第2話

 祖父は大盛りの素麺をつゆへ浸し、豪快に啜る。やがて頷き、ちょうどええよ、と言った。

「良かった。ごめんね、聞いてから作れば良かったのに」

 詫びつつ、私も素麺をつまみあげる。伝うように流れ落ちていた水はやがて点となり、途切れた。啜ってみると、母が作るものより少し柔らかい。やはりあの時点ではまだ固かったのかもしれない。

「なんもない。ちいと腐っとるようなもんでも気にせんと食べとる」

「それはダメだって」

 慌てた私に、祖父は痩せた頬に皺を走らせて笑う。首に掛けたタオルで細く通った鼻筋を拭った。八十を過ぎて髪も眉毛も真っ白になったが、生え際は少し後退したくらいだろう。昔の写真に見た美丈夫の面影はまだ、そこかしこに残っている。

――おじいちゃんが目の手術をしたんだって。心配だから、お世話に行ってくれない?

 前期最後のテストを終わらせて帰宅した私に、母は不安そうな表情で頼んだ。


 両親の生地であるこの町は、新幹線どころか電車すら通っていない田舎の中山間地域にある。家より田畑が、人より杉や檜が多い土地だ。夜になれば街の灯りより星空が美しい。

 祖父はここで地区の農地管理をしつつ、男の一人暮らしを続けている。祖母が亡くなってから、五年は経つだろうか。母は一人娘だから跡を継ぐものもおらず、祖父が最後の当主だ。今頃になって「婿に入ってもらえば良かったわ」と悔やまれている父は本家の次男だから、その気になれば間に合いはする。でも、祖父は断るだろう。何がどうだからとは言えないが、私にはなんとなく、祖父が家を閉じたがっているように見えていた。


 まあ実際のところ、手術は瞼の垂れ下がりを縫い縮めて視界を確保するためのもので、眼科手術というよりは整形手術に近いものだった。その手術も二週間前に終わっていて、抜糸も済んだ瞼は赤い傷跡を残すのみだ。本人曰く、以前より余程安全で快適な毎日を送っているらしかった。

「すまんなあ。最後の夏休みを和香子わかこのせいで」

 だけえ手術してすぐには言わんかったのに、と苦笑して祖父は最後の素麺を啜る。私はまだ半分も済んでいないのに、驚くべき速さだ。とはいえ、私も人の倍は遅い。できるだけ考え事をしないようにしていても、知らないうちに滑り込んでしまう。

「気にしないで。卒論も中間発表会に必要なとこまではできてるし、就職も決まったし。遊びに行く予定も、ないしね」

 高校時代からの親友とは、内定を切っ掛けにうまくいかなくなってしまった。私だけ決まってしまったから、ではない。経済学部へ進学した彼女は、私より遥かに早く第一志望の内定を勝ち取った。そのために彼女は優秀な成績を残し素晴らしい論文を書き資格も取得し、サークルを立ち上げボランティアをこなし、バイト代で短期留学もした。全ては「望みの席」を勝ち取るためだった。

 一方の私は最低限の単位をそれなりの成績で取得しつつ、近所の人に頼まれて小学生姉妹の家庭教師をしている。文学部国文学科で、大した資格や実績もなく、趣味は読書と古典の現代語訳。彼女が「気に入ってくれる企業もあるって」と励ましてくれたのは、父が信念を曲げるまでだった。

――結局コネじゃん。いいよね、何の役にも立たなくても生きていける人は。

 彼女は吐き捨てるように言って、一方的に通話を切った。以来、メールも通話も拒否されている。共通の友人に、彼女が「不公平」だと泣いていたと聞いた。傷ついたのは、傷つけたのはどちらなのか。


 気づけばまた止まっていた手を動かす。すっかり伸びた素麺はコシも消え、あっさりと砕けて消えていく。母の依頼をすぐに承諾したのは、少しでも誰かの役に立ちたかったからだ。そうしなければもう、息をしていることにすらまとわりつく罪悪感を宥められなかった。

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