2-12

「ごめんなさい。少し寝不足だったみたい。一晩休めば、すぐによくなるわ」

 心配して様子を見に来たリリアーネとマリーエにそう言って、アメリアは安心させるように笑顔を向ける。その明るい声と表情に、ふたりもほっとした顔をしていた。

「そうね。あなたもサルジュ殿下も、少し根を詰めすぎているわ。まだ帰路の途中なのだから」

 それでもまだ心配そうなマリーエは、今日はゆっくりと休むようにと告げた。

「うん、ありがとう。資料も本もすべて取り上げられてしまったから、今日はおとなしく寝ることにするわ」

 そう言ってふたりを見送る。まだビーダイド王国に帰るまでは日にちがある。今度こそ三人で泊まろうと約束した。

 サルジュに部屋まで連れてきてもらったあと、少し眠ってしまったらしい。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。

 寝過ごしてしまったかと少し焦ったけれど、周囲は静かだ。クロエ王女がいなくってしまったら、もっと大騒ぎになっているだろう。

 それを考えると、クロエはまだ部屋にいるようだ。

 暗くなったといっても、真夜中には遠い。駆け落ちをするにしても、もう少し寝静まってからだろう。

 この宿は貸し切りなので、部屋の前で警備兵が見張っているということはない。けれど門や裏口には夜通し見張りがいるはずだ。あのふたりが駆け落ちしようとしても、上手くいくとは思えない。

(どうするつもりなのかな。まさか協力者がいるとか?)

 たとえクロエがそう望んでいたとしても、王女を浚ったりしたら大罪だ。きっと協力者も同罪に違いない。それでも尚、ふたりに協力している者がいるのだろうか。

(とにかく、クロエ王女に会って話をしないと)

 クロエは相手の男性に、今夜駆け落ちしようと言っていた。

 その前に、彼女の部屋に行かなくてはならない。そう思うと、ひとり部屋にしてくれたのは幸いだった。

 でも、本当にサルジュに話さなくてもよかったのだろうか。

 アメリアはそっと、サルジュからもらった指輪をなぞる。今からでも彼に事情を話して、どうしたらいいのか聞くべきではないか。

(あれほどのことを隠して、心配させてしまって……。駄目だわ。ちゃんとサルジュ様にお話ししよう)

 アメリアは服装を整えると、急いで部屋を出る。

 きっとサルジュなら夜遅くまで起きているだろうし、カイドも傍にいるに違いない。

 建物の外に人の気配はあるが、廊下には誰もいなかった。美しく磨かれた廊下の床を照らすように、ほのかな光が灯されている。

 あの部屋に連れてきてくれたサルジュは、アメリアが眠ってしまう前に、自分もこの近くにいると言っていた。すぐ隣の部屋は暗かったから、きっと彼の部屋ではないだろう。きっと、もうひとつ隣の部屋だ。

 宿の部屋はそれぞれがとても広く、隣の隣だと、結構な距離を歩かなくてはならない。サルジュの部屋を目指しながら歩いていたアメリアは、ふと何気なく視線を通路に向けた。

「!」

驚いて思わず足を止めたのは、そこに人影が潜んでいたからだ。廊下を照らし出している明かりから身を隠して、息を押し殺している。暗がりでよく見えないが、シルエットから察するに細身の女性のようだ。

「……まさか、クロエ王女殿下?」

 そう声を掛けたのは、彼女が駆け落ちすると聞いていたからだ。そうではなくては、暗がりに潜んでいるような人物に声を掛けたりしない。

 隠れていた人物はびくりと身体を震わせて逃げようとする。

「待ってください。このまま逃げるのなら、今日聞いたこと、見たことをすべて、ユリウス殿下にお話しします」

「……っ」

 そう言うと、クロエは動きを止めた。

 振り返り、悔しそうにアメリアを睨む。

「どうして、こんなところにあなたがいるのよ」

「ある方にお話しがあって、伺う途中でした。ここで話せる内容ではありませんし、わたしの部屋に行きましょう」

「どうして、私があなたの部屋に」

「ここでお話をしても良いなら、そうしますが」

 アメリアがそう言うと、クロエは唇を噛んで目を逸らした。

 それでもすべてを話されてしまうよりは良いと思ったのか、素直にアメリアの後に付いてきた。

 憎々しげに睨んでいたというのに、アメリアの言葉には従う。そのことから考えても、やはりクロエは世間知らずの王女様だ。

 恋人を名乗る男に騙されている可能性もあるのではないか。

 そう考えて、ゆっくりと話をしてみようと思う。

 アメリアは先ほど出たばかりの自分の部屋に戻ると、クロエを招き入れた。広い部屋には応接セットもあり、侍女がお茶を淹れたりできるように、簡単な調理場もある。

 クロエをソファーに座らせ、アメリアも向かい側に座った。

(どうしよう……)

 勢いでクロエを部屋まで連れてきたものの、アメリアも少し困惑していた。

 サルジュにすべてを話して、どうしたらいいのか相談しようと思っていた矢先に、まさか彼女に遭遇するとは思わなかった。誰かに見られてしまったらいけないと、慌てて彼女を連れ帰ったものの、どう話をしたらいいのかわからない。

 それでも何とか彼女を説得して、思い留まらせなければ。

 アメリアは必死に考えを巡らせて、クロエに話しかけた。

「クロエ王女殿下の恋人は、アロイス、というお名前なのでしょうか」

 あまり長く沈黙していては、いらぬ緊張感を招いてしまう。だからアメリアは、単刀直入にそう切り出した。

「どうして、あなたがそれを」

「ここに着いたばかりのとき、あなたと恋人が抱き合っているところを見てしまったので。そのとき、会話も聞こえてきました」

「……っ」

 そこで恋人と何を語ったのか、思い出したのだろう。さっとクロエの顔が青ざめる。

「人の話を、勝手に盗み聞きするなんて」

「宿のすぐ近くで抱き合っていて、誰にも見られないはずがありません。わたしのすぐ後にも、宿に入る予定の方がいました。もし逃げ出さなかったら、あの方に見つかってもっと大変なことになっていたかと思います」

 あのあと、最後まで残っていたサルジュが宿に入る予定だった。サルジュとカイドがあのふたりの姿を目撃していたら、大騒ぎになっていたことだろう。

 それでもきつい口調では逆効果だと思ったので、アメリアは静かに諭すように言う。

「アロイスがあなたに気が付いた? そんなこと知らない。彼は何も言っていなかったわ」

 アメリアを睨んでいたクロエが、狼狽える。彼女は本当に知らなかったのだろう。

「彼は確実にわたしを見て、殿下を連れて逃げました。それよりも、彼の位置からはまだ止まっている馬車が見えたはずです。まだ宿に入っていない人がいると知っていたのでしょうか」

 疑惑が、少しずつ確信に変わっていく。

 クロエの恋人のアロイスという男性は、あまり信用できる人物ではなさそうだ。

 アメリアは、すっかり困惑しているクロエを見た。

「クロエ王女殿下がこのまま姿を消してしまえば、その責任はジャナキ王国が背負うことになります。それも承知の上で、駆け落ちをすると決めたのですか?」

「……ジャナキ王国さえ出てしまえば、責任を問われることはないと、アロイスが言っていたわ」

 やはり彼がそう言ったようだ。

「それは違います」

 アメリアはあのとき垣間見た男性の姿を思い出しながら、その言葉を否定する。

 背が高く、それなりに鍛えられた身体をしていた。あの国では好まれる艶やかな黒髪に、琥珀色の瞳。クロエには穏やかな笑みを向けていたが、アメリアに気が付いてこちらに向けた視線は、ぞくりとするほど鋭かった。

「以前の関係のままだったらそうかもしれませんが、クロエ王女殿下とエスト王子殿下との婚約は、保留の状態です。エスト殿下の婚約者ではなく、ジャナキ王国の王女殿下としてビーダイド王国に留学するのですから、責任はすべてそちらにあります」

 そう告げると、クロエは困惑したように、せわしなく視線を動かす。

「でもアロイスが何も心配はいらないと言ったわ。すべて任せて欲しいと言われて、私は……」

「彼とは、どこで出会ったのですか?」

 アメリアが尋ねると、クロエは何か言おうとして口を開き、けれど何も言わずにそのまま俯いた。

「彼は、私の護衛騎士だったはず。…・・・・ううん、私の護衛は違う人だわ。アロイスは……」

 クロエは泣き出しそうな顔になって、覚えていないと小さく呟いた。自分の記憶を辿り、何か違和感があったようだ。

「そもそもこの婚約は、お父様がビーダイド王国に懇願したもの。私も、光魔法を持つ王子に嫁げる外国の王女はひとりだけだと、この結婚を喜んで誇りに思っていたはず。それなのにどうして、こんなことに?」

 その話を聞いたアメリアも困惑していた。

 クロエはアロイスとの出会いを覚えていない。あれほど親密そうに抱き合い、駆け落ちがしたいとまで言っていたのに、そんなことはあり得るのか。

 もしかしたらあのアロイスが、クロエの記憶を操作して恋人に成りすまし、ビーダイド王国とジャナキ王国との繋がりを断ち切りたいと企んでいるのだとしたら。

「クロエ王女殿下」

 アメリアは彼女の目を真っ直ぐに見て、そう問いかける。

「彼は本当に、あなたの恋人でしょうか?」

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