「ゆうな」という少女の物語

どんぐり@猫派

一章・邂逅

 連日降り続いた長雨は午前中にようやく止んだ。しかし夕暮れになった今でも足元の木製の橋は水が染み込んだためか、いつもよりも黒くなっていた。せいぜい二人が横に並べるくらいの幅に、170センチメートル程度の高さしかないワイヤーで出来た心細い手摺。何年も強風に煽られてきたためか所々が痛んでギシギシと不安な音を立てる。数年前にできた鉄道とトンネルの為、人々はこの橋を忘却の彼方に追いやった。年に十人か通れば多い方という寂しい場所。

 そんな橋の上に一人の少女が立っていた。

 彼女は欄干の外側に立ち、数十メートル下の濁流をずっと眺めていた。不安定な所に立つ足も、手摺を後ろ手に掴む手も僅かに震えている。

 もう何分もの間、彼女は何も言わずただ眼下に広がる風景を眺めていた。あと一歩前に踏み出せば、いや手摺から手を離すだけでも彼女の身体は重力に従って轟音を立てる川に飲み込まれるだろう。

 その顔に浮かぶ表情は疲労と諦観、そして無念。

 様々な事に疲れてしまい命を絶とうとして——最後の勇気が出せず、何度も覚悟を決めようとして、できなかった。死にたくないという恐怖が彼女を押しとどめていた。

 ……そんな少女から少し離れた場所に、一人の青年が立っていた。彼の視界には今にも自殺しようとしている少女の姿があった。しかし青年は彼女の姿を見ても特に驚いた様子は無く、ただ淡々と少女を見ていた。

 初めの内はすぐに飛び降りてしまうだろうと、ならば邪魔はしない方がいいだろうと身を隠していたのだが、しばらく経っても飛び降りる気配が無いので彼は不思議に思っていた。そのまま密かに少女を見ていると、彼女が何度も躊躇していることに気が付いた。

 両手を離そうとしては頭を振り、足を出そうとしては引っ込める。

「…………」

 そんな少女の様子を見て、青年は自然と少女に近づき始めた。

 渓谷を吹き抜ける突風のせいか足元を流れる濁流の音のせいか、それとも極度に緊張していたためか、少女は橋を渡ってくる青年に気づかなかった。やがて少女と青年の距離が3メートルほどになった頃、青年は少女に話しかけた。

「……飛び降りないのかい? そこからずっと下を見るのは中々の恐怖だと思うけど」

「え……」

 誰かに声をかけられるとは思ってもみなかったのだろう。

 少女は驚愕の表情を浮かべて振り向き、自分に声をかけてかけてきた青年の姿を目に捉えた。突然のことでも手を離さなかったのは、少女が無意識にワイヤーを握りしめていたからだろう。

「君が死にたいと言うなら止めないさ。死にたいのに飛べないと言うならその背中を押してあげてもいい。でも……もしも君に少しでも生きたいと思う気持ちがあるのなら。こちらに来て少し話さないかい」

「……突き落としてもいいって言いますけど、それ殺人になりますよ?」

 自分を殺してあげてもいい、なんて物騒な台詞を吐く青年に対して少女は怒気を含めた口調で答えた。

「それもまた人生だよ。大したことの無い僕の人生を棒に振って、一人の死にたがりを死なせてあげるのも、ね」

「私は——好きで死にたいわけじゃないです!」

 その時、少女の思いが爆発した。

 今にも食ってかからんと言わんばかりの形相で少女は青年を睨みつけながら叫ぶ。

「死にたいわけないじゃないですか! 死にたい、わけ……もう嫌なんです。叔父に怯えるのも、学校で一人でいるのも、変えようと努力しても——何一つ変えられない自分にも……!」

 だけどその表情はすぐに崩れ、涙が風に吹かれて消えていった。嗚咽を漏らす少女を前にして、青年は言う。

「……僕でよければ話を聞かせてもらえないかな。僕は君のことを何も知らないしわからないけど、だからこそ言える事もあると思うよ」

「話したからって、何か変わるんですか……?」

 少女は諦めながら、顔も上げずに小さな声で訊ねる。

「何も変わらないかもしれない。必ず変わるなんて保証は出来ない。でも、何かが変わるかもしれないよ。例えば……君の死亡時刻とかね。この話している間にも、一分一秒と時は進むからね」

「……変な人」

 そんな青年のどこか無責任な物言いに、少女は何故か自分が笑っていることに気がついた。

「私の話……聞いてくれますか」

「うん、聞かせてくれる? でもその前に……こちら側に来てくれないかな。話し相手がいつ消えるともわからない状況は流石に不安だからね」

 青年は少女に手を差し出しながらそう言った。


 少女と青年は橋を引き返し大きな木の根元に座っていた。雨上がりなので足元は酷く泥濘んでいたが、少女は何も言わずに座り込んでしまった。

 つい先程まで自殺を考えてしまうくらい追い込まれていたのだ。服が汚れるといった些細な事にさえ気を配れないほどに疲弊していたのだろう。

 体操座りをする少女の隣に、少し間を空けて青年も座った。

 少女は顔を伏せたまま、小さくため息を吐いた。

「……何から話せばいいかわからない感じかな?」

「…………」

 青年の出した助け舟に無言で少女は頷く。

「そっか……なら僕がいくつか聞いていくから、それに答えて貰おうかな。もちろん言いたくないことは言わなくていいよ? 僕は君を困らせたい訳でも苦しめた訳でもないからさ」

 青年は穏やかな口調で前置きした。

 少女が小さく頷くのを見て、青年は話し始めた。

「そうだね……先程叔父という言葉が出てきたけど、ご両親とは別居しているの? それとも死別?」

「私が……小学校に入る前に、二人とも事故で死んでしまいました。私は遠くに住む叔父に引き取られて、他に親戚も居なくて。孤児院にも行けなくて。叔父さんはお父さんと仲が悪くて、私のことも嫌いみたいで……」

 ボソボソも聞き取りづらい声だったが、少女は自身の生い立ちを語り始めた。常々思ってきたことなのだろう、その語りは順序は時々乱れるが澱むことはなかった。

「小さな頃はお父さん達がいないことが理解出来なくてよく泣いてました。でも叔父さんに怒鳴られたり殴られたりするから、一人の時しか泣けませんでした。小学校に入って、親がいないってだけで疎外されて……お父さんがいないなんておかしいって。お母さんがいないのは変だって。どこもおかしくないのに、私は何も悪くないのに。……私、は……お父さん達に甘えることも満足に出来なかったのに……!」

 当時の事を思い出したのか、言葉から悔しさが滲み出ていた。

「……子供はそういうところがあるよね。自分とは違うから、自分の方が正しいから違っている子を悪者にしてもいいって」

 青年の言葉に、少女は強く頷いた。膝を抱える手はかなり力が込められていて、肌が白んでいた。

「……友達なんか全然出来なくて。人との距離感もわからないまま中学校に進学しました。部活動、やってみたかったけど、私はどうすればいいかわからなかったから……上手く空気を読めなくて、周りの雰囲気を壊してしまって。そんなつもりなかったのに……でも、みんなからしたら私は邪魔で。その内みんなが見てくるんです。『早くどこかに行って欲しい』『なんでまだいるの』って……」

 少女は力無く笑った。その表情は見ていて痛々しさすら覚える、諦めを含んだ乾いた笑みだった。

「実際に体験しないと、人との接し方ってわからないよね。色んな人がいて、自分に合わない人は確かにいて……仲良くなったり、ぶつかったりしながら、ちょっとずつ折り合いをつけていく方法を身につけていく。……難しいし疲れちゃうよね」

 青年は自身の過去を振り返り、自分がどのようにして人と接してきたのかを思い出していた。

「中学一年生の夏休みの頃には、もう自分の居場所なんてないんだって漠然と感じてました。私は学校の図書館に行くことが多くなりました。色んな本を読んで……空想に耽ったり新しい事を知ったりしながら過ごしました。魅力的なキャラクター達が紡ぐ物語は私に希望をくれて。先生さえも知らないような知識を教えてくれる参考書は知る喜びを教えてくれました。色んなことを本から学びながら、私は中学を過ごしました」

 まるで他人事の様に自身の過去を話す少女。その話が図書館のあたりからほんの少しだけ明るくなったことに青年は気づいた。

「……少し脱線してもいいかな? その頃に読んだ本で、まだ覚えているものとか、印象的だった本とかはあるかな?」

 青年は敢えてそれまでの流れを一度絶った。少女がどんどん落ち込んでいくのがわかったので切り替えをしたかったのと、少女が図書館の件で懐かしんでいる雰囲気を見せたので少しだけ興味が湧いたのだ。

「えっと……『死にゆく者に花束を』とか『永劫の廊下』とかでしょうか。あとは『魚屋の兵八』は何度も読み返したのを覚えてます」

「『魚屋の兵八』ってはちゃめちゃ料理漫画だったっけ? 僕も何冊か読んだことあるよ。料理と言いつつ謎の組織との戦闘が始まったりして混乱した覚えがあるなぁ」

 十年以上前の記憶を思い出しながら青年は言う。

「兵八、面白いですよね。結構古い作品ですけど、出てくる料理は美味しそうですし時々考えさせられるような話もあって……」

 それから暫くの間、青年が断片的に覚えているストーリーを振り、少女がその内容を話す時間が続いた。少女がどこか嬉しそうに話すのを見て、こういった他愛ない話をすることも今まで無かったのだろうと思うと、青年は幾ばくかの憐憫を抱いた。

「……兵八はいいですよね。将来の夢があって、それに向けて努力も出来て、一緒に歩んでくれる仲間もいて……私とは全然違う」

 久しぶりに沢山話してちょっと疲れちゃいました、と少女は誤魔化す様に笑って、小さく息を吐いた。

「あと少しで終わりますから、もう少しだけ付き合って下さい。私、高校に上がってからもあまりいい事は無くって……卒業と同時にあの家を出ようって思って、お金貯める為にいくつかアルバイトとかしてみたんですけど……それもあまり上手く出来なくて……そんな自分が自分でも嫌になりだしてて。とても落ち込んでました。

 先週のことなんですけど、学校で中間試験があって……」

 中間試験。懐かしい響きだと青年は思う。その単語自体久しぶりに聞いた。今は五月中旬だから、五月下旬に行っていた青年の頃と時期は少しだけずれていた。

「私、その、勉強だけは頑張れて、とてもいい結果を出せたんですけど……それが皆には気に入らなかったみたいで」

「気に入らなかった?」

「『高得点取れたからっていい気になるな』とか、『カンニングでもしたんじゃないか』とか……面と向かって言われると、傷つくのもそうですけど、どうすればいいかわからなくなっちゃって……。叔父は私の成績なんか興味なくて、先生はクラスで仲のいい子ばかり褒めて……承認欲求がある訳でも、高い順位になって自慢したいわけでもないですけど。ただちょっとだけ……『頑張ったね、よくできたね』って言ってくれる人さえ私にはいないんだって思うと、もう何もしたく無くなって……」

「それでここに来たんだ? 何もかもを終わらせる為に」

 青年の問いに、少女は辛そうに頷く。

「そっか……」

 青年は聞いた話を頭の中でまとめていた。

 自分とは違う環境の中で過ごしてきた彼女が、どの様な思いで生きてきたのか。そして今日ここに来て、その人生を終わらせようとしたきっかけ。その幾つもの思いを頭に浮かべながら、青年は言葉を紡ぐ。

「僕は……君の心情を正確に理解できるわけではないけど、君のその境遇が中々に辛いものだとは思うよ。学校でも家でも、場所によらず誰も味方のいない日々というのは堪えると思う。僕はあまり人付き合いが無かったけど、それでも数少ない友人と過ごせた日々は楽しかったと言えるからね」

「……だから、なんなんですか? 今からでも友達作って楽しい青春を送るべきって言うんですか?」

 少女は噛み付くように語気を荒げた。友達が居ないと言った少女と青年とは違うと言われ、思わず口調が乱暴になってしまったのだ。

「そうではないよ。そうでは、ない」

 青年は少女を宥めるため、すぐにやんわりと否定する。

「一人が悪いとは言わないし、どうしても一人になってしまう子は居るよ。君がその立場に苦しんで、どうしても死にたいと言うのなら止めないさ。死は逃げでもあるし甘えでもあるけれど、救いになることも確かにあるからね……。でも、もしももう少しだけ生きてみたいって、違う生き方でもやっていきたいって思うなら、僕はその方法を示すことはできる」

「違う、生き方……?」

 思ってもみなかった言葉に気を抜かれ、先程の威勢は息を潜めたかのように消えてしまった。

「そう、学校にも通わず人ともほとんど関わらない生き方。具体的に言うと僕の家に来て、住み込みで家事とかをやってみないかいって話」

 住み込みで家事などを行うものと言われ、少女は最初に思いついた単語を口にした。

「……メイド?」

「昨今の世間で言われてるメイドはちょっと趣旨がズレてるんだけど……どちらかと言えば家政婦さんの方が近いかな。君は……家事とかはできる方かな?」

「えっと……料理とか洗濯とか掃除くらいなら、一通りはできます、けど」

「それはよかった。どう? 君は家に帰らず学校にも行かず、うちで掃除とか洗濯とかをする。買い物とかは僕も手伝うよ。僕は炊事とか苦手だからか何故か時間がかかってね。君にやってもらえればその分を他に回せるからとても楽ができる。互いにまずまずの利点があると思うんだけど、どうかな?」

「…………」

 少女はとても訝しげに青年を見つつ、しかし脳裏では青年の提案を検討し始めた。

 青年の目的は何なのか、その話にのった場合の自身のメリットは何か。

 少女の中に多くの思惑が浮かんでくる。

 そんな少女の眼差しを受け青年は肩をすくめつつ、どこか飄々とした口調で言った。

「怪しむのはわかるさ。会ったばかりの知らない男の家に来ないか、なんて言われてるんだし。でも君を苦しめている原因である学校や家からは離れられて、寝る場所も困らない。食事は……君に作ってもらうことになるけど、材料費とかは全て僕が出す。部屋は空いているのを使ってもらおうかな」

「……何が、目的なんですか? 見ず知らずの他人をそんな易々と家に招くなんて怪しいです。……か、かか、身体、ですか? い、言っておきますけど私はそんなに発育よくないですよ……!」

 頬に朱を刺しつつ、少女は自身の身体を隠すように身を捩った。しかしその言葉や態度を裏切るように、中々に豊かな二つの膨らみは少女の細腕の陰からその存在を主張していた。

「まあ……それが普通だよね。うん、その反応はとても正しいと思うよ」

 そんな警戒心丸出しの少女の態度を見ても青年はあまり気にしていないらしく、のんびりとした口調で話し続けた。

「目的はさっき言った通り、家事代行だよ。そういうサービスを頼もうかとも思ったんだけど、どうも気乗りしなくてね。ついつい後回しにしてしまう。あとは、まぁ……」

「……?」

 いままでほとんど表情を変えなかった青年がどこか照れた様に見えて、少女は更に顔を顰めた。

「生きたいと思ってる人を助けられるのに見捨てるのは忍びないからね」

「……!」

 偽善に聞こえるかもね、と青年はどこか遠くを向きながら小さく付け足した。


 生きたいと思ってる。

 その言葉は少女の心情を適切に表していた。

 ずっと橋の上から川を見下ろしていたのは、本当は死にたくなかったから。

 こんな人気の無い場所に来て、それでも最後の一歩を踏み出せなかったのは、誰かに止めて欲しかったから。

 自分はまだ——生きたいと思ってる。

 そして青年は、少女一人では決して出来ないであろう生き方を示してくれた。

 その事実は確かに、少女の心に温もりと希望を与えてくれた。

 もちろん不安はある。

 出会ったばかりの名前も知らない異性の家に行くなんて、普通に考えれば危険が沢山潜んでいることなど百も承知だ。けれど青年の言葉や態度からはそう言った悪意が感じられず、どこか優しささえ感じられた。

 葛藤している最中、少女はふと昔読んだ小説の一節を思い出した。

“変身願望は自殺願望と変わらない。どちらも今の自身を否定する”

 もしその二つが等価なら、自殺しようと思った自分は変わりたいと願っていたのだろうか?

 自殺して今の自分を終わらせる選択と、新しい生き方で今の自分を終わらせる選択。

 どうせ同じ終わりなら……少女は生きることを選択した。


 青年の言葉を聞いてからどれくらい黙っていたのだろう。せいぜい一分、いいや二分? もしかしたら数秒程度だったかもしれない。けれど少女にとってはとても長い時間に感じられた。

 その間青年は急かすこともなく、ただ静かに少女の答えを待っていた。

 少女は恐る恐る隣に座る青年に向き合った。その身体は少しだけ震えていた。

「あ、あの……貴方のお話、受けたいです。私、まだ生きて、いたいです……!」

 酷く緊張していたためか、声が掠れて上手く出なかった。それでも少女の叫びは、確かに青年に届いたのだった。

「そっか。じゃあこれからよろしくね」

 あっさりと、短くそう言って。

 青年は立ち上がり、少女に対して控えめに右手を差し出した。

 恐る恐る、緊張で震える右手を少女は彼の手に重ねた。

 青年の手は少女の手よりも一回りほど大きくて、少女の手と違ってひんやりと冷たかったが、その温度差は不思議と少女に安心感を与えた。

 青年に引かれる様にして少女は立ち上がった。

「僕の名は竜胆秋夜りんどうしゅうや。竜の胆に秋の夜で、竜胆秋夜。よろしく」

「私は舞園優奈まいぞのゆうなっていいます。えっと……舞妓の舞に花園の園、優しいに奈良県の奈で、優奈です。その……お役に立てるかわかりませんけど、よろしくお願いします」

「……ゆうな?」

「え、あ、そうです」

 いきなり名前で呼ばれたことに驚いた少女——優奈だったが、優奈の名前を聞いた青年——秋夜はそれ以上に驚いた様だった。

「そっか……君は優奈というのか。そういうこともあるんだね……縁は異なもの味なものとはよく言ったものだ」

「……? 私の名前がどうかしたんですか?」

 一人で何かに納得している秋夜を見て優奈は不思議に感じた。

「これも何かの巡り合わせ、なのかな」

 複雑な表情で言葉を紡ぐ秋夜。


「僕が今日ここに来たのはね——七年前にこの場所から飛び降り自殺した、夕菜ゆうなという子の命日だからなんだ」


 こうして——青年・竜胆秋夜はかつての恋人・畳野夕菜たたみのゆうなが自殺した場合で、自殺できなかった少女・舞園優奈に出会ったのだった。



 少し用事を済ませて来るからと、彼は橋を渡って行った。

 私はスカートに着いた泥を落としながら、先程聞いた台詞を思い返していた。

 ここから飛び降り自殺した、畳野夕菜という名前の女性。聞けば竜胆さんの恋人だったという。

 自殺してしまった畳野夕菜。

 自殺出来なかった舞園優奈。

 竜胆さんが驚いていたのもなんとなく分かる気がする。

「……もし七年前に畳野さんが自殺してなかったら、今日死んでいたのは私だったのかな」

 竜胆さんがここに来ることもなく。私は誰にも止められないまま、あの濁流の中に落ちていったのだろうか。

「…………」

 なんてバカな考えだろう。私は頭を振って浮かび上がって来た雑念を消し、彼の様子を伺った。

 竜胆さんは橋の真ん中辺りから下を眺めていた。強風のせいで男の人にしては長めの髪が激しくはためき、彼の表情はほとんど見えない。けれど時々垣間見える目元はどこか悲しそうに見えた。

 私は自分の境遇が嫌で自殺を考えたけれど。

 飛び降りた畳野夕菜という彼女は、何をきっかけにその命を絶ってしまったのだろう。

 恋人だったという彼、竜胆さんと何かがあったのだろうか。とても気になるけれども、流石に竜胆さん自身に聞くのは憚られた。

 ……数分後、竜胆さんはゆっくりとこちらに戻ってきた。その顔に翳りは見当たらない。

「待たせたね。まずは……山を下りようか」

 私は頷き、彼の少し後ろについて歩き出した。

「優奈は……あっ。ごめん。えっと……」

 不意に名前を呼ばれた。これで二度目だ。

 私を優奈と呼んだ彼は少し困った様に笑った。

「こほん。……舞園さんは何か食べられないものとかあるのかな? 苦手なものとかでもいいけど」

 誤魔化す様に咳払いし竜胆さんは聞いてきた。

「えっと、食べられなくはないですけど、冷たい料理はちょっと苦手です……アレルギーとかはないです」

「ん、わかった。温かいものだと何がいいかな……」

 竜胆さんは候補を数えているのか時々指を折っていた。さっき手を繋いだ時も思ったが、結構綺麗な手をしてると思う。長くて、爪もちゃんと切り揃えられてて……そんなことを考えていた私は、

「きゃっ!?」

 彼の手元ばかり見て足元をよく見ていなかったせいで、泥に足がとられて滑ってしまった。

「おっと」

 竜胆さんはすぐに振り返って、私を支えてくれた。細いけど、私とは違って筋肉を感じられる腕。支えられた拍子にぶつかってしまった胸元は見た目よりがっしりしていて、竜胆さんの体温をより近くで感じて私は自身の頬が熱くなるのを感じた。

「ご、ごめんなさい。ありがとう、ございます……」

「雨で泥濘んでいる山道だからね。気をつけた方がいいよ優……舞園さん」

 これで三度目。……流石にちょっと気になった。

「あの、その……竜胆さんが呼びやすいなら優奈でも、いい、ですよ……?」

 初対面だけど、彼に優奈と呼ばれても不思議と不快とは思わなかった。彼の口調が穏やかで、親しみさえ感じるものだったからかもしれない。

「いや、初対面の女の子をいきなり名前で呼ぶのもね……。言い訳をさせてもらうと、夕菜のことをずっと夕菜と呼んでいたから言い慣れているだけで」

 言い訳をする竜胆さんは少し早口だった。

「やっぱり、その……恋人同士だとお互い名前で呼び合ったりするんですか?

「んー……僕は『夕菜』と名前で呼んでいたけど、それは夕菜が自分の苗字を好きじゃなかったのもあるかな。それに夕菜は僕のことは『秋夜』ではなく『しゅう君』って呼んでた」

「『しゅう君』……」

 愛称……親しみが込められてる感じ。それに言いやすい。

「でも……言い間違えたり呼び直したりするのもそれはそれで失礼だし……そうだ。舞園さんがよければ、『優奈ちゃん』って呼ぶのはどうだろう?」

「『優奈ちゃん』……」

 この歳になってちゃん付けで呼ばれるとは思わなかった。今まで人から呼ばれる際は苗字だったし、それも呼び捨てかさん付けだった。両親は私のことを優奈と呼んでいたし……。

「や、やっぱり馴れ馴れしいかな。ごめん。別の考える……」

 私が黙っていたのを嫌がっていると捉えたのか、竜胆さんが慌てだす。

「……いえ。竜胆さんがよければ、そう呼んで下さい。その、ちゃん付けで呼ばれるの、初めてで、ちょっとびっくりしていただけですから」

「そう……? なら、これからは優奈ちゃんって呼ぼうかな。最初の内は間違えることもあるかもしれないけど、その時はごめんね。よろしく、優奈ちゃん」

「はい。私こそ、ちゃんと返事出来なかったらごめんなさい」

 なんでだろう。ただ名前を呼ばれただけなのに少しだけドキドキしている自分がいる。自分の胸の内に広がった奇妙な鼓動を感じながら、私は竜胆さんとともに山を下って行った。


「優奈ちゃん、今日のこれからのことだけど」

 山を降りて数分ほどした頃、丁寧に運転をしながら竜胆さんが言った。カーブを曲がった拍子に彼の首にかかっているロケットペンダントが小さく揺れる。

「一度僕の家に帰ってシャワーと食事にしようと思う。流石に泥だらけで店に行ったら迷惑かけてしまうからね。悪いけど着替えは僕のを貸すから一旦それで我慢して欲しい。その後に優奈ちゃんの服とか歯ブラシとかの日用品を買いに行こう」

「えっと、それだと結構遅い時間になってしまうと思いますけど、大丈夫ですか?」

 もう夜の七時を過ぎている。下山に時間がかかったのもあるし、竜胆さんの家がここから車で二十分ほどらしいが、食事などしてれば一時間は軽く経つと思う。お店が閉まってもおかしくない。

「夜の十時まで開いているショッピングモールが家の近くにあるから大丈夫だよ。慣れない山道で体力が削れているし、汗もかいてるし喉も乾いてる。僕もそうだけど、優奈ちゃん……下着も結構濡れてるよね? ずっとその状態なのは嫌じゃないかな」

「それは……そうですけど」

 気にしないようにしてたのに……。そう言われると意識してしまって、お尻や太ももに冷たさが伝わってきた。

「風呂沸かして入ってはちょっと時間が惜しいからシャワーで我慢してくれるかな。その間に僕は着替えてコンビニでお弁当買ってくるよ。それ食べたら出発しよう。いいかな?」

「わかり、ました。えっと、お金は……」

「僕が全部出すから気にしないでいいよ」

 そうは言われましても。確かに私は現在無一文だけれども。自殺するつもりだったから何もかもを置いて来たけれども。

 それでもちょっとは気後れしてしまうのは仕方ないだろう。それにデートではないし、全部出すと言っても服とか下着とか色々購入したらそれなりに費用がかかるのは私でもわかる。

 迷惑だったりしないだろうか。

 私は今更ながらに竜胆さんの話に乗ることが竜胆さんに結構な負担をかけてしまうことに気がついた。

「竜胆さん、あの……竜胆さんのお世話になる身でこんなこと言うのもあれなんですけど、迷惑だったりしませんか? もしそうならそうと言ってもらえると——」

「いいや? そもそも僕から提案した話だし。優奈ちゃんが家に来ることで何にいくらかかるかとかはある程度計算して上での提案だから。それに……」

 丁度赤信号だったので竜胆さんは車を止めて私をまっすぐに見た。

 その表情は——どこか怒っている様にも見えた。

「もしも僕が迷惑だって言ったら、優奈ちゃんはこの話を無かったことにするのかい? またあの橋に戻る?」

「それ、は……」

 私は迷惑だと言われたらどうするつもりだったのだろう。そこまでちゃんと考えていなかった故の発言だ。

 私は何も言えず、俯いてしまった。……悪い癖だとわかっているけれど、どうすればいいかわからないとつい俯いてしまう。

「……ごめんね。今の発言は意地悪だったね。怒っているわけじゃないよ。その、会ったばかりだし、優奈ちゃんの生い立ちを考えると難しいかもしれないけど、ちょっとだけでも僕を頼ってほしいな」

「たよ、る……」

「こう言うと怒るかもしれないけど、優奈ちゃんはまだ子供だからさ、大人に頼ったり甘えたりしていいんだよ。子供は色々やって色々学んで……その中で時には失敗したり迷惑かけたりすることもあるだろうけど、僕ら大人はその時にただ怒るのではなく、子供が間違えた方に行かないようにちょっと教えてあげるのが役目なんだから」

「迷惑をかけていい……?」

 そんなこと、初めて言われた。

 迷惑をかけるなとは、何度も言われたけれど。

「もちろん意図的にどんどん迷惑かけていいって訳じゃないけどね。でも優奈ちゃんが何かを頑張っている時に、結果として迷惑がかかったとしても僕は怒らないよ」

 僕自身そうやって支えてもらいながら生きてきたから。

 彼はそう言うとまた車を走らせ始めた。

 ……とても。とても、竜胆さんが羨ましい。

 そんな環境で育つことができて。

 そんな大人が周りにいてくれて。

 自身が受けた優しさを、誰かにもしてあげられるその強さに。

「うっ……うぅ……」

 気づいたら。私は泣いていた。

 頬を伝って顎に流れた涙がぽたり、ぽたりと手のひらに落ちる。その雫は酷く冷たい。

 でも心はとても温かくて。彼の言葉がずっと繰り返されている。

「竜胆、さん……」

 涙ながらに、彼を呼ぶ。

「何かな」

 竜胆さんは短く、けれどはっきりと答えてくれた。

「私、私、いっぱい迷惑かけてしまうと思いますが……よろしく、お願いします……!」

 さっきも挨拶はしたのに。

 私はどうしてもそう伝えたかった。

「うん。こちらこそ、これからよろしくね」

 竜胆さんの口調はさっきと変わらずあっさりとしていたけれど。どこか優しさを感じるのは、気のせいではないと思いたい。

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