第3話
昼食の片付けを終え、再び日焼け止めを塗りたくる。しめ縄のようなおさげを垂らし首元にタオルを巻きつけ、さらにUV防止パーカーを被った。その上に祖父から借りた麦わら帽を被り軍手をして、午後からも敷地内の草抜きだ。
山だから多少は涼しいが、どのみち三十度は超えている。油蝉の声を聞くだけでも、こめかみに汗が滲んだ。
「暑いのに、そんな根詰めて働こうとせんでもええ」
「大丈夫だよ、ちゃんと日陰になってるとこだけにするから」
準備の仕上げとして携帯用の蚊取り線香に火を点け、マッチを消す。つん、と鼻を刺すような臭いがした。
「日陰になっているところ」なら、もう前庭は無理だ。陰がないわけではないが、松の木陰や灯籠の辺りは午前中に終わらせていた。ということは、母屋の裏手辺りか。
「裏の古井戸には、気をつけえよ」
それを言われるのも何度目か、すっかり聞き慣れてしまった言葉だ。いつもの「分かった」を返して庭に下り、裏へ向かった。
裏庭は、一年を通して薄暗く陰鬱な場所だ。隅にある蔵はたまに陽光を浴びもするが、ほかは苔生した岩と生い茂った草ばかり、塀は蔦に覆い尽くされて久しい。塀の裏はすぐに山だ。
幼い頃は昼間でも暗いここがなんとなく恐ろしくて避けていたが、今はそうでもない。苔の青臭さは悪くないし、頬に触れる空気もひんやりと心地良い。自ずと漏れた安堵の息に苦笑し、腰を下ろして作業を始める。ひとまず目の前の雑草を掴んで引っ張ると、湿った土と共に呆気なく抜けた。
こんなところに生えなければ、抜かれなかったのに。
浮かんだ「余計なこと」を眠らせて、ただひたすらに侵略を始める。誰だって、望んでそこへ生まれ出たものなどいないだろう。土地にしろ遺伝子にしろ家にしろ親にしろ、幸も不幸も何一つ、生まれ出るものには選べないのだ。
ふと気づくと、目の前に古井戸「らしきもの」があった。枯れた蔦に新しい蔦が絡まるようにして覆っているから、すぐには視認できない。痛み始めた腰を起こし、盛り上がったそこの蔦を大きく掻き分けてみる。直径一メートルほどだろうか、井桁も釣瓶もない井戸の口は、雨晒しで白く退色した木の蓋で塞がれていた。
普段ならこの辺りで止まるはずの手が、引き寄せられるように蓋へ触れる。縁はぐるりと苔に埋められていたが脆く、簡単に開けられてしまった。
慎重に覗き込んだ奥は当然暗くて、何も見えない。どれほどの深さがあるのか、まだ水は湧いているのか。その暗がりの奥に、何があるのか。誘われるように身を乗り出した瞬間、足下の青草にサンダルが滑る。あ、と察した次にはもう、中へと滑り落ちていた。
ざぶん、と水へ飛び込む音がして、縮みあがる肌に荒い息を吐く。慌てて浮かび上がろうと藻掻いたが、底は私の足が着くところにあった。立ち上がってみると、首から上は水面から出る。井戸水の凍えるような冷たさに肩を抱き、浅く短い息を吐きながら仰いだ。丸い光は、随分遠くに見える。
「おじいちゃーん! 井戸に落ちたー! 井戸ー!」
何度か思い切り叫んでみるが、吸い込まれてしまうのか手応えはない。かといって触れた井戸壁は岩盤か、凹凸はあるがとても私に登れるようなものではなかった。また叫ぼうとするものの、がちがちと歯が鳴るばかりで声が絞られる。息さえもう、碌に吸えない。
黙って見上げた天が揺らぐ。どうせ、何の役にも立たないのだ。もうこのまま消えた方がいいのかもしれない。
「あなたも、落ちてしもうたんですか」
不意の声に、びくりとする。気づくと、隣に坊主頭の少年が立っていた。私と同じようにずぶ濡れで、肩口まで水に浸かって苦笑している。しかし、明らかにおかしいだろう。落ちたのは私だけのはずだし、私の前に落ちていたのなら、それはもう。
さっきまでは自分の手も確認できないほど暗かったのに、今は彼の顔も、絣の着物を着ていることまでよく見える。十二、三歳くらいだろうか。あどけなさを残す端整な面立ちは、祖父によく似ていた。いつの間にか全身の震えも消えて、息もまともに吸える。これは、幻か。
「草むしりの途中で、落ちてしまって」
そうですか、と彼は頷き、同じように光を見上げた。
「
予想外の提案に、切れ長の目をじっと見据える。ここには梯子も縄もないし、それに。視線を落とすと彼は、どうしましたか、と尋ねた。
「私、戻らなくてもいいんです。誰の、何の役にも立たないし。このまま生きてても、家族や周りの荷物になるだけですし」
胸に突き刺さった小さな棘は、化膿するばかりで抜けることはない。このまま死ぬまで私は誰かにぶらさがって、荷物として生き続けるのだろう。
「そんな親を悲しませるようなことを、してはなりません」
擡げた視線の先で、彼は年に合わぬ憂いを帯びた表情で笑む。ああそうか、彼はもう「悲しませてしまった」のか。
小さく詫びると、彼は頷いて背を向けた。
「ほら。早うせんと、間に合わんようになります」
促す彼に、そっと手を伸ばす。おそるおそる触れた絣の背は、まるで体温があるかのように温かい。礼を言って体を預けると、彼は井戸壁を這い上がり始めた。
「ここから出たら、一つ頼まれてくれませんか」
彼は口を動かしているのだろうが、耳で聞き取っている気がしない。頭の中に響く音を拾って声にしているような、不思議な感覚だ。
「どういったことでしょうか」
「私の下駄の片方を探して、放り投げて欲しいんです」
「下駄、ですか」
彼は、はい、と答えて体を水から引き上げる。水の滴る音が、辺りに響いた。
「中学からの帰り道、友と下駄を飛ばして遊んでいて、片方を川へ流してしもうたんです。父には叱られましたが、母はすぐ新しい下駄を買うてくれました。でも私は言いつけを守らんと、鼻緒をろくに揉まんまま爪先につっかけて水汲みをしました。そのせいで足を滑らせて、ここへ落ちてしもうたんです。そんな履き方をしとったせいで、踏ん張れんで」
私を背負っているのに彼は休むことも、息を切らすこともない。かつ、かつ、と規則的な音を立てながら、光へと近づいていく。吸い込んだ空気には少しずつ、新鮮な青臭さが混じり始めていた。
「その時、片方を上に残して来てしまいました。母が呼んでおるのですが、新品の片方を無くしたままでは申し訳なあて、よう行かれません」
彼が、少し俯いたのが分かった。この音は、片方の下駄の音だったのか。
「分かりました、必ず探します」
「ありがとう。頼みます、鼻緒が紺の
彼は念を押すように伝えて、井筒の縁に手を掛ける。紺の天鵞絨、と小さく繰り返した時、目の前が光に満たされた。
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