五章・決意

「よお竜胆久しぶりだな。お前が依頼をよこすのは数年ぶりじゃないか?」

 路地裏にひっそりと存在している小さな喫茶店の一席でくくく、と楽しそうに笑いながら男が言った。

 店内には店主の趣味なのか、明るいノリの曲が流れている。席は半分ほど埋まっているがその男が座る角の席周辺は誰も居なかった。強い日が刺す位置のせいか壁にかけられているよくわからない絵のせいか、はたまた少し危険な感じを漂わせる目の前の男の雰囲気のせいか。

 そんな事を考えながら、竜胆秋夜は彼の前の椅子を引いた。

「そうだね。最後に依頼したのは二年ほど前だね。あの時は助かったよ」

 メニューに目を通しながら、秋夜は彼の挨拶に真面目に対応した。

 その相変わらずの態度を見て、男——篠宮雨水しのみやうすいはまた笑った。


 篠宮雨水は竜胆秋夜の高校時代の友人だ。

 秋夜の誰に対しても変わらない曖昧な雰囲気を彼は何故か気に入り、偶にちょっかいをかけるのが彼の趣味だった。

 良く言えば明るく、悪く言えば気安く距離を詰めてくる雨水のことを秋夜も嫌ってはいなかったし、何度か彼に助けてもらった事で多少の恩も感じていた。

 彼らは卒業しても偶に連絡を取り合う仲でもあり、時には秋夜が雨水に対して調査依頼をするという仕事相手でもあった。雨水は高校卒業後最初は探偵という形で、今は情報屋という形で依頼された物事の調査を仕事にしていた。彼曰く、「情報の価値を正確に理解してる人間が少ない今の世の中、調べあげるのは容易いから」らしい。

 そんな雨水に対して秋夜は、一週間ほど前に舞園優奈についての身辺調査を依頼した。

 優奈が秋夜に対して話した彼女の境遇。彼女を信用していないわけではないが、その話と現実に齟齬が無いか、また第三者視点での情報が欲しかったのがその理由だった。

 そして今日、雨水より一次調査の結果報告を渡すという連絡を受け、秋夜は雨水の行きつけであるこの喫茶店に足を運んだのだった。


「ほれ、こいつがこの一週間の成果だ。読んでみな」

 すっと茶色い封筒をテーブルの上に滑らせる雨水。

 運ばれてきたホットコーヒーを啜りつつ、秋夜はそれに目を落とした。中には雨水がまとめた資料が入っているはずだ。厚さはそこまで無いから紙数枚程度だろうか。

 もう一週間は調査にかかるかと思っていたが、調査とまとめをこの短期間で熟すのは流石だと秋夜は密かに彼を称賛した。

「んで、その子はお前とどんな関係なんだ?」

 周りに聞いている人がいない事を確認しながら雨水は声を潜めて聞いてきた。

「依頼されたこと以外は関与しないのが君の信条じゃなかったかな」

「普段はそうだが、お前と俺の仲だろう? 調査時にある程度目処はつけたが、一応聞いておきたくてな。どんな風の吹き回しなのか……それとも畳野と同じ名前なのが気に入ったのかい?」

 飄々と笑いながらもその視線は秋夜から外れない。

「……その辺りは一度これを確認した後で話すよ。それくらい構わないだろう?」

「それもそうだな。俺はその間飯食ってるから、終わったら声かけてくれ」

 あっさりと引き下がり、雨水は冷め切ったランチセットを食べ始めた。切り替えが早いのも彼の長所だ。そんな彼を横目に、秋夜は封を解いて書類に目を通し始めた。


 舞園優奈/読み・まいぞのゆうな

 199x/4/3生まれ。18歳。女性。

 身長153cm/体重46kg。B85/W62/H88。

 しきみ学園在学の三年生。

 父・舞園武まいぞのたけしと母・舞園香まいぞのかおりの間に生まれた一人娘。

 7歳の時に交通事故で両親が他界。

 その後は叔父の笹垣鉄也ささがきてつやに引き取られるが仲は険悪。一度叔父からの暴力で児童相談所への通報あり。ただし対策などは取られず経過観察処分。

 小学校時代から周囲に馴染めず孤立することが多い。成績は上の中程度。

 私物をほぼ持たず、放課後や休日は図書館を利用して過ごすことが多い。

 高校一年時に同級生と喧嘩し、傷つけた事で二週間の停学処分を受けている。嫌がらせに対しての抵抗と舞園優奈は主張している。その時の担任・葛西慎吾かさいしんごは今も担任。当時いじめがあったかなどの調査に携わり、最終的に生徒同士の会話から発展した喧嘩でありいじめではないという結論を下す。


 一枚目の報告書には大体優奈自身から聞いた内容が記載されていた。他にも住所や通っていた幼稚園から中学校のことなども色々書かれていたがそこは一度後回しにして、秋夜は二枚目を流し読みしした。そこには優奈の学校での成績や図書館での貸し出し履歴など、明らかに部外者が入手できる代物ではない情報が羅列されていた。

 どんな手段で調べたのやら、と秋夜は呆れるがそれは聞かない約束になっているので口にしない。

 三枚目以降の数枚は優奈の両親を初めとした、優奈に関わりのある大人の個人情報が簡素に記載されていた。こちらは後で読み返す程度で構わないと秋夜は結論付けた。ある程度資料を読み終え、秋夜はスープをかき回している雨水に声をかけた。

「……学校と名前くらいしか伝えられなかったのに、よくこれだけ調べられたね」

「まぁな。あの学校は警備はザルだし家の方も鍵開けたままどっか行くくらい不用心だったからな。あまりに容易くてつまらないくらいだったぜ」

 秋夜の言葉を称賛とは受け取らず淡々と流す雨水。

「その嬢ちゃんだが、交友関係が全然無いからあまり調べることが無かった。今の段階でのまとめはそんなところだが、不足があるならもう少しやるぜ?」

「いや、いいさ。優奈ちゃんの話の裏はとれたし、これくらい調べて貰えれば満足だ」

「くくく……優奈ちゃん、ねぇ」

 面白いことを聞いた、と露骨に目を細める雨水。

 その表情を見て秋夜は自分の失態を認識した。

「……何か文句あるかい?」

 若干照れながらもぶっきらぼうに訊ねるが、

「いいや? 何も無いぜ?」

 軽く流されてしまう。

「……こほん。舞園さんが」

「優奈ちゃん」

「まい——」

「優奈ちゃん」

「…………」

 はぁ、と秋夜は溜息を一つ吐いて話を続けた。

「優奈ちゃんから聞いた話では家でも学校でも居場所が無くて辛かったということでね……。彼女がその境遇を苦に自殺しようとしてた所に遭遇して、そのまま保護したのさ。本人もまだ生きる気力があったしね」

「遭遇? 全然出かけないお前が?」

「……夕菜が飛び降りたあの橋だよ。彼女の命日に優奈ちゃんが自殺しようとしてたんだ」

「あー……そりゃあなんとも奇妙なこともあったもんだ。なるほどなるほど。しかし保護、ねぇ……。そう言えば聞こえはいいが、お前のやってる事って側から見れば誘拐だぜ?」

 雨水は周りに聞こえないように配慮し、小声で嗜める。

「……それは認識してたさ。いずれどうにかすべきともね」

「一つ聞くがよ、竜胆、お前その優奈ちゃんを帰すつもりか?」

 雨水はコーヒーを飲み干してから、訝しげに眉を顰めた。

「どうしようか、少し悩んでる。帰すべきか否か。あまり外出しないとは言え、いつまでも他人の家で密かに生活出来るとは考えてないさ」

「……お前最後の資料読んで無いな? ちゃんと目を通しとけ」

 雨水はさっと資料を摘みとり、秋夜の前に翳す。どうやら前の紙にくっついていたようだ。

 目の前に現れた文章を読み始める秋夜。そこには彼の常識では考えられなかった事が書かれていた。


 叔父・笹垣鉄也は舞園優奈失踪から一月が経った今現在も捜索願を出していない。


「捜索願を、出していない……」

 秋夜は思わず文章を声に出してしまった。

「そうだ。元々仲が悪かった兄の娘だ。自身は独身だし子供なんて邪魔だったんだろう。居なくなったって構わなかった、そういう事だ」

「学校とかは——」

「あそこはあまり評判は良くない方だからな。一人二人来なくなっても普通なんだろ。寧ろ過去に問題起こした奴が来なくなって助かってるとか思ってるんじゃないか?」

「…………」

 薄々、感づいてはいた。

 人目はある程度避けていたし山を挟んでいるとは言え、車で一時間ほどの距離しか離れていないのだ。行方不明になっている少女の目撃報告が皆無ということは無いだろうし、それにより捜索の手が自身に及ぶのも時間の問題だと。

 しかし何度か隣の市の交番前を通っても目撃情報の呼びかけポスターなど貼られておらず、先日ばったりと出会った巡回中の警官にも特に疑われた様子は無かった(向こうがポーカーフェイスの達人だったのかも知れないが)。

「…………そうか」

 少々の沈黙のあと、秋夜は短く頷き、重く目を閉じた。外界の一切を遮断するかの様に。

「んで、どうする? 俺は優奈ちゃんに会った事ないが、ある程度その子が不幸な境遇に置かれてたことは知っている。竜胆、お前が女に対して酷い事はしないと思ってるしその子を悪く思ってないことも何となくだがわかる。側に味方がいるという環境から、再び孤立無援の立場に戻すのかい?」

 しかし雨水は敢えて秋夜の雰囲気を無視して言葉を綴る。煽る様に、測る様に。

 そんな彼の言葉を受けて、秋夜は珍しく笑みを浮かべて目を開けた。

「焚き付けなくてもいいさ。答えは決まった。——僕は舞園優奈を守る。雨水、その為に色々協力してもらうよ?」

 静かな、しかし確固たる決意を目に宿し、秋夜は明朗な口調で宣言した。

 雨水はその秋夜の態度を見て、そうこなくっちゃと面白そうに笑った。


 竜胆さんと暮らし始めて一月ほど経ったある日のこと。私はいつにも増して静かな家の中で一人本を読んでいた。

 今日は平日だが竜胆さんは珍しく朝から出かけていた。普段の買い物は夕方か土曜日にしていたので竜胆さんが午前中からどこかに行くというのは中々ない。

 流石に一月も時間を費やしたので家の掃除はほとんど終わってしまい、今は埃の溜まりやすい箇所に掃除機をかけるくらいで書物の整理はしていない。

 竜胆さんの許可も得て、私は空いた時間は読書にあてることにしていた。自身では絶対手を出さないだろうと言うジャンルの本が沢山あったので、いい機会ということで色々読んで日々を過ごしていた。難しい本も沢山あるが新しい世界を知ることができるのは楽しかった。

 本の整理が済んで座ることが出来る様になったリビングのソファで、私は十年以上前にベストセラーとなった短編集を読んでいたのだが、どうも内容が頭に入って来ない。その原因はきっと中身が私に合ってないこと以外にもあるのだろう。

「……竜胆さん、今日はどこに行ってるんだろ」

 気になる。いつもは出かける際はどこに行くか教えてくれるのに、今日は

『ちょっと出かけてくるね』

 としか言ってもらえなかった。……少しだけ寂しい。

 ちょっと、という割にはもう八時間以上経っている。

「……そろそろ夕食の準備しないと」

 気になるけれど、竜胆さんにだって竜胆さんの付き合いがあるのだろうし、気にしても仕方ないか。

 私は読んでいた本をそっと閉じて立ち上がる。

 今日は何を作ろうか。そんなことを考えながら私はキッチンへ向かった。


 その日竜胆さんが帰ってきたのは午後八時頃だった。手元には茶色の封筒があった。

「お帰りなさい。……? 竜胆さん、なんだか疲れてますか?」

 僅かだけれどいつもより目が細く見える。

 体もなんだか猫背気味だ。

「ああ、ただいま……うん。久しぶりに旧友と会ってきたんだけど、長時間一緒にいると疲れる奴でもあってね……」

「そうなんですか?」

「気まぐれでからかってくる奴でね。でもまぁ楽しかったさ」

 そう言う竜胆さんは少しだけ笑っていた。やれやれって感じだろうか。

「優奈ちゃん、もうご飯は食べたのかな」

「えっと、三十分ほど前に出来ましたけど、まだ食べてないです。温めてなおせばすぐ食べられますよ」

「……? もしかして待たせてしまったかな。それは悪いことをしたね」

「わ、私が勝手に待ってただけですから」

 急いでキッチンに行き鍋に火をつける。パチチチっと小気味良い音の後に、ボッと炎の音がした。

「今日はカレーを作ってみました。ちょっと辛いかもしれないですけど……」

「いいよ。辛いのは嫌いじゃないから。……僕はちょっと荷物を置いてくるから、悪いけれど準備をお願いできるかな」

「わかりました。どのくらい召し上がります?」

「ご飯を皿の7割くらい。ルーはご飯全体にかける感じで」

「わかりました」

 ご飯を盛りながらルーが温まるのを待つ。

 ……そういえば、あの封筒は何だったのだろう。出かける際は持っていなかった筈だ。

 とするとお友達から貰ったのだろうか?

「ちょっとだけ気になる……」

 気になるけれど、あまりあれこれ聞くのも悪い気がしたから、私は封筒について聞かないことにした。


 竜胆さんとの食事。相変わらず音はほとんどせず静かな時間が続く。

 竜胆さんは食事中は特に話しかけてくることはないけれど、私が何か聞くと律儀に手を止めて答えてくれる。

 彼の食事の手を止めてしまうのは少し申し訳ないけれど、私は竜胆さんと話すことが好きだった。

「竜胆さんが今日会っていた方って、どんな方なんですか?」

「ん……気になるのかい?」

 竜胆さんはやっぱり手を止めて私の方を向いてくれる。

「ちょっとだけ、ですけど」

「名前は篠宮雨水しのみやうすい。高校時代の男友達だよ。さっき言った通り、時々からかってくる明るい奴だ」

「からかって……?」

「まぁ、そこは置いておくとして」

 ? 珍しく竜胆が照れているように見えたが気のせいだろうか。

「今日は久しぶりに雨水と遊んできただけだよ。カラオケとかダーツとかで遊びながら、最近の出来事とかを話し合った感じ。連絡自体は携帯でも出来るんだけどね、他愛ない話って言うのはやっぱり対面の方がしやすくてね」

「なるほど……竜胆さん、カラオケとかするんですね、ちょっと意外です」

 この一月の間彼が音楽を聴いている姿を見かけたことが無かったから、一瞬竜胆さんとカラオケが結びつかなかった。

「最近の曲は聴いてないけれど、子供の頃に見ていたアニメの歌とかは何曲か歌えるからね。今回は雨水に連れられて行ったけれど……確かに僕だけなら行かないかもね」

 どんな曲を歌うのだろう。少し気になる。

「……優奈ちゃんも今度行ってみる?」

「え? あ、その……いい、いいです。私全然歌うの上手くないですから!」

「うーん……上手い下手より楽しめるか否かが重要だと僕は思うけどね。そう言うならカラオケはやめておこうか。今日行った場所にはホッケーとかビリヤードとかもあるけれどそっちはどう?」

「興味はありますけど、ぜ、全然やったことないですし……」

「なら今度行ってみようか。ルールは僕が教えるから。誰でも最初は初心者だし、上手さとか強さとかは気にせずにやってみよう?」

「それなら……よろしく、お願いします……」

 ……これはひょっとしてデートのお誘いというやつではなかろうか。

 というか篠宮さん(だったっけ)のことを聞いたのにいつの間にか彼の話題でなく行った場所の話題になってたような。


 ……デートって、何すればいいのだろう?



 竜胆さんの都合などもあって、デートの日は誘われた日から一週間ほど後の金曜日になった。

 一緒に暮らしているからどこどこで待ち合わせ、なんてことはなかった。聞いた場所は駅からもこの家からも結構離れていて、車でないと向かうのは相当不便な場所だった。

 私は買ってもらった服の中で一番のお気に入りの青いブラウスと茶色のロングスカートを選んだ。少し前に買ってもらった、青色のショルダーバッグももちろん忘れない。

 竜胆さんは心なしいつもよりピシッとした感じの白いシャツに黒色のスラックスというスタイルだった。

 車を走らせること約四十分。複合エンターテインメント施設・ラウンダーに到着した。

 とても広い敷地に幾つもの区画があり、それぞれ異なる趣きのゲームを楽しめるという触れ込みだ。更に地下二階地上五階建てでゲームの特性を考慮したゾーン分けを行ってるらしく、賑やかに遊びたい人達も静かな空間で過ごしたい人も楽しめるという。私は大きな音がする場所や沢山の人が笑っている空間というのは苦手だったから、このような配慮はとてもありがたかった。

「一通り案内したいけれど、普通に回ったらそれだけで一時間はかかるからね。案内所にどんな遊戯があるかの一覧があるから、それで興味が出たものをいくつか回ろうか」

「は、はい……。竜胆さんはここに来たら普段は何して遊んでいるんですか?」

 案内所へ向かう間、私は気になって聞いてみた。

「僕? いつもはダーツかな。そこまで動かないし点数計算は自動でしてくれるから楽だし。厳密なルールでやると難易度が上がるけど、カウントアップって言う合計を競うだけのものもあるから初心者でも遊びやすいと思うよ」

「ダーツ……私にもできるでしょうか」

「きっと出来るよ。投げ方は個人の好みとかあるけれど、僕もある程度は教えてあげられるから」

「それなら、やってみたい、です」

 初めて遊ぶからというのもあるけれど、竜胆さんが楽しんでいるという遊びを私も体験してみたかった。少しでも、ほんのちょっとでも——竜胆さんのことを知りたいと思っているから。

「流石にダーツだけだと勿体ないから、もう何個かは遊ぼうか」

 歩いているうちに着いた案内所には、各階で何が遊べるのかをピクトグラムと共にわかりやすく説明している大きな看板があった。遠くからでも見えるように文字が大きく配色も考慮されている看板。遊戯名の横には現在の利用者率が書かれており、混雑の目安を示していた。近くで見ると結構大きく高さは四メートルはあるだろうか。

「色々あるんですね……ボーリングにホッケーに……カジノ?」

 最上階に書かれているのはルーレットやブラックジャックなど、カジノで遊べるゲームだった。

「カジノと言っても本物の賭博ではないよ。遊ぶ前にチップ……というかチップカードを購入するんだけど、それが無くなるか100倍以上になった時点で終わりなんだ」

「チップカード?」

 聞き慣れない言葉だ。普通のチップとは違うのだろうか。

「以前はチップって小さなコインみたいなものを使ってたらしいんだけど、量が多いと嵩むし管理も大変ということで電子化されたんだ。ゲームする際はカードを所定の場所に差し込んで操作する。操作後はチップのホログラムが出てきて雰囲気を出してる」

 確かに小さいとは言えチップが数十枚とかあったら賭けるときも大変そうだ。

「そんな技術があるんですね……チップは何かと交換できないんですか?」

「できるけど一日入場無料券とか飲み物引換券くらい。換金は出来ないようにしてるらしい。あくまでお遊びってスタンスを崩したくないとか聞いたかな。……遊ぶ際は会員カードの作成が必須だけど見るだけなら無料でできるよ。興味があるなら覗いてみるかい?」

「見てはみたいですけど……でもそういう所って危ない人がいそうですし……」

「いないとは言い切れないけど、一応警備員が何人かいるよ。まあいざとなったら僕が守るから」

 ……そういう台詞をあっさりと言うのはずるい。そんなこと言われたら断れない。

「じゃあ、後で少しだけ……」

 鼓動がさっきよりも速くなっているのがわかる。室内は弱いけれど冷房がつけられているのに少し暑いと感じるのはきっと気のせいではないだろう。


 その後私は掲示されているゲームの中からエアホッケーとボーリングを選択した。

 エアホッケーはわかりやすくて竜胆さんといい勝負ができたし(手加減されてたような?)、ボーリングはお互いそこまで上手くない故にいい勝負になっていた。

 普段あまり運動しない私はこの二種目を遊び終えた時点で結構疲れ始めていた。

「大丈夫かい?」

 竜胆さんも普段ほとんど運動してないはずなのに、余裕そうに見える……何故?

「だ、大丈夫です……でもちょっと休憩してもいいですか……?」

「もちろん。じゃあ休憩がてらカジノゲームを見に行こうか。飲み物とかあるから水分補給もできるし」

 こっちだよと竜胆さんに案内され、二十人は乗れそうな大きなエレベーターに乗って最上階へ。

 やがてチン、と音がしてドアが開く。

「わ……すごい……」

 さっきまでいた空間とは全然違う雰囲気がそこには広がっていた。薄暗いけれどテーブルの近くは暖色系の明かりによって照らされている。

 ゲームに興じている人が半分、周囲からそれを見たり壁際で談笑している人が半分くらい。プレイヤーの手元にはホログラムで浮かび上がったチップの山が積まれている。ゆったりとしてるけれどなんだか心が踊ってしまいそうな不思議な音楽が流れていた。

「見て回るのもいいけどまずはあっちで飲み物売ってるから買いに行こうか」

「あ、はい」

 竜胆さんに連れられて私は販売コーナーに移動した。

 売られているのはほとんどがジュースだ。お酒は……アルコール度数が低いものがいくつかある程度だ(横に表記されていた)。竜胆さんはオレンジジュースを選んだ。私も真似して同じものを注文した。

 冷たいジュースが喉の渇きを潤してくれて心地いい。そういえば……

「竜胆さんってお酒飲まないですよね」

「ん? あぁ……そうだね。人からお前は飲むなって言われてるんだ」

「……?」

 どういうことだろう。医者からでなく人から?

「ほとんど記憶がないんだけど、どうやら僕は悪酔いするらしくてね。全然人の話を聞かなくなるらしいから、誰か一緒にいるときは飲まないようにしてるんだ」

「悪酔い、ですか」

 どんな感じなんだろう。いつも私に向き合ってくれる竜胆さんが話を聞かなくなるって全然想像できない。

「二、三人に言われてるなら多分事実なんだろうなって」

「……私がいるから、お酒、飲みたくても飲めないんですか?」

 お酒は好きな人は毎日飲むほどって聞いたことある。私がいることは竜胆さんにとって負担になってはいないだろうか。

「まさか。僕は全然飲みたいって思わないから。晩酌に付き合って飲んだだけだよ。優奈ちゃんが気負うことはないよ?」

 そろそろ行こうか、と自然に手を取られた。グラスを持っていたからか、その手は少し冷たい。

「あの、手……」

 私は急に握られてどうすればいいかわからなくなってしまった。

 全然力は込められていないのに、何故か離すことができない——いや、したくない。

「あまりないとは思うけれど、優奈ちゃんみたいな若い女の子がここに一人でいたら色々目をつけられかねないから」

 そっと耳元で竜胆さんが囁いた。僅かにかかる息がくすぐったい。

 言われてみると確かに周りには目つきの鋭い警備員や少し太ったおじさん、ピアスをつけたり髪を金色に染めたりしてるちょっと怖そうな見かけの人など、男の人が多い。

 女性と言えばテーブルでトランプを捌いていたりルーレットを回していたりとほとんど店員さんで、偶に見えるのは露出の多い服を着た大学生くらいに見える数人程度だ。

「…………」

 うん、確かに私は浮いている。

 私は彼の手の冷たさと気遣ってくれる温かさを感じながら、一つのテーブルに近づいていった。


「ここはポーカーが行われてるテーブルだね」

「ポーカーってトランプの役の強さを競うものでしたっけ」

「そうだよ。ここでは役を覚えてない人でも遊べるように、今の手持ちでどんな役を目指せるか教えてくれるサポート機能があるんだ。僕は詳しいルールまでは把握してないけど、楽しめたよ」

「ほんとだ……」

 近くにいる人の手元をそっと覗いて見るととツーペアと書いてあった。もちろん他のプレイヤーからは見えないように位置が調整されている。

「これは役の強さを競うものでもあるけど、どちらかと言えば勝負をするか否かの駆け引きを楽しむゲームだからね。優奈ちゃんは……どうだろうね?」

「どうでしょうね?」

 あまり虚勢をはるのは得意ではないし向いてない可能性は高そうだ。

 しばらくゲームを観戦していたが、流石に珍しい役は出なかった。最終的に小太りのおじさんが大勝したところでキリがよかったので次のテーブルへ向かうことにした。

 ゲーム名を表示している頭上の電光掲示板の中にはブラックジャックやカバラなど、あまり知らない私でも聞いたことのある物もあった。

「……カジノウォー? 竜胆さん、ご存知ですか?」

「えっと……早ければ数秒で決着がつくカードゲームだね。ディーラーより強いカードを引ければ勝ち、そうでなければ負け。引き分け時はやめるか賭け金を2倍でもう一度勝負……みたいな感じだったかな」

「数秒? そんなに早いんですか?」

「カードの柄は関係なくて、数値の大小での勝負だからね。そこまで複雑なルールではないから、初心者もやりやすいかな」

「なるほど……」

 そっと覗いてみると、白髪が目立つけれどまだ若そうな雰囲気の方が一人、ゲームをプレイしていた。頭上のモニターには勝敗が着いた、ディーラーとプレイヤーのカード結果が表示されている。

「あの人、すごい勢いで勝ってますね……」

 今11戦目に突入しているらしいが、それまでの成績が10戦中8勝2敗。

 手元のチップは既に最初の15倍近くになっている……らしい。

「……あれ。あの人……いや、違うかな」

「? どうかしましたか、竜胆さん?」

「知り合いに似てる気がしたんだけど、彼は杖をついてるから違うかなって」

「竜胆……?」

「えっ?」

 その時、しゃがれた男性の声が竜胆さんの名前を読んだ。

 振り向くと先程までプレイしていた男性がこちらに顔を向けている。頭上のモニターを見ると、彼の勝利数が一つ増えていた。

「ほう……ここでお主を見かけるとはな。珍しいこともあるものだ」

 その人はプレイを中断したらしく杖をつきながらゆっくりと立ち上がる。

「ひっ……」

 思わず、声が出てしまった。

 2メートルに届きそうな高身長に広い肩幅、高級そうな黒いスーツ。それだけでも威圧感があるのに、ボサボサの長い白髪とギロっとした目つき。眼帯で覆われている右目には大きな傷痕まである。右足が悪いのか杖を使っていてその歩みは速くないけれど、どこか超然とした雰囲気を漂わせている。

 ……怖い。怖い、怖い……。何が怖いかわからないけれど、私は彼に恐怖を覚えていた。

 呼吸が浅く速くなる。緊張が身体に走るのがわかる。

 と、その時。

 そっと竜胆さんが私を抱き寄せた。

「優奈ちゃん、大丈夫。この方は怖い人だけど、悪い人ではないよ」

 近くで感じる竜胆さんの体温。その鼓動。

 ちょっとだけ……私は彼に自分の身体を押し当てた。そうすることでほんの少し、恐怖が薄れた気がした。

「……それが人に紹介する文言かね」

「先生、失礼を承知で言いますが貴方の容貌は十分、人を怖がらせる迫力があります。この子はあまり強くないから、もう少し穏やかな雰囲気を出してもらえると助かります」

「怖がる? そんなのはそちらのお嬢さんが勝手に感じているだけだ。儂が遠慮する必要はない」

「……なら僕たちはここから去ります。僕は貴方と話すことに何も抵抗はありませんが、この子は違うので。僕は彼女を守りたいので」

 守りたいと竜胆さんが言ったとき、そっと私を抱く腕に力が入った気がする。

 それに竜胆さんの口調、なんだかいつもより硬い気がする。……なぜ?

「…………。ふん。わかったわかった。お主が頑固なのは相変わらずのようだな。努力ぐらいはしてやろう。それで、そちらのお嬢さんは?」

「舞園優奈という子で、訳あって僕の家に来て貰ってます。色々気の利くいい子なんですよ。優奈ちゃん、こちらは僕が昔お世話になった方で、九重暦ここのえこよみさん」

「九重という。宜しく」

 先程より幾分か鋭さが減った視線がこちらに向けられる。

「舞園、優奈です……竜胆さんにお世話になってます……」

 それでも目を合わせるのが怖くて、私はまともに九重さんを見られなかった。

「立ち話は足に負担があってな。悪いが移動したい。よいかな」

「優奈ちゃん、大丈夫?」

「は、はい……」

「では四階に行くか。食事しながら話そうではないか。……怖がらせた詫びだ、舞園君の分は儂が出そう」

「僕の分は出してくれないんですか?」

「お主は自分で払えるじゃろ」

 そう言って九重さんはエレベーターに向かって歩き出した。


 私たちは四階にあるカフェに移動した。

 私は竜胆さんと離れる機を見つけられなくて、竜胆さんも私から手を離してくれなくて。私と竜胆さんが隣あって、竜胆さんの前に九重さんが座っていた。竜胆さんがずっと隣にいてくれるからか、先程より不安が和らいでいた。

「あの……九重さんは、竜胆さんとどういった関係ですか」

 私は真っ先に一番気になっていたことを訊ねてみた。

「竜胆君が短期間だけだが大学に通っていたのは知っておるか?」

「短期間……?」

「そうだ。儂が長年かけて建てた研究機関・九重科学研究所、その研究者の育成校として建てた九重科学大学の一期生として竜胆君は入学したのだが、わずか一ヶ月程度で自主退学したのだ」

 九重科学大学。受験を意識し出した頃、その名前は何度も目にした。

『研究者に研究する自由を』という信条に掲げている大学で学費無しという異例の大学だった。入学試験は筆記だけでなく人間性を測られたり科学への考えを論述させるといった厳しいもの。例え入学しても常にその行動は評価され続け、不適切と見做されれば容赦なく退学させるという。

 竜胆さんがそこに合格していたことも驚いたが、自主退学したというのには更に驚いた。

「一ヶ月……あの、それって七年前のことですか?」

 四月に入学したとして一ヶ月後と言えば五月。その頃は……。

「少しは話しているのか、竜胆君?」

「えぇ……言っても、大丈夫ですよ」

「ふむ……そうだ、舞園君。竜胆君は恋人の死を契機に、真摯に学問と向き合えなくなったという理由で自主退学した。儂は止めたがの、当時から既に意思の強かった彼はそのまま辞めたよ」

 残念だと、当てつける様に言う九重さん。

 竜胆さんはどこか寂しげにその言葉を受け流した。

「そう、だったんですか……」

 夕菜さんの死はきっと、竜胆さんの心に大きな傷を残したのだろう。私では想像できないくらいに。

「僕はその後、雨水に無理矢理連れられてここに来た時に先生と再会してね、今の生き方を色々指導してもらったんだ。偶にだけど連絡もとっているんだよ」

「今の……ってあの、FXっていう?」

「うん、先生は色々役職を兼任してる凄い方なんだけど、昔はFXで荒稼ぎしてたらしいよ」

「やめいやめい。金の話は食事の席でするな。飯が不味くなるわ」

 心底嫌そうに顔を顰める九重さん。

「それは失礼……先生、前は杖をついてなかったと思いますが、足はどうされたのです?」

 竜胆さんが九重さんの杖を手で示しながら聞く。細かい紋様が彫られた、黒と茶色の渋い杖だ。

「何、大した事ではない。前方不注意運転のバイクが突っ込んで来たから返り討ちにしてやったのだが、その際に靭帯を捻った」

 涼しい顔で言うけれどそれは大事おおごとではなかろうか。

「結構大事ですね……痛みは?」

「今はもうほとんどない。幸いうちの者たちの腕が良くてな。もう数週間すれば元通りとのことだ」

「それはよかったです」

 その後も竜胆さんと九重さんの会話が続いていく。

 私はあまり口を出せなかった。

 やがて注文した料理がそれぞれに運ばれてきて、三人とも手をつけ始めた。

「舞園君。竜胆君の家にいると聞いたが、同棲しているのか?」

「えっ、そ、そうです」

 ふと、九重さんがそんなことを聞いてきた。

「竜胆君はちゃんとした食生活をしているかね? 前に聞いた時は一週間三食全てコンビニ弁当だった時期もあったらしいが」

「……竜胆さん?」

「あはは……」

 竜胆さんは分かりやすく目を背ける。コンビニ弁当が悪いとは言わないけれど、ずっとは栄養が偏りやすいですよ?

「えっと、今は私が三食とも作ってます。竜胆さんの意見を聞きながら、栄養とか考えて……竜胆さん、食が細いので量も調節してます」

「そうか。ならよい。竜胆君は舞園君をちゃんと見ているかね?」

「見て……? えっと、その……竜胆さんは、私の話を聞いてくれて、私に優しくしてくれて……いつも感謝してます」

 竜胆さんが聞いてるのにこんなこと答えるのはちょっと恥ずかしいけれど、感謝しているのは本当だ。

「あ、あの、私……ちょっとお手洗いに」

 顔が熱くなってきて、私は無理矢理その場を抜け出した。



「……先生、何か気になることでも?」

「さっきまではな。だがもうよい。あの子が嘘を言っているようでもないしな」

 優奈が席を立った後、秋夜しゅうやこよみと話していた。

「そうですか……ならいいのですが」

「ふむ。お主の近況も聞けたし儂は食い終わったら帰るつもりだが。お主からは何かあるか」

 そう問われ、秋夜はしばし動きを止めた。

 その様子を見て暦は何かを察したが、敢えて問わない。言われなければ関わることを極力しないのが彼の主義の一つだった。

「……先生。先生のお力をお借りしたいのですが」

 そう切り出した秋夜の目は真剣そのものだ。暦が秋夜のこの目を見たのは彼が退学の話を持ち込んできたあの日以来だ。

「言うだけなら只だ、言うてみい」

「僕は……優奈ちゃんを守りたいです。その為に、ある制度を利用しようと考えてます。雨水うすいにも色々調べてもらってますが、先生のお知り合いの方にもご助力を願いたく」

「制度?」

「正式名は長くて覚えてないのですが、通称『法的絶縁制度』……一年ほど前に制定された制度ですが、ご存知ですか」

「あぁあれか……さっきの訳というのはそれか? 舞園君は血縁者と仲が悪いのか」

「実の両親とは死別してまして、今は叔父が保護者らしいのですがほとんど彼女に関心がないようで。彼女の話を聞く限り、叔父は保護者としての最低限の義務も果たしていない様です。過去には一度だけですが、児童相談所への通報もあったらしく……」

 流石に自殺関連の話は秋夜はしなかったが、暦がどこまで気づいているかは未知数だった。

「あれは確かに児童や生徒の保護目的でも利用できるが……儂は舞園君のことを詳しく聞いてないから断言できないが、条件はあったはずだ。彼女に適用できるかは分からんぞ」

「だから——先生の力を貸して頂きたいんです」

 その言葉を聞いた時、暦は歪に口角を釣り上げた。優奈がこの場に入れば再度悲鳴を上げたかもしれない。

「……儂に『そういう』協力を求めるというのがどういうことか、わかっておるのかね?」

 暦は楽しそうに眉を歪ませて聞くが、

「もちろん。分かってます」

 秋夜は臆せずすぐに答えた。

「なるほど……なるほど、な。ふふふ……ふふふふふっ! そうか、そこまでしてでも舞園君を守りたいと言うか」

 目はカッと見開き、顔にある傷もぐにゃりと曲がり、その表情はもはや嗜虐的にも見える。

「……如何でしょうか」

 そんな笑顔を目の前で見ても秋夜はほとんど動揺せずに話を続ける。

「ふむ……考えてやってもいいが只でとは言えんな」

 トントンと指で杖を叩く暦。

「僕にできる事であれば全てやりましょう」

「もし儂が大学に戻れと言ったら?」

「貴方が力を貸してくれて、その結果優奈ちゃんを守れたなら戻ります」

「即答。いい返事だ。……だがまぁ、そんなことは求めんよ。能力があってもやる気と情熱を持ってないなら意味がない。そうだな……ダーツ。カウントアップで5ラウンド。儂に勝てたら。……どうだ?」

「わかりました」

 秋夜はまた即答した。

「……儂から言い出しといてアレだが。舞園君とのデート中ではなかったのかね」

 暦に言われてから秋夜はしまったと表情を変えた。

「……その、優奈ちゃんとはまた来れますから」

「やれやれ……後で埋め合わせを考えておきたまえ」

「はい……」

 暦は呆れて溜息を吐き、秋夜は反省で溜息を吐いた。

 そうして優奈がいないところで二人の会話は終了した。


「遅くなりました……あの、二人ともどうかしましたか?」

 私がお手洗いから戻ってくると何故か九重さんが呆れたような顔をしてて、竜胆さんは困ったような顔をしてた。

「優奈ちゃん、その、えっとね……」

 竜胆さんが困った顔のまま、困ったように言う。

「よい。儂から言おう。舞園君、デートの途中で悪いが、竜胆君を儂に貸してもらいたい」

「えっ……」

 な、なんで……? どういうこと? 私がいない間に一体なにが?

 私は訳がわからなくなって思わず固まってしまう。

「久々に此奴こやつとダーツで戦ってみたくてな。平日の昼間からここにいるから信じられんかもしれんが、実は儂は多忙の身でな。そんなに機会がないのだ」

「そう、なんですか……?」

 確かに大学や研究所の関係者であれば多忙なのも頷ける。今日はお休みなのだろうか?

「ごめん、優奈ちゃん。僕も久しぶりに先生と対決してみたくて。この埋め合わせは絶対するよ。なんなら一日優奈ちゃんの言うこと聞くから」

「そ、そこまでしなくてもいいですから。……わかりました。ちょっと寂しいですけど、我慢します」

「本当にごめんね……」

 竜胆さんが申し訳なさそうに手を合わせてくる。竜胆さんが自分から何かしたがるというのは珍しい気がする。

 竜胆さんに教えてもらうのを楽しみにしていたのだけれど、竜胆さんが投げる姿を見られるというならそれもいいかな?

 そんなわけで私の初デートは九重暦さんという乱入者によってあえなく終わってしまったのだった。


 ご飯を食べ終えて三階に設立されたダーツバーに私達は移動した。各自一杯だけソフトドリンクを頼んでから、案内された壁際の一台にやってきていた。竜胆さんはダーツをもらいに行っていた。

「あの、九重さん。足は大丈夫ですか?」

「椅子を借りるから問題ない。舞園君、ひとつだけ注意しておいてほしい。儂等が投げている間は絶対前を横切るなよ」

 ギロっとした迫力のある目が私を射抜く。あまりの鋭さにまた思わず声が漏れてしまいそうになった。

「わ、わかりました……」

「お待たせ致しました」

 竜胆さんが合流して九重さんにダーツの入ったケースを手渡した。

「うむ。竜胆君、台の設定も頼めるかね」

「すぐに」

 竜胆さんは手慣れた様子で台を操作している。

「舞園君は……最低でも儂等の後ろにいたまえ。今はほとんど客もいないし、隣のレーンでもいいが」

「……で、では隣のレーンで」

 私は小さなテーブルと椅子をお借りして、竜胆さん達を横から眺められる位置に移動した。

 やがて竜胆さんが戻ってきて、早速ゲームが始まった。

 先手は竜胆さんだ。

 軽く放たれたダーツは真ん中より少し上に、タンッと軽い音をたてて当たった。見ると台の上にある電子パネルに60という数字が表示された。

「あれ、60って……」

 私は側に置いてあった小さなルールブックを手に取り捲ってみる。

 そこにはこのバーで遊べるルールの紹介が書いてあり、後ろの方に的に当たった際の点数が図説されていた。

 的は円形で20等分されており、1~20の点数が振られている。的の円周上の狭い範囲が得点2倍となるダブル、中心が50点、中くらいの箇所にある狭い範囲が得点3倍となるトリプルというらしい。そしてやはり私の記憶通り、一投で得られる最高得点は20のトリプルで、60点だった。

 私がルールブックを捲っている最中に竜胆さんの投擲は終わったらしく、パネルには180の文字が表示されていた。

「凄い……いきなり最高得点だ」

 竜胆さんは投げ終えたダーツを回収していた。その表情はどこか満足気だ。普段あまり見ない表情を見られたのでちょっとだけ得した気分になる。

 竜胆さんが離れたことを確認してから、今度は九重さんが座ったままダーツを投げた。

 竜胆さんが投げた位置より後ろで、しかも座っているというのに投げられたそのダーツは力強く飛び、ターンッと響く音を立てて的に突き刺さった。点数を確認すると先程見た数字と同じ、60点。続く二投三投も同じ箇所に突き刺さり、第一ラウンドは180対180で引き分けだった。

 投げ終わったダーツは竜胆さんが回収して九重さんに渡していた。

 続く第二ラウンドでは竜胆さんが20,45,60で125点、九重さんはさっきと同じ180点。

 二人とも話しながら投げてるのによく当てられるなぁ……。

 私が座っている場所は九重さんの右後方。竜胆さんと九重さんは何か話しているようなのだが店内のBGMと距離の問題でその内容までは聞き取れなかった。

 どんな話をしてるんだろう?


「……竜胆君は何故儂の力を借りてまで彼女を守ろうとする?」

 第三ラウンドの途中、秋夜が投げ終えて180点を獲得し、暦の番になった時。

 暦は値踏みするような視線を投げながら秋夜に問いた。

「儂の力を借りるということは、『真っ当でない』手段も含まれるとお主も理解しているだろう?」

 あまり集中しているように見えないが、放たれたダーツはまたもや60点を獲得する。

「僕は……大切な人を守るためなら多少真っ当でない手段を使うことくらいは躊躇いませんよ」

「多少、ね」

 ターンッと心地よい音が響く。60点。

「何がお主をそこまで駆り立てる? 一目惚れでもしたか?」

 最後の一投の前に暦は手元のサイダーをのんびりと飲む。

「一目惚れは……どうでしょうね。先生が科学者の立場を守らなくてはと思う気持ちと同じだと思います」

「ふむ?」

 その時放たれたダーツは今までの軌道より少しだけ上に逸れ、20のダブルに突き刺さった。そこで初めて暦の投げたダーツが60点以外の点数、40点を記録した。

「……同じ、とな?」

 回収を終えた秋夜に暦が訊ねる。

「ええ、同じですよ。大切で、譲れない。譲りたくないものです」

 秋夜は位置を調整した後、力を抜いて一投。的の真ん中に突き刺さった。50点。

「……死んだ恋人と同じ名前なのが理由かな?」

 ビクッと一瞬秋夜に動揺が走る。

 ダーツは左下ギリギリのところに辛うじて刺さった。16のダブルで32点。

「……名前は関係ないですよ。彼女の名前を知ったのは、知り合った後のことですし」

 秋夜は先ほどのずれを意識して気持ち右寄りに投げたが今度は右に寄りすぎた。10点。

 これで秋夜の現在の得点は577、暦は520。まだ暦はこのラウンドを終えてない。少し苦しい展開だ。

「儂は個人に対して大切などと感情を抱いた事が無くてな。お主の舞園君に対する気持ちが儂の科学に対する主義と一致しているとはとうてい思えん」

 いささか乱暴に見える投げ方で暦が放ったダーツは的に引き寄せられるようにして刺さり、60点を獲得した。

「何かを大切にしたいという気持ちに大小も差異もないと僕は思いますがね」

「……よくそんな台詞を恥ずかし気も無く言えるな、お主」

 気が抜けるわ。

 そう言って放たれたダーツは先ほど秋夜が最後に当てた位置の近くに刺さり、10のトリプル、30点を獲得した。

「僕だって相手を選んで発言してます。先生はそういう台詞を言っても馬鹿にしたりしない人格者だと思ってますから」

「笑えない冗談だ。儂は人格者なんかではないよ」

 嫌そうに顔を顰める暦。いつの間に投げていたのか、三本目が的に刺さって9のトリプル、27点を獲得していた。

 これで暦の現在得点は637。秋夜の577より60点分高い。

「もう1ラウンドしかないぞ?」

「まだ1ラウンドもありますよ」

 暦が楽しそうに笑って。

 秋夜も楽しそうに笑う。

「……投げる前に、ちょっとだけいいですか」

 秋夜は手の平を暦に向け、『待った』の意を伝える。

「よかろう」

 暦はサイダーを飲みながら余裕綽々たる態度で頬杖をついた。

 秋夜は少し頭を下げて一旦移動し、優奈の前までやってきた。

「……? 竜胆さん、まだ1ラウンド残ってますよ?」

「うん、わかってる。……優奈ちゃん、ちょっと立ってもらってもいい?」

「? わかりました」

 秋夜の言動に優奈は疑問を持ちつつも従った。秋夜の位置が思ったよりも近く、優奈は若干戸惑った。

 少しでも動けば触れ合える距離——

「……え?」

 一瞬、優奈は何をされたか理解が追いつかなかった。

 秋夜が少し動いたかと思ったら、そっと背中に腕を回してきたのだ。全然力は込められてない。抜け出そうと思えばすぐにでも可能なくらいだ。本当にただ触れあう程度の、抱擁。

「……竜胆、さん?」

「ごめん、少しだけこのままで」

 だけど、優奈は彼の腕から逃げ出そうとはせず、そっと秋夜を見上げた。

 そして自分も秋夜の背中に手を回し、彼よりも少しだけ力を込めて秋夜を抱きしめた。

「…………」

「…………」

 互いの温もりが僅かに感じられるくらいの距離に若干のもどかしさも感じて、優奈は秋夜に身体を近づけた。

「…………」

「…………よし」

 その一言で、短い抱擁の時間は終わる。

 秋夜が始めた時と同じ様にそっと腕を解いて、優奈が続くようにして腕を下ろす。

「気合い、入りました?」

 照れた様にはにかみながら、優奈が言う。そう訊ねる彼女の頬には少々朱が差していた。

「うん。入った。ごめんね、突然」

「い、いえ……竜胆さん、私、竜胆さんのこと応援してますから」

「ありがとう。頑張るよ」

 どこかすっきりとした表情で勝負に戻る秋夜。

 優奈は名残惜しく感じながら席に着いた。


「お待たせ、しました」

「あぁ全くだ。飲み終えるくらい待ったぞ」

 空になったグラスを指で弾きながら暦が言う。

「済みません……でも、これで最後ですから。次にいつ先生と勝負できるかわかりませんし、気合い入れるくらいは許してください」

「では、気合いを入れた竜胆君のお手並拝見といこうか」

「どうぞご覧あれ、なんて」

 冗談めかして微笑みながら秋夜が一本目を投げる。

 タン、と軽い音がして突き刺さった場所は20のトリプル。60点。これで同点。

 続けて二本目——同じく60点。

 最後に少しだけ位置を調整して、三本目——60点。

 これで秋夜の最終獲得点数は757点。暦より120点のリードだ。

「121点以上で儂の勝ち、か」

 今までのラウンドで暦はほとんど120点以上獲得している。この差は多いようで、実は結構余裕のない差であった。

「そうですね……でも、最後まで勝負はわかりませんから」

「そうだな。では——」

 暦がケースに入ったダーツを手に取る。

 重さなどを確認し、ゆっくり狙いをつけて——一本目。投げられたダーツは真ん中より左に飛んでいき、12のトリプル、36点を記録した。

「一応確認しとこうか。竜胆君が勝ったら儂が色々協力してやるとして、儂が勝ったらさっきの話はどうする?」

 次のダーツを手中で弄びながら暦が言う。

「もちろん僕一人で進めますよ。元々そのつもりでしたし、先生に会えたのは偶然でしたから。先生にお力添えしていただければ、より早く成し遂げられるとは思いますが」

「なるほど」

 タン、といい音がして二本目が突き刺さる。20のトリプル、60点。残り一本の状況で現在暦は733点。点差は僅か24。

「手続きは色々と煩雑で時間がかかる。それでもやるか?」

「やりますよ。たかが面倒くさい程度で僕は投げ出しません。諦めるのは嫌いなんです」

 秋夜が言い終えた後、暦はふと後ろを振り返った。少し離れた所に座っている優奈は、何故暦が最後の一本を投げないか疑問に思っているようだ。

「……先生?」

「諦めるのが嫌い、か。儂もだよ」

「?」

 暦の唐突な台詞に秋夜は訝しんだ。

 次の瞬間、的の方からダンッと大きな音が轟いた。見るとさっきまでなかったダーツが一本増えている。その刺さっている場所は——1のトリプル。計3点。

「1のトリプルなど久しぶりに見たのぉ」

 なんて、呑気な口調で言いながら暦が立ち上がった。

 最終結果は秋夜が757点、暦が736点。21点差で秋夜の勝ちだった。

「竜胆君、後で連絡する。詳しいことはその時に伝えよ」

「……ありがとう、ございます」

「礼はまだ早い。色々終わらせてから報告しに来たまえ。それから、後片付けを頼む。この後も予定があっての、時間も押してきたから、これで帰るよ」

「わかりました……では、その時に」

 後ろを向いた暦に静かに頭を下げてから、秋夜はダーツの回収やグラスの片付けを始めた。

「舞園君」

「な、なんでしょう? 九重さん」

 秋夜の手伝いをしようとやって来た優奈に暦が声をかけた。

「……これを」

 懐から取り出されたのは一枚の名刺。

 触った途端に高級とわかるすべすべとした材質。

『九重科学大学  理事長

 九重 暦』

 光沢がある黒々とした力強い字で、暦の所属や連絡先が書かれていた。裏面には大学の住所や電話番号が書かれている。ここから結構近いみたいだ。

「これ……九重さんの名刺、ですよね?」

「他にも幾つか持っているがの。君にはそれを渡しておこう。何かあったら遠慮なく連絡するといい。それから、もしもここを見学したいと言うならいつでも歓迎する。この名刺を持参すれば殆どの奴は君を邪険には扱わないだろう」

「私なんかに渡していいんですか……?」

「ここで会ったのも何かの縁ということだ。それに折角のデートを邪魔してしまったしの」

「あはは……」

「ではな。竜胆君のこと、くれぐれもよろしく頼むよ。それから……中々楽しいゲームだったと伝えといてくれ」

 ひらひらと手を振る事もなく、言いたいことを言い切った暦は振り返らずに去っていった。

「先生、何か言ってた?」

 片付けを終えた秋夜が優奈の近くにやってくる。優奈は貰った名刺をそっとバッグにしまい、振り向いた。

「楽しかったそうですよ、秋夜さんとの勝負」

「……そっか。それはよかった」

 秋夜は一瞬呆気に取られたように表情を変えたが、それもすぐに消えてしまった。

「優奈ちゃん、ダーツはどうする? まだ少し時間があるし、遊んでいく?」

「そう、ですね。お二人が投げるのを見て、ますます遊んでみたいと思いました。竜胆さん、色々教えてくれますか?」

「ん、了解。まずは投げ方からだね」

 そうして秋夜は残った時間を使って、優奈に基礎を教え始めた。

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