二章・疑心
熱いシャワーが肌を伝っていく。汗が流されていく感覚と床を叩く水音が心地よかった。
少し広めの風呂場はお湯から出た湯気によって温められ、鏡は少し曇っていた。
「…………」
私は鏡にシャワーをかけ、そこに映る自身を見る。
目元に少し隈があるあまり生気の無い顔。
ちょっとだけ自慢のお母さんに似た長い黒髪。
手のひらから少しはみ出るくらいの大きさに膨らんだ乳房。
叔父からの暴力でできたお腹の青痣。
紛れもない、私だ。舞園優奈だ。
今朝まで自殺することすら考えていたのに、今は初めて会った男の人の家でシャワーを浴びている。
世の中何が起きるかわからない、なんて状況が自分に起きるなんて思っていなかったけれど。でもこうして鏡に写る自分を見て、ここにいる私が現実だと知る。
「…………いい人、なんだよね?」
誰も聞いていないとわかっていながら、私は一人呟いた。
竜胆さんは泥のついた服を着替えてから私を脱衣所に案内し、着替えを置いてから私を一人家に残して買い物に出掛けてしまった。
自宅を見ず知らずの私だけの状況にするなんて、少し不用心にも思えるけれど。このマンションは防犯カメラがいくつかあったから、仮に私が窃盗とか逃亡とかしても追いつけるとか考えているのだろうか。それとも、私がそういうことをしないと信じてくれているのだろうか。
……後者だと、いいな。
「信じて、いいんだよね……?」
先日たまたま聞いたニュースが脳裏を過ぎる。家出した少女に言葉巧みに擦り寄って自宅に連れ込み、乱暴しその後殺害したという男性が逮捕された事件。
竜胆さんがあれと同じ様な卑劣な人だとは思えない。思いたくもない。
私の境遇を聞いてくれて、真摯に向き合ってくれた人。
頼っていいと、迷惑をかけてもいいと言ってくれた人。
「嘘じゃ、ないよね?」
竜胆さんが今日あの橋に来た理由は。
今日が畳野夕菜という少女の命日という話は。
「嘘なんかじゃ……ない、よね……?」
湯気がたつほどに熱いシャワーを浴びているのに、身体が震えてしまう。
竜胆さんのことを信じたいのに、どこか信じきれない私がいる——そのことがとても怖くて、そして酷く悲しかった。
「あれ、優奈ちゃんまだシャワー浴びてる?」
と、その時脱衣所の方から竜胆さんの声が聞こえてきた。
「えっ、あっ、すぐに上がりますから!」
いつの間にか帰ってきていたようだ。水音のせいか考えこんでいたせいか、声をかけられるまで全然気づかなかった。
「別に急がなくていいよー。僕は食事の準備してるから」
その台詞の後にパタンとドアを閉める音がした。僅かにだが遠ざかっていく足音が聞こえた。脱衣所で待ち伏せ、なんてことはないみたいだ。
「……大丈夫。竜胆さんはあの人達とは違うんだから」
これまでに見てきた人たちとは全然雰囲気が違う。
落ち着いた物腰もこちらを気遣ってくれる態度も。
『そっか。じゃあこれからよろしくね』
あの時差し出された手の感覚は、嘘なんかじゃない。
「そろそろ上がらなくちゃ。あまり待たせるのも悪いよね」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は風呂場を後にした。
脱衣所に出ると目の前にバスタオルが置かれており、その横に着替えが丁寧に畳まれていた。洗面台にはドライヤーとブラシが置いてある。こういった些細な気遣いができるのも大人だから、なのだろうか。
「あれ?」
タオルで身体を拭いている時に、私は着替えの上に小さな紙が置いてあることに気がついた。何だろうと思い、手に取ってみる。
“優奈ちゃんへ
後で買いに行くけれどそれまでは僕の服で我慢して下さい。
下着についてですが、夕菜の部屋に未開封の物があったので一応持ってきました。サイズが合わないかもしれないけれど、それでも無いよりはましと思う場合は使って下さい。
竜胆秋夜”
ペンで書かれた丁寧で読みやすい字。
「……」
書かれた内容よりも、私は最後に添えられた彼の名前に目を奪われていた。
「竜胆、秋夜さん……。あの人の名前」
名前を教えてもらった時に字も聞いていたが、こうして文字で見るのは初めてだった。
指先でそっと彼の名前をなぞってから、私は手紙を置いた。
用意された下着は確かに少し小さかったが、履けないことはなかったのでありがたく使わせてもらった。上は……これはちょっと着けられないかな。仕方ないのでさっきまで着けていたものを使用する。少々我慢だ。
ゆったりとした長袖のシャツに青色のジーンズ。袖も裾もちょっと私には長いのでめくって合わせる。傍に鏡があったのでおかしな箇所がないか確認してみる。男の人の服は初めて着るしちょっと合ってないようにも見えるけど……多分大丈夫、だよね?
ドライヤーで髪を十分に乾かしてから、私は脱衣所を出た。
廊下に出て左右を見ると、右側に隙間から光が漏れているドアが見えた。かちゃり、と無機質な音を立ててドアを開け、中を覗く。どうやらリビングの様だ。
「竜胆さん?」
中では竜胆さんが静かに雑誌を読んでいた。コンビニで買ってきたお弁当はテーブルに置かれているが、手をつけた形跡は見当たらない。
「もしかして待たせてしまいましたか? ごめんなさい遅くなって……」
「僕が待ってただけだから気にしなくていいよ。チャーハンとそぼろ弁当を買ってきたんだけど、どっちを食べる?」
二つともレンジで温められて間もないのか、蓋が少しだけ膨らんでいた。
「えっと、私はどちらでも——」
言ってから、自分がやらかした事を悟った。せっかく聞いてくれたのに、その厚意を無碍にしてしまった。申し訳なく思いながら竜胆さんの顔色を伺う。
「ん、わかった。じゃあ僕がそぼろ弁当を頂くよ。飲み物はどうする? 牛乳とかお茶は冷蔵庫にあるし、ココアとか紅茶とかお湯を使うものなら沸かすけれど」
竜胆さんは特に変わった様子は見せずに話を続けてくれた。
「じゃあ……ココア、お願いします」
何かを決めるのが苦手な私にとって、テキパキと決めて次に進めてくれる竜胆さんの態度はありがたくて。それ故申し訳なさも強く感じていた。
「わかった。立ってないで座ってて、すぐに用意するからさ」
「あ、はい」
触り心地のいい丸みのある木の椅子を引いて私は席に着いた。
部屋をぐるっと見回してみると、壁際は殆ど本棚だった。いくつもあるの既に本や雑誌、漫画で満杯で床に積まれているものも多数ある。興味を惹かれるタイトルも数多くあり、思わず手が伸びそうになってしまった。
昔「本棚を見せてくれたら君の全てを言い当てよう」みたいなことを言ったのは誰だったか。もしその人がこの部屋を見たら竜胆さんを何と言うのだろう。
よく見ると本以外のものがほとんどない。テレビもラジオもちょっとした小物も。せいぜいティッシュとか何かの書類らしきバインダー程度だ。竜胆さんの部屋には何かあったりするのだろうか?
「お待たせ。ココアにミルクは入れるかい?」
コトンと音を立てることもなくカップを置いて、竜胆さんが私の前に腰かけた。
「え、あ、いいです、そのままで……」
「何か読んでみたくなるような物でもあったかな?」
少し楽しそうに笑いながら、竜胆さんが言う。……どうやら私が色々と眺めていたのはお見通しのようだ。
「た、沢山あって迷っちゃいました」
「そっか、それはよかった。時間ができた時にでも読んでみるといいよ。この部屋にある物なら部屋に持っていってもいいから」
「あ、ありがとうございます……」
「まぁ本を見るのは後にして、まずは食事にしようか」
二人で手を合わせて頂きますと口にする。
竜胆さんのいれてくれたココアの温度が指先からじんわりと伝わってくる。少し熱めだったけどとても美味しい。
テレビなどの音を出すものが無いため、私たちがたてる僅かな音がリビングに響いては消えていった。
「竜胆さんは……普段はどんな本を読むんですか?」
静寂の中、私はちょっと勇気を出して聞いてみた。
「難しい質問だね……本と言っていいかわからないけど、『Natural』っていう科学雑誌はよく読んでるよ。読んでて楽しい実験とか載ってたりするからね。後は漫画かな。文学作品は最近はそこまで読まない感じ。優奈ちゃんはどうなのかな? この中に興味を惹かれるようなものがあったらしいけど」
竜胆さんは食べる手を止めて悩んでから、しっかりと答えてくれた。
「えっと、私は恋愛小説とか推理小説が好きで、その中で出てきた単語とかでわからないものがあったら調べるってことをよくしてます。竜胆さんの後ろにある『夢の続き』シリーズとかも読んだことあって……図書館で予約してたんですけど中々順番が回って来なくって。その、竜胆さんも読んでいるんだってわかった時、ちょっと嬉しくなっちゃいました」
好きな本の話だからか言葉はすらすらと出てきてくれた。
「この作家の他の作品は読んだことある?」
竜胆さんがその本を指差しながら聞いてきた。私は記憶を掘り起こして本のタイトルを思い出す。
「えっと……前に『死にゆく蝶と夏の雪』を読んでみたんですけど、抽象的な表現が多くて当時の私には理解できませんでした……他だと『あいゆえに』でしょうか。こっちは結末は寂しいですけど、それまでの過程が表現豊かに書かれてて、色んな言葉を知ってる人なんだなって思ったのを覚えてます」
人と話すのは苦手なのにこんなに話せるのは、きっと私自身のことではないのが理由だろう。その時の感想がすらすらと出てくるのは中々に印象深い作品が多かったからか。
「あの人は色々なジャンルに挑戦してるからね。特に初期は哲学とかも取り込んでたみたいだし。どちらも……うちの何処かにあるはずだから、読みたくなったら探してみて」
ちょっと辺りを見渡す竜胆さん。話に出てきた本がどこにあるのかはわからなかったようだ。まぁ……ジャンル分けされてるわけでもないみたいだし(シリーズものなのに番号が飛び飛びで仕舞われてる)、覚えていない限り目当ての本を見つけるのは至難の業だろう。
「……これは僕の経験談なんだけど、当時はよくわからなかったって本を数年後に読んでみると案外面白かったりするよ。成長してたり新しい知識を身につけたりしてることがあるからさ」
逆もまた然りだけど。そう言った後、竜胆さんは少しだけだけど笑った気がした。
「……どうかしましたか?」
「ん? ……あぁ、優奈ちゃんは本の事が好きで、夢中になれるんだってわかったからさ、ちょっと安心しただけだよ」
「……?」
どういうことだろう。確かに私は本が好きだけれども、それが竜胆さんの安心に繋がるとは思えない。
「気を悪くしたらごめんね。僕は……今までに夕菜を入れて三人、自殺した人と関わっていたからさ。ちょっと心配だったんだ。あの子達は死んでしまう少し前から、それまで好きだった事にさえ夢中になれないくらい弱っていたから。優奈ちゃんもそうなんじゃないかって。でも会ったばかりの僕にそこまでハキハキと好きな事を語れるならまだ大丈夫だろうって思ってね」
「…………」
どう答えていいか分からず、私は口を閉ざす。
私は……友達がいないからわからないけど、知人が亡くなるというのはとても悲しいのだと思う。お母さん達が事故死した当時、まだ私は幼かったけれど二度と会えなくなったとわかった時はわんわん泣いたのを覚えている。
「続けてても明るくならないし、この話はこれでお終い。食べ終わったみたいだし、早速だけど出かけようか」
パン、と手を打って竜胆さんは立ち上がった。
「片付けはさっとやっておくから、優奈ちゃんはお手洗いとか出かける準備をしておいて」
「わかり、ました……」
お腹はいっぱいなのに気分はどこか陰鬱なまま私は席を立った。
言われた通りにお手洗いをお借りして、私は出かける準備をし始めた。
「……浮かない顔してる様に見えるけど、どうかしたの?」
買い物へ向かう途中の車の中で、竜胆さんは静かに問いかけてきた。
「その……」
私は悩んでいたことを口にしようか一瞬考えた。服の選び方がわからない、なんて言われたら竜胆さんはどう思うのだろう。
「……優奈ちゃんが言いたくないことなら無理に聞く気はないけれど、困ってたりするなら相談してほしいかな」
そう言ってくれる彼をちらりと横目で見る。運転中だから当然だけど私のことは見ていない。けれど私への気遣いが感じられる優しい口調。
この人なら……おかしな事を言っても、笑わないで真面目に取り合ってくれるのだろうか。私は意を決して、悩んでいたことを打ち明けた。
「その……私、ほとんど服とか買ったことなくて。どういうの選べばいいのか、わからなくて……」
「そうなんだ。んー……売ってるものを見て、着てみたいなって思えるものがあればそれを買えばいいんじゃないかな。お店の人に聞くのも有りだし」
竜胆さんは笑うことも呆れることもなく、すぐに意見を出してくれた。けれど私にはその感覚がよくわからないし、店員さんと話すのも苦手だ。意見がないから、説明が出来ないのだ。
「そういうものでしょうか……」
「特にこだわりがないなら好きな色かどうか、とかでもいいと思う。似合う似合わないなんて所詮他人の評価だし。……難しいようならいくつか僕が選ぼうか? センスとかは保証できないけど」
「……いいんですか?」
「うん。夕菜の服なら何度か選んだことあるし。……結構ダメ出しも多かったけど」
「……じゃあ、その、お願いします」
どんな服を選んでくれるのだろうと、不安が半分、期待が半分だった。
「ん、了解。なるべく優奈ちゃんの好みに合わせたいから、いくつか質問させてもらえる?」
「え、あ、はい」
好みに合わせたい、なんて言葉が自然と出てくるあたり、やっぱり竜胆さんは優しい人……なのかな。
「じゃあ……スカートとズボンならどちらを履く?」
「スカートで、長めのものです。短いのは、ちょっと……」
「ん、じゃあ次。柄について。色々ついてるのとシンプルに無地なのだと?」
「どちらかと言えば無地、でしょうか」
「ワンピースみたいに上下繋がっているデザインと、そうでないのなら?」
「……ワンピース、着たことないので」
「一着くらい買ってみる?」
「い、いいのがあれば」
「ん、了解……」
その後もショッピングモールに到着するまで、私は竜胆さんの問いに答え続けた。
男の人は買いたいものを決めてから買いに行くと、昔何かで読んだことがある。お店に行って、求めるものがなかったらそこで終わりにするから、買い物にかかる時間が短いのだとか。
それを最初に読んだ時、そういうものなのだろうかと疑問に思ったことを覚えている。私は……あまり買い物しなかったけれど、本屋さんとかに行ったときはどれを買おうか色々眺めて回るのは好きだし、いくつかに候補を絞って悩むのも結構好き。竜胆さんと買い物に行くことになった時、私はあの文が本当なのか確認できるのかなとちょっと期待した。
そして——少なくとも竜胆さんに関しては本当だった。
多分質問してる時に大体頭の中で決めていたのだと思うけど、竜胆さんは入店してからカゴを取ったと思ったら次々に洋服を手に取っては中に入れた。そして入店して五分程度で私の前にはいくつもの服が用意された。
「んー……とりあえずイメージに近い物をいくつか選んでみたから、試着してみてくれる? ウエストがきついとか袖が長いとか、着てみて色々わかることもあるだろうし」
「わ、分かりました……」
その決断の速さに若干驚きつつ私はカゴを持って試着室に入る。数えてみると上下合わせて八着も入っていた。
手始めに一番上に置かれていた黒色のワンピースを手にとって試着する。露出はほとんどなく、手首のあたりに控えめなカフスが付いている。腰のあたりに紐が付いていて、そこを絞めることでスカート部分がふわっとし過ぎない様にできる……のかな? 首元も余裕があるし、動きやすい。膝下まであるスカートの裏地が足に擦れる感覚も心地よい。
鏡でおかしな箇所がないかを確認してから、私はカーテンをそっと開けて外を見た。竜胆さんは試着室から少し離れたところに座っていたけれど、私が顔を出していることに気がついたのかすぐに来てくれた。
「どんな感じかな?」
「ど、どうでしょう……? 個人的には動きやすいですし、丈も長くていいと思うのですが」
「おや……可愛らしくていい感じかな。袖の部分もきついとかはない?」
「はい。この生地、結構伸縮性があるので、腕を曲げたりしても全然苦しくないです」
試しに腕を曲げて竜胆さんに見せてみる。
「……優奈ちゃん結構腕細いね」
「そこじゃないです」
思わず突っ込んでしまった。
「ごめんごめん。まぁ、問題ないならいいかな。毎回僕に見せなくても大丈夫だから、優奈ちゃんが着てみて買うかどうかぱっと決めてもらえる?」
「そうですか……?」
「うん。この後靴とか下着とかも買う予定だから。閉店まであと一時間くらいあるけど、色々眺めていると結構あっという間に時間経ってしまうからね。ごめんね、余裕がない買い物で」
「い、いえ。分かりました。すぐに決めますから」
私は試着室のカーテンを閉めて、着ていたワンピースを脱いだ。
うん、これは買ってもらおうかな。そう決めて折り畳み床に置く。
私はその後も竜胆さんが選んでくれた服をを試着して、デザインや着心地に問題がなければ購入してもらうことにした。いくつかは胸の辺りがきつかったりで合わなかったので可愛いデザインだったけど泣く泣く諦めた。
今回の候補で一番気に入ったのは青色のブラウスと茶色のロングスカート。どちらも軽くて触り心地がよくて、シンプルなデザインに落ち着いた雰囲気があった。
私は買う服買わない服を決め終えて試着室を出た。竜胆さんがどこから服を持ってきていたのかは覚えていたので、竜胆さんに会計を任せて私は服を元の場所に戻していった。
その後も私たちはいくつかの店を回ってこれからの生活で必要になるものを購入していった。試着が必要な下着や靴を選ぶのに結構時間がかかったけれど、竜胆さんは一切急かすことなく待っててくれた。
『身体に合わせるものは使ってみないとわからないから』と言ってくれる彼を見てるとやっぱり優しいと感じる。
そんな思いを感じながら、私は竜胆さんとの買い物を終えたのだった。
買い物を終えて帰宅すると竜胆さんは小さくあくびをした。
「優奈ちゃん、悪いけど家の案内は明日でいいかな。今日は色々あったから少し眠くてね。えっと……お客さん用の部屋を優奈ちゃんの部屋にするからそこを使ってもらえるかな」
とある扉をかちゃりと開け、竜胆さんが明かりをつけた。中にはシックな雰囲気のベッドや横になれるくらいのソファなどが置かれていた。
「お客さん用って私が使ってもいいんですか?」
不安になって彼に訊ねると、
「ほとんど使ってないし、滅多に泊まる人も居ないから大丈夫だよ。一応言っておくとちゃんとシーツとかは都度洗ってあるから」
そんな答えがあっさり返ってきた。
「……わかりました、ありがとうございます」
荷物を床に置いて私はぐるっと部屋を一周してみた。私の部屋……というのは嫌だけれども、叔父の家にあった部屋よりも相当広い。お客さん用ということもあって家具はあまりない。一人用のテーブルと椅子、ソファとベッド、あとは枕元の台座くらいか。台座の上には複雑な形をしたランプが備え付けられている。
「僕はシャワー浴びたらそのまま寝るから。さっき言った通り本は好きに持っていっていいから、寝付けなかったら色々読んでみて」
「ありがとうございます……えっと明日は……」
「広い訳じゃないけどこの家の案内と、後は今日買えなかったものの買い出しかな。別に急ぎではないから……朝食は八時半くらいにしようかな。お腹空いてたら先に食べてていいよ。冷蔵庫に色々入れてあるから好きに使って。それから……さっきパジャマも買っておいたから、よければ使って。おやすみ」
竜胆さんは小さく手を振ってからパタンと扉を閉めた。
「あ……お、おやすみなさい……」
就寝の挨拶をするのはいつぶりだろう。もしかしたら数年ぶりかもしれない。その為か反応が遅れてしまった。
おやすみ。
そんな短い、さりげない挨拶なのに。
特別でもなんでもない言葉をかけられたことが妙に嬉しいのは、なんでだろう。
「私も、もう寝よう」
普段の就寝時刻よりは少し早いけれど。
買ってきた服とかの整理は明日やろう。
竜胆さんほどではないかもしれないけど、今日は私にとっても色々あった。
何もかもに疲れて自殺しようとしたのに出来なくて。
竜胆さんに会って、色々聞いてもらって、誘われて、一緒に暮らすことになって。
……ありきたりな言葉だけど、一生忘れられない日になると思う。
そんなことを考えながら、私はいつの間にか買ってあったパジャマに着替えて、電気を消してベッドに入った。タオルケットも枕もとてもふかふかしてて柔らかく、沈み込む感覚が心地良かった。
……暗い部屋の中、自分の呼吸音以外には何も聞こえない。まだそんなに時間は経ってないから竜胆さんがシャワーを浴びていると思うけど、その音はまるで聞こえてこない。防音性が高いのかもしれない。
ぼーっとしてると今日あった出来事が途切れ途切れに思い出される。足元を流れる濁流、声をかけられた時の驚き、そして——差し出された手の温かさ。
「……おやすみなさい」
鮮明に思い出せるその感覚を噛み締めながら、私は小さく呟いて目を閉じた。
……眠れない。
もう一時間はこうしているだろうか。
山登りとかしたから疲れているはずなのに、実際に疲れも感じているのに眠れない。妙に目が覚めてしまう。体勢を変えてみたり一度お手洗いに行ってみたりしたけど、やはり眠れなかった。
眠気はあるのに眠れない。
「……まだ、信じきれてないのかな」
眠ることに……意識を手放すことにほんの小さな恐怖が湧き出て拭えない。
たった数メートル先、扉一つ隔てただけの空間に男の人がいる。前の家でもそうだったけどあの叔父が家にいる時、私はあまり寝付けなかった。手を出してきたりはしなかったけれど私に全く配慮してくれないあの人が近くにいるだけでどこか不安を感じてた。
竜胆さんはあの人とは全然違う雰囲気だけど、やはり男の人だ。もし力比べになったら私では勝てないだろう。……不意に今日山を下りている途中で偶然触ってしまった、彼の身体の感触を思い出してしまった。見かけは細いけれど私とは違って引き締まった筋肉がついていた。少し硬くて自分のお腹とは別の感触は彼が男性であると意識するには十分だった。
「いつまでもこのままじゃ、だめだよね……」
変わりたいと思った自分。
私一人では決して実現出来なかった生き方。
そしてそれに協力してくれた彼。
「頑張らないと、だめだよね」
私は一人呟いて目を閉じる。
胸に不安と希望を抱えながら、私は長い夜を過ごした。
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