第650話 孫と遊んで余生を過ごすのも悪かねぇな。
ステファノには兄がいる。5つ年上の長男ルドは料理人としての修業を終えて3年前からバンスの店に戻っていた。
今はまだ父親のバンスも元気だが、いずれはルドが店を継ぐことになるだろう。
線の細いステファノと違い、ルドは父親似のがっしりとした体格をしていた。その癖料理人としての繊細さを備えているところも父親譲りだった。
15歳から料理人としての修業に出て、25歳になってバンスの元に戻ってきた。
既に妻があり、娘を1人授かっている。料理の腕はバンスが認める程で、ステファノがいなくても店の将来には心配がない。
(鍋を振るのがしんどくなったら、孫と遊んで余生を過ごすのも悪かねぇな)
客が帰った閉店後、店の後片付けを済ませて煙管で一服する。白い煙をぽかりと吐き出しながら、そんなことを考えるのがバンスの楽しみとなっていた。
「親父、そろそろ飯にしないか?」
「おう、今一服し終わったところだ」
表の戸締りを確かめ終わったルドが厨房のバンスに声をかけた。
今日はルドの妻エリカが娘を連れてきている。店が休む前日にはルド家族がバンスの家に集まって食事をするのが通例となっていた。
夕食の支度はエリカがした。最初の内は、料理人2人に自分が作ったものを食べさせるのは気後れすると言っていた。
今ではそんな気負いもなくしたようだ。家庭料理は店で出すものとは違う。何よりも体を癒し、心を和ませるものだ。
いかつい顔のバンスが焦げた野菜の欠片まで残さず平らげてくれる。それが何よりの励ましだった。
「じーじ、おいしいねぇ」
「おう、そうだな。テラのおっかぁは料理上手だな」
孫娘のテラにそう返しながら、バンスは若干の違和感を感じていた。
(すこぉし苦みがあるようだが、こいつは野菜のアクが出たもんか……)
「じーじのご飯もおいしーよ」
「そうか? 食いたいもんがあったらじーじに言いな。何でも作ってやるからよ」
「アタシじーじの玉子焼きが食べたーい」
「そうか! んなら、ちょっと待ってろ。今作ってきてやる」
バンスは腕まくりしながら立ち上がった。踏み出す足がテーブルの脚に当たって、一瞬体が揺れる。
「親父、疲れてるんじゃないのか?」
「何を? ちょっと躓いただけじゃねぇか。年寄り扱いするんじゃねぇ!」
気づかうルドに強がりを見せ、バンスは竈の前に立った。弱めてあった竈の火を起こし直し、手早く玉子焼きを作り始める。
テラが好きな玉子焼きは砂糖を贅沢に使った甘めのものだ。
卵の焼ける音に重なって、背中からはルド一家の笑い声が聞こえてくる。
「すぐに焼けるからなー!」
肩越しに顔を振り向けて笑いかければ、テラが手をたたいてはしゃぐ。年を取るってのも悪くねえかもなと手元に戻した視界がゆらりと傾いた。
(何だ――?)
まっすぐ立っているつもりが、上も下もわからない。左肩からキッチンの床に倒れ込んだ時には、もう体の感覚がなくなっていた。
残った意識でバンスは息子を呼んだ。
「ルド……。ルド」
「うん? 呼んだか、親父――? 親父? ――どうした!」
「きゃあっ!」
倒れたバンスに気がついてルド夫婦が騒ぎ始めた。立ち上がったルドは、足を踏み出そうとして腹に力が入らないことに気がついた。足元が綿を踏むようにおぼつかない。
「何だ、これは? 親父、大丈夫か!」
一歩進むごとに目の前が暗くなり、膝の力が抜ける。最後は跪き、四つん這いになってルドはバンスのところまで進んだ。
「親父、しっかりしろ!」
「ははあ……ぐふっ!」
バンスは目を閉じ、口から泡を吹いていた。
「こ、これは……食あたりか? はあ、はあ」
胃のむかつきを感じながらルドはそう判断した。自身が料理人であるルドは食中毒の症状に敏感だった。
「親父! しっかり! 吐け! 吐いちまえ!」
ルドはバンスの口から指を入れ、喉の奥を刺激した。たまらずバンスは音を立てて胃の中身を吐しゃした。
「エリカ! 食あたりだ! お前たちも食べたもんを吐き出せっ!」
震える足で立ち上がり、ルドは流しのへりを掴んで身を支えた。今度は自分の喉に指を入れて胃の中身を吐き出す。腹の中が焼けるように熱く、吐しゃ物には血が混じっていた。
腕で口を拭い、ルドは這いずるように水瓶に取りついた。木の蓋を払い落し、柄杓で水をくむ。
「親父、水だ! 水を飲め! エリカ、お前たちもだ! 水を飲むんだ!」
ぶるぶると震える腕から柄杓の水がこぼれていく。震える右手を左手で押さえ、ルドはバンスのところまで水を運んだ。
「飲んでくれ、親父。水だ……」
バンスを抱き起す力はすでにない。床から頭だけを僅かにもたげさせて、ルドはバンスに水を飲ませた。
ドタンと大きな音を立てて、エリカが床に崩れ落ちた。テラの小さな体もその隣に倒れている。
(エリカ! テラ……! 誰か、助けを……)
かすれる意識を必死にかき集め、ルドは台所の床を這い進んだ。勝手口から外に這い出し、隣家に向かう。
(誰か! 来てくれ……助けてくれ!)
力が抜けていく。目の前が暗くなる。ルドは声も出せなくなっていた。
上下の感覚すらなくなってきた。額に当たる固さを地面だと信じ、ルドは隣家へと手足を動かした。
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