三章・信頼

 次の日、起きて時計を見ると八時を過ぎていた。

「…………」

 ぼーっとしながら朝日が差し込んできてる窓を見る。マンションの七階ということもあり、そこからの風景はあの家の部屋から見るものとは全然違くて、川も山も遠くに望めてとてもいい眺めだった。

 近づいて窓を開けるとまだ少し湿っている風が流れ込んでくる。風に煽られて髪が靡く。その感覚は私が今までとは別の場所に来たのだということを鮮明に示していた。

 未だに眠気がとれない目蓋を擦りつつ洗面所へ。いつもよりちょっとだけ念入りに顔を洗って。髪を解かしながら鏡を見ると昨日よりも少しだけ薄くなった隈が出ている私が映っていた。

「おはようございます……」

 自分にさえ聞こえにくい声量で朝の挨拶をしつつドアを開けた。

「やあ。おはよう、優奈ちゃん」

 そこには既に朝食が揃えられていて、竜胆さんがコーヒーを注いでいる姿があった。

「大体時間通りだね。優奈ちゃんは朝は何を飲むのかな?」

「あ、えっと……竜胆さんと同じものを貰えたら」

「コーヒーだけど、ミルクとか砂糖は要るかい?」

「ミルクだけ……お願いします」

「わかった。用意するから座ってて」

 さっと立ち上がって竜胆さんはカップを持ってきてくれた。焙煎したものなのか結構強い豆の香りが漂ってきた。

「じゃ、食べようか」

 頂きますと手を合わせて。二人の静かな朝食が始まった。


 用意されていたのはベーコンと卵焼き、ご飯にアサリの味噌汁とシンプルなものだった。食べやすい大きさに切ってあるのと温かさは感じても熱くはない温度のお陰でどんどん箸が進んだ。

「優奈ちゃん、あまり眠れなかった感じ?」

 お茶碗のご飯を半分ほど頂いた頃、竜胆さんが言った。

「えっ……」

「結構眠そうに見えたからさ。もしかしてベッドが合わなかったのかなって」

「そ、そんなことないです。とてもふかふかで柔らかくて、私なんかにはもったいないくらいで……」

「そう? でもあまり寝てない様に見受けられるな。なんて言うか……授業中で寝ちゃダメってわかってるのにとても眠くて何度も瞼が閉じかけてる、そんな子供みたいに見えるよ」

「それ、は……」

 確かに眠気は結構ある。ご飯を食べているのに、いや食べているからその満腹感も合わさって私は今起きていることが若干辛い。

「昨日は山を登ったり下ったりしてたからね。もしかしたらまだ眠り足りないのかな」

「そういうわけじゃ……あ」

 また言ってから気づいた。『そういうわけ』にしておけばよかったのに、否定の言葉は竜胆さんに届いてしまっていた。

「……僕が側にいるから不安で眠れなかったとか?」

「そんなこと!」

 思わず。本当に思わず。私は叫んでいた。自分が叫んだことに叫び終わってから気づいたくらいだ。

「そんな、こと……」

 無いって言い切れないその態度が既に答えを言っているも同然だった。

 私は泣きそうになりながらも、自身の心中を吐露した。

「……竜胆、さん。その、とても言いにくいんですけど、こんなこと言いたくないですけど……その……私、怖い、です。竜胆さんのこと、いい人だって、思いたいですけど、まだ、その……」

「まぁ、そうだろうね」

 私の言葉を聞いても竜胆さんの態度はほとんど変わらなかった。その声はひどくあっさりとしていて、一瞬冷たさすら感じられた。

「うん、僕も優奈ちゃんが初対面の男の家で熟睡できるとは思ってなかったから。それくらい図太いならそもそも自殺考えちゃうくらい思い詰めたりしないだろうし」

「私……私、は……」

「優奈ちゃん、怖いならそう言った方がいいよ。僕は特に気にしないからさ。なんとなくだけど、優奈ちゃんみたいな子は素直に色々吐き出さないとどんどん自分を追い込んでしまう気がするからさ、思ったことは伝えてほしいな」

「でも、お世話になるのに、そんな失礼なこと——」

「一緒に暮らすなら尚更だよ。『思ってるだけでは伝わらない』ってよく言うでしょ?」

 竜胆さんは真面目な顔をして私に向き合った。

「こう言うと悪く聞こえるかもしれないけどさ、優奈ちゃんはずっと感情を秘めたまま過ごすには心が弱いから。我慢してても君だけが苦しい思いをするよ。言われなければ僕は何もわからないんだから」

「私、だけが……」

 苦しい思いをする。

 それはずっと経験してきたことで。

 そしてずっと嫌なことだった。

「距離の取り方がわからないって言ってたね。ならさ、まずは僕との距離の取り方を学んでいってほしいな」

「竜胆さんとの、距離……」

「そう。他の誰でもない、僕と優奈ちゃんだけの距離。どうしていいかわからなかったら聞いていいし、辛かったり苦しかったら言っていい。無理はしないでほしいな」

 無理はしないでほしい。そんな心配の言葉をかけられたのは初めてで。

「う、うぅ……ううう……!」

 気づいたら、嗚咽が漏れていた。涙が次から次へと溢れてきて止まらない。

 拭っても拭っても足りなくて、袖口はどんどん色が変わっていく。

「使うといいよ」

 そう言って竜胆さんは私に一枚のハンカチを手渡した。とても肌理細かい肌触りのそれは不思議と当ててるだけで安らぎが得られる気がした。


 ひとしきり泣いて。みっともなく泣いて。けれどどこかすっきりとした気分になった頃、竜胆さんが言った。

「優奈ちゃん、今日の予定だけど一旦後回しにするよ。買い物は明日でも構わないし」

「え……?」

「僕はしばらく出かけるからさ、優奈ちゃんはまずしっかりと睡眠をとってほしい。身体が疲れてると心も疲れやすいからさ。ゆっくり寝て休んでほしいな。なんならお風呂沸かそうか?」

「そ、そんな……悪い、です」

「あえて乱暴に言うけど……疲れてて無理してる人がずっと側にいる事の方が、僕にとっては不愉快で悪いことだよ」

「うぅ…………」

 そんなこと言われたら、私は何も言えなくなってしまう。

「それに女の子を怖がらせるのも趣味じゃないからさ」

 そう言って竜胆さんは立ち上がり、空いてる皿を下げ始めた。

「皿洗いとかは帰ったらやるから、優奈ちゃんは食べ終わったらお皿だけ水に浸けといて。お風呂は入りたければ沸かして使っていいから。お腹空いたら冷蔵庫の中のもの好きに食べてね。うーんと……大体午後六時頃に帰るからそれまでゆっくりしてて」

 次々と竜胆さんは私に許可をくれる。会ったばかりの、何も知らない私にとても親切にしてくれる。

 ——何故? どうして?

「どうして……そんなに優しくしてくれるんですか」

「ん?」

「どうして私を、竜胆さんは助けてくれるんですか」

「……昨日言わなかったっけ? 助けられるなら助けたいって」

「……竜胆さんがわからないです。どうして会ったばかりの、何もできてない私に、ここまでしてくれるんですか? 私が勝手に竜胆さんを怖がって、寝不足になってるだけなのに。そんな私が眠れるようにってだけで、私を一人家に残していけるなんて……」

 おかしいですよ。つい、そう言いそうになってしまった。

「……もしも僕の態度が優しいと感じるなら、それは夕菜のおかげだろうね」

「夕菜、さん……畳野さんの……?」

「よく言われたよ。『女の子には優しくしないとダメ。特にあたしにはとても優しくしないとダメ』って。僕は誰かに優しくすることは苦では無いし、それで誰かが喜んでくれるならいいことだと思ってるよ」

 竜胆さんはどこか懐かしそうに、そして寂しそうに言った。

「一緒に暮らしていくんだし、僕は優奈ちゃんとお互いに信頼関係を築ければって思ってる。まだ始まったばかりだし色々配慮がいるだろうとも思ってるからさ、ちょっとくらいの不便は許容するつもりだよ」

「信頼、関係……」

 私が両親以外には築けなかったもの。竜胆さんのことを、私は……信じきれるだろうか。

「そう、せめてこの人となら一緒にいてもいいかなって許容してもらえるくらいには、ね」

「……竜胆さんは、私のこと、信じているんですか? 会ったばかりの、全然知らない私の言ったことを?」

「そうだね……確かに全部を無条件で信じているとは言わないよ。でも優奈ちゃんが話してくれたことが嘘だとは思ってない」

「どうして、ですか?」

「これでも優奈ちゃんよりは長く生きてるから、ある程度なら嘘とかはわかるよ。それに昨日優奈ちゃんが過去を語ってた時の表情や口調……そこに含まれてた辛さや苦しみは……実際に見たことあるからさ、嘘じゃないってわかるんだ」

 実際に見たことがある。

 それが誰のことを指しているのか、すぐにわかってしまった。

「……ごめんなさい、馬鹿な質問してしまって。私、疲れてるみたいです。……竜胆さんのお言葉に甘えても、いいですか」

「うん、ゆっくりお休み」

 行ってくるねと、短く竜胆さんは言い。

 いってらっしゃいと、私は彼を見送った。


 竜胆さんが出かけてから私は一人きりの食卓で朝食を食べ終えた。いつも一人で食べていたのに、今のこの状況がどこか寂しく感じられる。

 その後三十分ほどしてから、私はベッドに入った。カーテンを閉めると遮光性が高いお陰で日の光はほとんどなくなり、部屋は夜と変わらないくらいの暗さになった。

 目を瞑ると感じるのは沈み込んでしまいそうな枕の心地よさと、私を包んでくれる温かな布団の柔らかさ。あの家のものとは比べ物にならないくらいに気持ちがいい。

「…………」

 目を閉じた時点で意識はほとんど薄れていたけど、竜胆さんが言ってくれた言葉が次々に思い起こされる。


 頼っていいし、甘えていい。

 無理はしないでほしい。

 互いに信頼関係を築きたい。


 そう言った時のあの人の態度も眼差しも口調も真摯そのもので。

 私に対しての気遣いも本物で。

「……一方通行じゃ、ダメ、だよね」

 竜胆さんから私への信頼だけではなく。

 私から竜胆さんへの信頼が必要なのだ。


 私は——彼を信じたい。

 私に優しくしてくれる竜胆さんを信じたいから、信じる。

 そう決めて大きく息を吐いた。

 満腹感に初夏の暑くも寒くもない気温、そして相当の寝不足故に、私はすぐに眠ってしまった。


 次に目を覚ました時、時計は午後四時を指していた。約七時間ほどの睡眠。昼寝にしては長い時間。

 寝る前とは比べ物にならないくらい気分がすっきりしているのを感じる。これほどの快眠はいつ振りだろう。すっきりしたのは寝具が変わったせい? それとも……信じるって、決めたからだろうか。

 カーテンを開けるとまだ強い日の光が街を西から照らしている。

「……よしっ」

 大きく深呼吸して気合いを入れた。

 少し汗を掻いていたのでシャワーを借りて、ついでに浴槽も洗っておいた。

 それでも時刻はまだ四時半。竜胆さんが帰るまで一時間以上ある。それだけあるなら十分だ。

 私は冷蔵庫を開けて中を物色した。昨晩色々買ったから材料は沢山ある。私は目についた食材をいくつか取り出して支度を始めた。

「うん、これだけあればいいかな」

 料理は私の数少ない得意分野だ。小さい頃から自分で作るしかなかったから覚えざるをえなかった。あの環境はとても嫌で今でも不快に思ってるけど、それでも今だけは料理が作れるようになったことに感謝だ。こうして竜胆さんに作ってあげられるのだから。

「まずは包丁を見つけないと……」

 私は勝手が違うキッチンにちょっと苦戦しつつ夕食を作り始めたのだった。


「ちょっと作るの早かったかな……」

 出来上がった品をお皿に盛って、食卓に並べて早十分。竜胆さんが帰ると言った六時までまだ二十分ほど余裕があった。あと一品足そうかとも考えたが作った量や時間を考えると微妙な時間だった。まだ二回しか見たことないから断言出来ないけど、竜胆さんはそこまで沢山は食べないみたいだし……。

 私は彼が帰ってくるまでリビングにして置いてある本を眺めることにした。

 昨日も思ったがやはり凄い量の本だ。

 食卓用のテーブルと椅子以外には本棚くらいしか見当たらない。その本棚ですら満杯で収納しきれてないというから驚きだ。足元にも積み重ねられた雑誌や漫画の山がいくつかあって全然纏められていない。……よく見ると壁際に一つ、二人掛けの黒いソファがあった。座るスペースが全て本に占領されていて昨日は気づかなかった。

「これはちょっと……」

 乱雑に置かれているわけではないけれど。こうもいい加減に置かれている本を見るのはちょっと心苦しい。竜胆さんは食事や掃除を私に頼むと言っていたから……この部屋も片付けることになるのかな。

「……うん、頑張ろう」

 相当な量だけど、時間は沢山あるのだ。

 私は一人気合いを入れて、これからの生活に思いを馳せた。


 私が意気込んだ数分後、玄関から音が聞こえてきた。竜胆さんが帰ってきたようだ。

「お、おかえりなさい、竜胆さん」

 ……どうしても声がつかえてしまう。あの叔父と暮らし始めてからほとんど挨拶をしてこなかったせいだ。おかしく思われなかっただろうかとちょっと不安に思いながら彼の手元を見る。

「や、ただいま」

 落ち着いた雰囲気で挨拶を返してくれる竜胆さんの手元には何冊か本が入っている紙袋があった。

「その様子だと、ちゃんと休めた感じかな」

「え、あ、はい。……私、まだ、怖いって気持ちもありますけど、それでも——竜胆さんのこと、信じたいですから。信じるって、決めましたから……!」

 私は彼に言われた通り、自分の気持ちを正直に伝えた。告白するわけでもないのにドキドキするのは、きっと緊張しているからに違いない。

「……そっか」

 竜胆さんは小さく頷いた。

「うん、わかった。でも無理はしないこと。いいね?」

「わかってます。……えっと、夕ご飯、作ったんですけど、その……」

「おや、それは嬉しいな。さっそく頂こうか。優奈ちゃんは何を作ってくれたのかな?」

「見てのお楽しみということで……」

 私はとても緊張しながら竜胆さんとリビングに移動した。


「おや……おやおや。これはこれは……とても美味しそうだね。優奈ちゃん、料理はできる方なのかな?」

 竜胆さんは食卓に並んだものを見て、少しだけ呆気にとられたような表情をした。

「い、いつもしてましたから」

「そっか。うん……期待以上かな。家でこれだけの品を食べるのは久しぶりだ」

 彼の目の前に並ぶのはトマトソースで煮込んだハンバーグとレタスなどの葉物を数種類使用したサラダ、シジミの味噌汁と白米だった。

 そこまで凝ったものは作れなかったけれど、私なりに頑張って作り上げたものだ。

「お口に合うといいんですけど……」

 正直不安だ。誰かの為に作るなんて初めてで。

 好みがわからなかったので味の調整は私好みにしてあるから、彼の好みとは合わないかもしれない。

「んー……少し薄味にも思えるけど美味しいね。いつもこんな感じに作ってたのかな」

 ハンバーグを一口食べ、味噌汁を啜ってしばらく味わった後、竜胆さんはそう言った。

 ……美味しいと言ってもらえた。私はほっと胸を撫で下ろした。

「そ、そうですね。……竜胆さんはも少し濃い味の方が好みですか?」

 あまり濃いのは好きじゃないのだけど……。

「どうだろ。特にこだわりとか持ってないからなぁ……優奈ちゃんが作りやすい感じでいいよ。このくらいでも十分美味しいと思うから」

 その回答はある意味一番困る……。でも作りやすくもあるからそれが救いか。

「優奈ちゃん、これらを作るのにどの程度時間かけたの?」

「大体一時間くらいでしょうか……正確には測ってないですけど」

「おお……僕なら二倍は時間かかるかも。いつもそのくらい時間かけてる?」

 二時間は流石にかけ過ぎではなかろうか。

「い、いえ、いつもはもう少し短いです。今日はその、色々探しながら作ってたので」

 ボウルとか菜箸とか探してあちこち開けたり閉めたりしてたから時間がかかっただけなのだ。

「なるほど……そこは後でなんとかしておくか。作ってもらう身で言うのもあれだけど、毎回このくらい作らなくてもいいからね? いつもそんなに時間かけてたら優奈ちゃんの時間が無くなってしまうからさ」

「わ、わかりました」

 そう言って貰えるのはありがたいけれど、せっかく食べて貰えるなら美味しいと言ってもらいたいし……難しいな。

「優奈ちゃんもいつまでも見てないで、一緒に食べようよ」

「あ、そ、そうですね。いただきます」

 自分がずっと竜胆さんを見ていたことに今更気づいた。恥ずかしくなって頬に熱を感じた。……うん。久しぶりに作ったけれど我ながら上手くできた気がする。よかった。


「……竜胆さんって、テレビとかは見ないんですか?」

 食事中、なんとなく昨日から気になっていたことを聞いてみた。

「ん? あぁ……うん、見ない。うるさいし場所とるし、それに遅いから」

「遅い……?」

 どういうことだろう。

「んー……説明しづらいんだけどね。僕は結構文字を読むのが速くてさ、テレビの字幕程度の短文なら一秒かからず読み終えちゃうんだ。僕は既に次の情報がほしい状態なのに音声はせいぜい字幕の程度までしか進んでいない。そのずれがストレスでね、嫌いなんだ」

「……なんとなくわかります。私も小さな頃、授業で教科書の音読とかをやってた時に目がどんどん先に進んでしまってて、今皆がどこを読んでいるのかわからなかったことありますから」

「僕もその状況は何度も経験したよ。まだそこら辺読んでたんだーって驚いた」

 懐かしそうに言う竜胆さん。

「後は文字だと何度も読み返せるけど、映像だと止めたり戻したりでなんていうか……良くも悪くも勝手に進んでしまうのが嫌なんだ」

「確かに……」

 私も気に入った文や知らない表現が出てきた時は何度もその部分を読み返すから、その気持ちもわかる気がする。

「それにテレビは笑い声や演出とかで音が時々大きくなることがあるでしょ? あれも嫌い。だから僕はテレビは買わないんだ」

「そうなんですね……納得しました。私も竜胆さんと似たようなこと、思ったことあるので気持ちはわかります」

 私の場合は人の笑い声が嫌というのが正しいのだけど。まるで私が笑われているように捉えてしまうことがあって、そうじゃないと分かっていても嫌な気分になってしまうのだ。

「そっか。僕はてっきりテレビを買ってほしいと言われるのかと思って内心ビクビクしてたよ」

「あはは……言いませんから安心して下さい」

 欲しいとは思っていなかったし服や靴、部屋まで用意してもらったのにこれ以上望むなんてこと、流石に高望みし過ぎだ。

「ちなみに天気予報とかはどうしてるんですか? 新聞もとってないみたいですし……」

「インターネットで全部済ませているよ。そっちの方が知りたい時にすぐ確認できるからね。……優奈ちゃんもパソコンとか持っておいた方がいいのかな」

「え? えっと……私、あまりパソコンとか機械って得意でないので、いいですよ。今まで携帯電話も持ったことないですし」

「そっか……でもその内必要になるかもしれないし、後で考えておくか」

 自分に言い聞かせるようにして、竜胆さんは呟いた。

「……そうだ。出かける前、ちょっと気になったんだけど」

「な、なんでしょう?」

 竜胆さんはふと思い出したように手を止めて私に言った。

「夕菜の呼び方のこと。優奈ちゃんは畳野さんって言い直したけれど、できればあの子のことは夕菜って呼んでほしい。夕菜は自分の苗字が好きではなかったから、畳野さんって呼ばれ方は嫌がるんだ」

「そう、なんですか……分かりました。じゃあ、『夕菜さん』とお呼びします」

「うん、お願い」

 そう言えば昨日も似たようなことを竜胆さんが言っていた気がする。自分の苗字が好きではない、という感覚は私にはないけれど、人が嫌がることはしたくない。例えその人が既に亡くなっていたとしても。

 私は竜胆さんの言葉に頷いた。

 その後も竜胆さんと少し話をしながら、私は夕食を終えたのだった。


 夕食を終え、入浴も終えた私たちはリビングで再び話し合っていた。と言っても深刻な何かを議論していた訳ではなく、互いが今までにどのような本を読んできたかを語っていただけだ。

 私は人と話すのは苦手だし、自分のことについて話すのもできれば避けたいと思ってる。なので私自身のことではなく、私が触れてきた物語についての話をその晩はしていた。

 私や竜胆さんがどのような本を読んでどのような感想を抱いたか。

 お互い知っている本については意見が似通う時も多かったし、ほんの短い一文についての感想が真逆の時もあった。竜胆さんは私が知らない本を沢山読んでいて、家の中にある現物を実際に見せてくれながらどのような話なのかをネタバレしない程度に教えてくれた。

 昨日は文学作品はあまり読まないと言っていたが、私と同い年かちょっと幼い頃にはそれなりに読んでいたみたい。私が読むのが好きと言ったのを覚えていてくれたのか、恋愛物や推理物もいくつか教えてくれた。

 竜胆さんが愛読しているという科学雑誌もいくつか見せてもらった。日本語訳もあるらしいのだが、竜胆さんが読んでいるのは英語版だった。細かい文字でびっしりと書かれた専門用語の数々に何を示しているのかもよくわからない実験結果やイラスト。竜胆さんが概要を翻訳してくれたからかろうじて理解のとっかかりを掴めたが、そうでなければ難しくて読もうとも思わなかったかもしれない。……こうしてみると学校で習う英語と、世界に向けて公表される論文に書かれている英語はなんというか……毛色が違う感じがする。もちろん文法や単語の意味は重要なのだが、書いている人の癖なのか説明する事象の複雑さ故か、接続詞や関係代名詞が何度も出てきて一文がかなり長い。十行近く続く一文など読み終えた時は主語が何か忘れていたくらいだ。

「……竜胆さんは英語ができる方なんですか?」

「んー……読むだけならこのくらいは辞書無しでも大丈夫だけど他はダメダメ。聞くのも話すのも書くのも、そういう経験が圧倒的に足りないから」

「そうなんですか?」

「うん。やっぱり言語の習得っていうのは、経験がかなり重要だから。せいぜいが中高の授業程度の僕じゃ、活用は出来ないよ。読めるのもやっぱり経験があるからだと思う。それもこういう科学雑誌に載るような……ある程度読みやすい英文に限るけどね」

「よ、読みやすいですか?」

 これが? 私にはかなり難しくて集中してなければ眠ってしまいそうなのに。

「うん。少なくともこの雑誌にはほとんど比喩とか出てこないし、テーマが同じだと似た表現や説明も多いから。多分これが英語で書かれた物語とかだと苦戦すると思うよ。擬音語とか人への形容詞とか、僕は全然知らないからね」

 竜胆さんは複数の論文を指差した。どうやら遺伝子に関する記述の様で、確かに同じ単語がいくつか見受けられる。決まり文句、なのだろうか。

「まぁ、無理に読めとは言わないから。優奈ちゃんが読みたいと思ったものを読んでいくのが一番だよ」

 パタン、と雑誌を閉じて竜胆さんが言う。

 そろそろ寝るね、と小さく呟いて彼は席を立った。

 私はお休みなさいと今度はつっかえずに言えて。

 竜胆さんもお休みと返してくれて。

 その晩の会話は静かに終わりを迎えた。



 私はいくつかリビングの本を流し読みした後、自室へと足を運んだ。

 中々に着心地がいいパジャマに着替えてベッドに入る。竜胆さんに対して抱いていた不安が大分薄れたからか、眠ることに怯えはなかった。

 目を瞑るとほとんど無音の暗闇が辺りを包む。規則的に聞こえてくる自分の呼吸音と心音を感じながら、私は今日一日の出来事を振り返った。


 素直に思いを口にしていいと言われたこと。

 竜胆さんを信じたいと思った、自分自身を信じると決めたこと。

 そして夕食後にしてくれた、沢山のお話。


 今までの辛いとしか思えなかった日々では味わえなかった、幾つもの新鮮な出来事が浮かんでくる。

 竜胆さんに出会えた昨日も。

 竜胆さんと過ごせた今日も。

 いい日であったに違いない。

「……明日もいい日になりますように」

 心地よい温もりの中、私は一人呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る