができるのかな」

 この物語の男性のように、喜んでもらえるようなことをしているわけじゃない。

 竜胆さんのお手伝いとして家事などはしているが、そういうのとはちょっと違う。


 竜胆さんに——心から笑ってもらいたい。


 私は自分に何ができるのか悩みながら、ゆっくりとページをめくっていった。



『静寂』シリーズは一冊一冊が中々分厚く、三巻目を読み終えた頃にはすっかり日が落ちていた。三巻の終わりではさちが告白した男性・秋彦あきひこが再度登場し、さちが二人の男性の間で揺れ動いている場面で終わっていた。

「次……あれ? 四巻が無い?」

 探してみたが全く見つからない。竜胆さんの部屋も私の部屋も、書斎もリビングも探したけれど、やっぱり見つからない。一度ご飯とお風呂を挟んでからまた捜索したけれど見つけ出すことは出来なかった。

 やがて竜胆さんとの電話の時刻になったので私は竜胆さんに聞いてみることにした。

「やあ優奈ちゃん、こんばんは」

「こんばんは竜胆さん。今日はですね、竜胆さんが昨日言っていた『静寂』シリーズを読んでいたんですよ」

「早速読んだんだ。中々読み応えがあって面白いでしょ」

「はい。今三巻目まで読み終えていて……」

「三巻っていうとあの……名前忘れたけど、ヒロインの意中の相手が再登場するところあたりかな」

「そうなんです。かつて告白した自分のことを見てくれなかった秋彦と、今の自分を見てくれる幹人の間で葛藤する場面が丁寧に描かれてて。私も読んでて彼女の悩ましさを体感した気分でした」

「そっか……ネタバレはしたくないからこれ以上は話せないけど、優奈ちゃんが楽しんでくれたならよかった」

「じゃあ……私が読み終えたらまた話しませんか?」

「もちろん」

 すぐに快諾してくれる竜胆さん。でも私が読み終えるには……

「そうだ。それでですね、竜胆さん。家の中を探したのですが、四巻が見つからないんです。どこにしまったとか心当たりありませんか?」

「見つからない? んー……さっぱり。もしかしたらこの前売った際に紛れてたのかな」

「あ……」

 そうだ。この家にあった沢山の本は大体整理整頓して場合によっては売ったのだ。

「優奈ちゃん、ちょっと僕の部屋に入ってもらえる? 机の引き出し上から二番目にオレンジ色のクリアファイルがあるはずだから、探してみて」

「わかりました。ちょっと待っててください」

 私は言われた通り竜胆さんの部屋にお邪魔して、机の引き出しを開ける。確かにオレンジ色のクリアファイルがあり、中には沢山のレシートが入っていた。

「本は傷んでない限り渡さんのところに持っていったはずだから、彼女の店の買取物一覧に『静寂』の四巻がないか探してみてもらえる?」

「なるほど……竜胆さん、このまま探しててもいいですか?」

「? いいよ。僕もちょっと気になるし」

 私は竜胆さんに許可をもらって一度子機を床に机に置く。渡さんのお店には計四回足を運んでいるし、一回一回の量が多いので探すのには時間がかかった。

 何枚ものリストを眺めると……あった。竜胆さん以上に丁寧で読みやすい字で静寂の四巻の文字が書かれていた。

「竜胆さん、ありました。渡さんのお店に売ってしまったようです」

「そっかー……どうしようかな。まだあの店に残ってるかな」

「私、明日行ってみます。あったら購入してきます」

 最後に行ったのは三週間前だけど、残っているだろうか。そこが少し不安だった。

「ん、わかった。もし売れてしまってたら帰りに本屋とか寄って探してくるよ。結構前の本だからあるかわからないけれど。えっと、優奈ちゃん『邂逅』までの道はわかるかな」

「大丈夫です。前に竜胆さんに教えてもらいましたし、車からの景色は覚えてますので」

 多分大丈夫……多分。少し遠いけれど歩いても二十分程度だ。

「了解。結果は明日教えてくれればいいから。それじゃ、今晩はこのへんで。お休み」

「はい、お休みなさい」

 カチャンと音がして通話が終わる。

 昨日と同じ様にやはり寂しさが浮かび上がってくる。

 早く彼に会いたい。その思いは日を跨いだ今でもずっと心の中に居座っている。こんな思いをしながらあと三日も過ごさないといけないなんて……そう思うと憂鬱になるが、けれども待つことの楽しみもまた感じてる。

 竜胆さんが帰ってきたら今まで以上にお話ししたい。もっと近くで彼を見ていたい。

 私は溢れてくる色々な感情を胸の内に秘めながら、就寝の為に自室へと向かった。


 竜胆さんが出発してから五日目。

 私は古本屋『邂逅かいこう』へと朝早くから向かっていた。時々道に迷ったりしたけれど、大体の方角さえわかっていれば結構なんとかなるものだ。

 強い日差しが照りつける中たどり着いた『邂逅』の前では、渡さんが小さな看板を店先に出しているところだった。

「いらっしゃいませ」

「おはようございます。もう開店してますか?」

「はい。どうぞごゆっくりご覧下さい」

 渡さんは前と変わらない淡々とした口調で出迎えてくれた。私は彼女に頭を下げてから店内へと入った。木製の年季の入ったドアを開けると涼しい空間が広がっていた。私は暑さにあまり強くないから、空調の効いた店内は居心地がよかった。

 私は早速目的のもの、『静寂』の四巻を探そうとしたが……

「広い……」

 そう、この店は個人経営にしてはやたらと広いのだ。駅前の本屋と同等の広さがある。

 壁を埋める棚、読みきれないほどの書籍。

 いるだけ、眺めるだけならとても素敵で何時間でも何日でも居たいくらいだが、探すとなるとその膨大さが強大な壁として立ちはだかってきた。一応ある程度のジャンル分けはされているようなのでぶらついてみるが一向に見つからない。

 私は自力で探すのを早々に諦めて、カウンターに座っていた渡さんに声をかけた。

「あの……前にこちらに引き取ってもらった、『静寂』という本の四巻を探しているのですが、まだこちらにありますか?」

「ありますよ。案内いたします」

 渡さんは読んでいた本をそっと閉じて立ち上がった。迷いなく進んでいくけれどもしかして全部の本の在処を覚えているのだろうか。

 渡さんに着いていく間、私は渡さんの後ろ姿を眺めていた。私より少し高い身長から流れるような長い黒髪が歩く度に左右に揺れる。しっかり手入れされているのか、それとも元々の髪質がいいのか店内の明かりを反射して輝いているように見える。

 やがて渡さんはある棚の前に立ち、一番上の段から一冊の本を取ってくれた。

「どうぞ。貴女方が持ってきたものですよ」

「ありがとうございます。最初から読んでいたんですが、四巻が見つからなくって。竜胆さんがもしかしたらここにあるんじゃないかって……」

 私は渡さんにお礼を言った。店内には私以外のお客さんがいなかったので、少しだけ声を出してもいいかと思ったのだ。

「左様ですか。他にも何かお探しでしたら手伝いますが」

「えっと……いえ。後は自由に見てみたいと思います」

「左様ですか。では御用の際はまたお声がけいただければ対応いたしますので」

 渡さんはそう言うとまたカウンターに戻っていった。

 目的の物は確保したからもう帰ってもいいのだけれど、私はなんとなく店内を眺めたくなって歩き出した。お店には本当に色々な本が所狭しと並んでいる。漫画や雑誌、小説が多いが図鑑や地図、辞書に聖書まである。中には『呪いの手順・3』とか『一日で一億円稼ぐための秘訣』とか見るからに怪しくて却って読んでみたくなるようなタイトルのものもあって、見ていて楽しくなってきた。

 大きさや色、材質も異なる本たちが作る景色はきっと他では見られない、ここだけのものだ。そんな空間の中にいるとなんだか不思議な気分になってくる。

 私はぐるっと店内を一周した後、ずっと前に一度だけ読んだことがあった児童向けの文庫本を一冊だけ流し読みしてからカウンターに向かった。

「お会計お願いします」

「一点で計210円です。…………お釣りは790円です。ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

 受け取った本をバッグに入れて私は店を出た。早く読みたいのもあるし、暑くなってくる気温からも逃げるため、私は早足で家を目指した。


「えっと鍵は……これだっけ」

 マンションの共通玄関に設置された鍵穴に合う鍵を束から探す。青色と紫色、橙色のものが一つずつ。確か前に見たときに竜胆さんが使ってたのは……紫色だったはず。記憶を頼りに差し込んだ鍵はするりと入り、少し力を入れるだけで簡単にドアが開いた。

 エレベーターに乗って七階へ。すっかり見慣れた街並みを横目に私は703号室に向かった。家の鍵の色は青色だったかな。差し込んでみるとこれも正解。普段は竜胆さんが管理しているからあまり意識したことがなかったが、どうやら大丈夫だったようだ。

 帰宅して、手洗いうがいして、そっとリビングのソファに座る。

 続きを読むのに立ったりしたくなかったから、すぐ隣には最終巻の五巻も配備済みだ。私は早速、買ってきた四巻を読み始めた。



 突如現れた元思い人・秋彦あきひこ。彼を前にさちはどうすればいいかわからなくなってしまう。

 以前は話すことすら出来なかった相手が向こうから話しかけてくれるようになったのは嬉しいのだが、その理由がわからない。そんなことを相談された幹人みきとは自分に振り向いてもらいたいと秋彦のことを悪く言おうとするが、それでさちに嫌われるのが嫌なので結局あまり強くは言えず、さちの思う通りにすればいいと言ってしまう。

 さちは一度秋彦とデートをするのだが、楽しいのにどうしてか心から喜べない。しかしその様子を影から見ていた幹人はその雰囲気からさちにふさわしいのは自分ではなく秋彦だと思ってしまい、彼女の前から去る決断を下す。

 一通の手紙を最後に連絡が取れなくなった幹人。さちはその手紙を読んで初めて、幹人が自分の中でもうかけがえのない存在になっていたことに気づく。

 いなくなってしまった異性と側にいてくれる異性。その二人の関係は逆転し、さちは以前よりも苦しいと思うようになって……そこで四巻が終了した。


「この人……どうするのかな」

 かつて好意を伝えたけれど応えてもらえなかった男性、秋彦。

 かつて好意を伝えてきたけれど応えてあげられなかった男性、幹人。

 秋彦と結ばれるのは過去の自分が望んだことなのに、どうしてか今の自分は素直に喜べない。

 秋彦以外の人となんて考えられなかったのも確かに過去の自分なのに、今の自分は幹人に強く惹かれてる。

 過去と、今と。どちらも自身のはずなのにその思いは大きく異なっている。そしてそのことを自覚しているけれど後一歩を決めることができない。

 そんな彼女の懊悩がどのような最後を迎えるのかが気になって、私は最終巻を手に取った。


 幹人を追うために必死になって捜すさち。

 そんなさちの姿を見て秋彦は苛立ちを募らせ、やがて暴力さえ振るってしまう。

 何度叩かれても殴られても捜索をやめようとしないさちに、ますます怒りを向ける秋彦。遂には彼女を無理矢理犯そうと、自分のものだと思い知らせようと押し倒すがさちはなんとか逃げ出す。そして走り疲れ、倒れそうになったところに偶然再会してしまう幹人。

 さちの顔に出来たいくつもの痣や乱れた服装から只事でないと気づいた幹人は、彼女を追ってきた秋彦に対峙する。

 喧嘩慣れしてない幹人と、人を殴るのに躊躇しない秋彦。勝敗の行方は明らかに見えたが幹人は機転を効かせて彼を出し抜いた。しかし想像以上の深傷を負わせてしまい、結果として秋彦を殺害してしまう。

 周囲の人の通報によって駆けつけた警察に取り押さえられる幹人。さちは自分を守るためにやった事だと何度も訴えたが、最終的に幹人には懲役刑が下されてしまう。

 自分のせいで幹人の人生を壊してしまったと嘆くさちに幹人は君を守れてよかったと言い残し、刑務所内へと姿を消した。

 幹人と共に過ごした日々を繰り返し夢に見て、目覚める度に彼がいない現実に寂しさを覚える毎日。そんな日々が何年もの間、さちを苦しめた。

 そして数年後の春。桜が咲きだす季節に幹人は一人、刑期を終えて出獄した。暖かい風が吹く中、刑務所の前には一人の女性が佇んでいた。

 彼女は出てきた男性に駆け寄り——そこで物語は終わりを告げた。



「…………」

 私は読み終えた本をそっと閉じた。

 有り体に言ってしまえば紆余曲折を経て二人の男女が思いを通じ合わせた物語。

 その過程は決して楽しいことばかりではなかったけれど、つい自分が登場人物になってしまったかのように錯覚してしまうほどの様々な心理描写は読んでて辛くもあり楽しくもあった。

「竜胆さんは……どんな感想を持ったのかな」

 とても気になる。高校生の頃に読んだと言っていたから、今の私と同じ頃のことだろうか。その時の竜胆さんがどんな思いをこの物語を読んで持ったのか、私は早く話したくてたまらなくなってきた。

 彼との電話の時間まではまだ数時間以上ある。私は自分の思いが変わらないうちに書いておこうとバッグから手帳を取り出して——その拍子に鍵束が落ちてしまった。

 カチンと金属音がして落ちたそれを見て……鍵が三つあることに気がついた。

 紫色と青色はさっき帰宅時に使用した。じゃあ橙色のものは? これは一体どこの……そこまで考えて私は気がついた。この家で唯一、家の中で鍵が取り付けられている部屋——夕菜さんの部屋のものでは?

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