第二部

2-1

 花の香りが漂ってきた。

 学園の裏庭にあった花の蕾が咲いたのだろう。

 王都で過ごす、二度目の春が来た。

 アメリアは馬車から降りると立ち止まり、王立魔法学園の校舎を見上げる。ふわりと優しく吹いた風が、アメリアの黒髪を揺らした。

 その風も、すっかり暖かい。

 この学園に通うために、生まれ育った領地を出てから、もう一年が経過している。あれからたくさんのことがあり、自分の人生は大きく変わったと、アメリアは静かに過去を思い出していた。

 去年の今頃はまだ、長年の婚約者だったリースを信じていた。

 彼と結婚して、いずれは父のあとにレニア伯爵家と領地を継ぐことになる。その未来を疑ったことなど、一度もなかった。

 けれど一歳年上のリースはアメリアより先に学園に入り、その一年ですっかり変わってしまっていた。

 アメリアと婚約しているにも関わらず他の女性と懇意になり、さらにアメリアがいない間に不利になる噂を流して、翌年入学した学園でアメリアを孤立させたのだ。

 もしサルジュと出会わなければ、すべてリースの思い通りになっていたかもしれない。

 あれから一年。

 リースはアメリアだけでなくこのビーダイド国までも裏切り、ベルツ帝国に通じた罪で投獄されている。彼の生家のサーマ侯爵家は爵位を返上し、両親と兄は行方をくらませた。噂によると、今は他国で静かに暮らしているらしい。

 そしてアメリアは正式に、あのときに手を差し伸べてくれた第四王子であるサルジュの婚約者となった。

 王太子アレクシスと同じく正妃の子である彼は、アメリアと結婚しても王族のままで、将来は国王となる兄を王弟として支えていくだろう。

 だからアメリアはいずれ、王家に嫁ぐことになる。

 そのための勉強や警護のこともあり、学園寮で暮らしていたアメリアは、サルジュと婚約してからはずっと王城で暮らしていた。

 アメリアがリースと継ぐはずだったレニア伯爵は、従弟のソルが後継者となった。一歳年下の彼は、この春に王立魔法学園に入学している。王都での生活が落ち着けば、今度は彼の婚約者も公表されるだろう。

 ソルの婚約者になるのは、サルジュの護衛騎士であるカイドの妹のミィーナである。

 彼女は希少な土属性の魔導師で、本人は王都よりも自然豊かな地方で暮らすことを望んでいた。この婚約を整えてくれたのはサルジュだが、ミィーナ自身の希望でもある。

 そんなミィーナは何度もレニア領地に遊びに来てくれているので、アメリアともすでに友人である。ソルとの仲も良好のようだ。

 きっとあのふたりならば、今以上にレニア領地を発展させてくれるだろう。

「アメリア?」

 ふと名前を呼ばれて我に返る。

 先に馬車を降りていたサルジュが、振り返ってアメリアを見つめていた。

 美貌で評判の王妃によく似た美しい顔立ちに、煌めく金色の髪。鮮やかな緑色の瞳に宿る色はとても優しくて、彼が自分の婚約者だという事実に、まだ少し戸惑っている。

「どうした?」

「…あれからもうすぐ一年だと、色々なことを思い出していました」

 そう答えると、サルジュも過去を思い出すように目を細める。

「そうか。もう一年か」

 この春、サルジュは魔法学園の三年生になり、アメリアも二年生になっていた。けれどふたりは特Aクラスに進学しており、普通の授業には参加していない。

 毎日、学園の隣に隣接された王立魔法研究所に通っていた。

 その研究所の所長になったのが、サルジュの兄であり、第三王子であるユリウスである。

 そのユリウスはもう学園を卒業している。けれど彼は、所長とその研究員として、そのまま在籍しているので、去年と同じように研究所で会うことができる。

 彼の婚約者であるマリーエは、サルジュと同じ三年生だ。

 いずれ義姉になるマリーエは大切な友人なので、今までと変わらない日常を過ごせることが嬉しかった。

 長年アメリアと婚約していたリースもふたりと同学年だったが、あの事件で退学になり、魔法を封じられてしまった。彼の浮気相手であったセイラも同じである。

去年のことを思い出すと、まだ少し胸が痛む。

 学園の隣にある研究所の前では、サルジュとアメリアの護衛騎士がふたりの到着を待っていた。

 サルジュにはカイドという騎士。アメリアには、そのカイドの婚約者であるリリアーネという女性騎士が警護してくれている。

 王族の婚約者であり、リースのせいでベルツ帝国に狙われる可能性があるということで、学園内ではアメリアにも常に護衛がつくことになったのだ。

 ただの地方貴族であった自分が、まさか学園内で護衛騎士を連れて歩くことになるなんて思わなかった。けれどリリアーネは女騎士とは思えないほど穏やかで優しく、見た目も深窓の令嬢にしか見えない。だから傍にいても威圧感もなく、自然体でいることができた。

 それでも騎士としての腕はたしかで、さらについ魔法の研究に熱中しがちなアメリアをやんわりと止めてくれる。

 彼女が傍にいてくれるようになってから、昼食の時間を忘れたことは一度もなかった。

「研究も大切ですが、もっとご自身も大切にしてくださいね。徹夜を続けては、お肌によくありませんよ」

 そう言って肌に良いというお茶を淹れてくれたこともあった。

 去年の冬にはマリーエやミィーナと一緒にアメリアの里帰りにも同行してくれて、皆ともすっかり仲良くなっている。

(もし姉がいたら、こんな感じなのかしら?)

 優しいリリアーネに見守られて、今のところ穏やかで充実した日々を送ることができている。

 サルジュは学園に到着するとすぐに、護衛騎士のカイドを連れて、研究所ではなく王立魔法学園の図書室に向かっていた。

 最近の彼は穀物のさらなる品種改良に熱中していて、こうしてアメリアと別行動になることも多い。

 アメリアの方も、ひとりになると研究所で自分の研究に没頭していた。

 去年、アメリアが開発した魔法水はまだデータ不足で、どんな副作用があるかわからない。今はひたすらデータを集め、もし不都合があった場合にはすぐに対応しなくてはならない。

研究所に到着すると、先にマリーエが来ていた。

「おはよう、アメリア」

 彼女はそう言って微笑む。

 サルジュと正式に婚約したとき、マリーエはいずれ義姉妹になるのだから、お互いに名前で呼ぼうと言ってくれた。それからアメリアも、彼女のことはマリーエと呼んでいる。

「おはよう。今日はユリウス様と一緒ではないの?」

 何気なく尋ねると、マリーエは不安そうに視線を逸らす。いつも毅然としている彼女のそんなしぐさは初めてで、思わず目を瞠る。

「マリーエ?」

 傍に寄って、そっと手を握った。

「何かあったの?」

 不安そうな彼女に尋ねると、彼女は深い溜息をついたあと、笑みを浮かべた。

「たいしたことではないの。ただ、少し心配事があって」

「どんな?」

「ユリウス様が、ジャナキ王国に向かうことになったの。外交と、それからジャナキ王国の第五王女の、クロエ王女殿下を迎えにいくために」

「ええと。たしかクロエ王女殿下は、エスト様の……」

 ユリウスとサルジュの兄である、エストの婚約者だったはずだ。

 この国には王子が四人いて、王太子のアレクシスとサルジュが正妃の子であり、第二王子エストと第三王子のユリウスが側妃の子である。

 けれど正妃と側妃は従姉妹同士であり、四人の王子達もとても仲が良い。

 そんな王子達は四人とも希少な光属性である。そのため、他国からもかなり注目される存在だった。

 第二王子エストの婚約者は、ジャキナ王国という国の王女だ。

 ジャナキ王国は、この国とはかなり離れている。

 大陸の最北にこのビーダイド王国があり、その下には鉱山の多いニイダ王国、酪農の盛んなソリナ王国が並んでいる。そのふたつの国の向こう側にあるのが、ジャナキ王国だ。

 そこは国土のほとんどが農地であり、ビーダイド王国が冷害によって困窮したときは、かなり食糧を輸入していた国だった。

 この国の友好国であり、向こうの王女が嫁ぐ形になるとはいえ、光属性の王子と婚約を結んだ唯一の国である。その王女をユリウスが迎えに行く理由を、マリーエは話してくれた。

「クロエ王女殿下は、この国の習慣や気候などに慣れるために、この王立魔法学園に留学することになったのよ」

 ちょうど外交でジャナキ王国を訪れるユリウスが、彼女と一緒に帰国することになったようだ。

 他国の王女とはいえ、いずれマリーエともアメリアとも義姉妹になる。慣れない他国暮らしで大変だろうから、色々とサポートが必要となるだろう。

 その点に関しては、マリーエにもアメリアにも不満などはない。

 ただそのジャナキ王国は、険しい山脈を挟んであのベルツ帝国と隣接している。

 マリーエは、帝国に近い場所にユリウスが行くことを心配しているのだ。

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